人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

フランスで見つけたピザパン

今週のお題「ピザ」

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パリにはピザパンが売っていない

 当時私は近所のパン屋にあるピザパンに病みつきになっていました。パン生地の上に玉ねぎスライス、ピーマン、ソーセージともりもりに乗っていたピザパンが大好きでした。何よりも野菜が美味しくて、特に玉ねぎが甘くてトロリとしていてなんとも言えないのです。そんな私がフランスに旅行に行くことになって、パリでパン屋を覗くのを楽しみにしていました。外国のパン屋も日本と同じようなものだと思っていたのです。

 実際に行ってみると、旅行者の私たちが気軽に食べられるものと言ったら、クロワッサンとショコラくらいしかありません。ショコラと言うのはディニッシュ生地のなかに板チョコの柔らかいのを入れたような感じです。パンの種類のなさにカルチャーショックを受けて、なぜこうも種類が少ないのかと不思議に思ったものです。でもここはパリで日本とは違うのだとすぐに切り替えます、「郷に入らば郷に従え」と言いますから。

 ある日の土曜日の夕方にパン屋の前を通りかかったら長蛇の列ができていました。何事かと思ったら、翌日は日曜日で店が休みになるのです。だからパンを、それもバゲットを、誰もが2~3本脇に抱えて店から出てくるのです。この街に住んでいる人はパン屋で一番安い、1本100円程度のバゲットしか買わないようなのです。東京と同じくらい家賃が高いパリでは、普通の人は質素に暮らしているのだと気付いたのです。何もかもが高くて、旅行者は最初からもう諦めている街であるパリ。そんな街に住んでいる人たちはさぞかしお金持ちに違いないとばかり思っていたので、またもやカルチャーショックです。1.5ユーロのクロワッサンは特別な日にしか買わないのだと聞いて、日本にあるディニッシュのような物があるわけないのだと納得しました。

パンを切るゾリゾリッという音が

 フランスパンと言えばバゲットで、今まで食べた中で最高のパンは格安ホテルの朝食でした。そのホテルはパリの東駅に近い路地裏にひっそりとありました。寝ぼけ眼で食堂のテーブルに座っていたら、隣の部屋からパンを切る音が聞こえて来たのです。「ゾリゾリ、ゾリゾリッ」。なんと美味しそうな音なのでしょう。こんな音は今まで聞いたことがありません。こんな音が出るバゲットってどんなパンで、どんな味がするのと、早く食べたい気持ちが抑えきれませんでした。ホテルの人が持ってきてくれたのは、期待通りのパンでした。パンの皮はカリカリなのに中はふわっとしています。一口噛むとサクッと言う音がして、その後に美味しいパンの味が口いっぱいに広がります。コーヒーとバゲットだけの質素な朝食ですが、私にとっては最高のごちそうでした。残念なことに、この時以来そんな美味しいパンに巡り合ったことがないのです。

ストラスブールでピザパンを見つけた

 パリの東駅からTGVに乗ると2時間ほどでストラスブールに着きました。この街はフランスでありながら、ドイツとの国境に近いので独特の雰囲気がありました。街の中心には赤い大聖堂があり、当時はその赤い色は金属の銅の色だとばかり思っていました。ところが最新のガイドブックによると、山から切り出した赤色砂岩で造られたと言うのです。とんだ勘違いをしていたようです。大聖堂がまじかに見えるカフェのテーブルに座って、私は一息ついていました。物価が高すぎて少し嫌気がさしていたパリから逃げてきたのです。

 パリと違って物価が安く、落ち着けるこの街がとても気に入りました。偶然見つけたパン屋に入ってみると、なんと日本のパン屋と同じ光景が目の前に!ブルーベリーや洋梨やらの色とりどりのディニッシュ、サンドイッチ、ホウレンソウのキッシュもあります。何より恋しく思っていたピザパンを見つけたのです。思いがけず出会えた喜びで感激した私はやたらとパンを買い込みました。結果的にこの街でパリでのストレスを解消できたのですから、未知の街には思いもよらない発見があるものです。

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コロナ禍の美容院で座り話チャンス

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 1年ぶりに美容院に行ってみたら

 昨日久しぶりに美容院に行きました。1年以上も伸ばしっぱなしにしていた髪にとうとう嫌気がさしたからです。コロナウイルスの感染防止のためか、店のドアは開けっ放しになっていて、ちょうど誰もお客さんはいませんでした。ササッと切って早く帰りたかったので、「ラッキー!」と心の中で思いました。ここの美容師さんは必要なことしか話さないので、少しの間じっとしていれば済むはずでした。ところが、待っているお客さんがいないせいなのか、あるいは担当してくれた美容師さんの性格もあるのか、やたらと話しかけてくるのです。世間話を私に仕掛けてくるので、「コロナなのになあ、いいのかなあ」などと最初は躊躇していたのです。美容院の中は美容師さんと私のふたりだけ、もちろんその人はマスクをつけています。私もマスクしなくていいのかあと思ったのですが、その必要はないようです。

切り替えてお仕事ウオッチング

 美容師さんが積極的に話しかけてくるので、私も立ち話ならぬ、座り話をしようと決めました。「こういうお仕事って、コロナになってから何か変化はありましたか?」と遠慮なく質問したのです。これじゃあ、まるで何かの取材ではありませんか。でも気になることをズバリ教えてもらう貴重な機会でもあります。このチャンスを逃すなんて悔やまれます。幸いなことにこの美容院は自粛期間中もお客さんが途絶えることはなかったそうです。話を聞いてみると、人というのは髪の毛が伸びると、やはり気になって我慢できないらしいのです。髪が伸びてボサボサになると、自然と気分も悪くなるので、髪を切ってさっぱりしたいのです。それに、リモートワークの人だって、画面に自分の顔が映ってしまうので、どうしても髪の毛が気になってしまうらしいのです。誰だってみっともない自分は他人に見られたくないからです。

年末に実家に帰れない訳は

 ササッと髪を切って帰るつもりが意外な展開になってしまいました。まさか美容院で座り話に夢中になるとは予想もしませんでした。仕事の話のあとは年末の帰省についてで、美容師さんには悩みがあるのです。故郷が新潟で田舎なので人の目がある。だから帰りたいのだが帰れない。帰ったとしても友達に会いに出歩くことはできないのはわかっている。でも両親がいる家に帰るだけでホッとできる。今の自分はあの場所で落ち着きたいだけなのに。両親も来るなとは言わないのに。現実は自分が帰ることで、もし両親が隣近所の人に何か言われでもしたら、迷惑をかけてしまう。それが怖くて今年は帰るのはやめにしたのだと言うのです。その美容師さんの話によると、故郷の実家の玄関先で両親の顔だけ見て帰ってきた!という極端すぎる、そんなお客さんもいるらしいのです。

 世の中go-toキャンペーンで県をまたぐ移動が自由になったと言うのに、人の心にはブレーキがかかったままなのですね。美容師さんは感染リスクがゼロにでもならない限りは実家に帰れそうにありません。それがいつになるかは想像もつきませんが、人間はどこかで心に折り合いをつけなければ限界になるときが来てしまうのでは・・・。

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贈り物とポインセチア

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歓迎されない贈り物とは

 いつの間にか11月も後半に入って、そろそろ贈り物の季節がやって来ました。贈ってくれた方には大変申し訳ないのですが、貰って嬉しいものとそうでないものがあることは事実です。美術家の森村泰昌さんによれば、歓迎されない贈り物のことを、「いやげ物」と呼ぶそうです。旅行などに行った人から貰う土産物にひっかけてそう呼ぶことにしたようです。漢字にしたら「嫌気物」でしょうか。

 考えてみると、こちらの気も知らずに不躾に送られてくる宅急便での贈り物は「これで義理は果たした」と言わんばかりではありませんか。手紙が添えられているわけでもないし、社交辞令みたいなものなので「こんな習慣は要らないのでは?」と疑問に思うのは当然です。それで、お返しをしなかったら、相手はもう送ってこないのではと考えたのです。予想通りそれ以来、もう贈り物は届きませんでした。これでいいのです、失礼を承知で言うと、人から頂くものはお菓子でも何でも本当に嬉しいと思えるものはないからです。一度、文句を言ったら「人が贈ってくれるものにケチをつけるもんじゃない」などと怒られてしまったことがあります。

人を悩ます贈り物とは

 良かれと思って贈った物が相手を悩ませ、困らせてイライラさせてしまう。送り主はまさかそんなことになっているとは夢にも思わないのです。森村さんによると、テレビのワイドショーでは花束の贈り物を迷惑に感じる人が多いと話題になっていたと言うのです。意外です、映画でもドラマでも美しい花束を差し出されて嬉しくない人にはお目にかかったことがないからです。毎日の水を取り替えたり、枯れたら処分する手間がめんどうだと敬遠する人が増えているのです。どうせならお菓子の方が手間いらずでよっぽどいいと考える人が多いのでしょうか。たしかに花より団子と言いますが、緑があるのとないのとでは、部屋の雰囲気が全然違ったものになるのです。

 日本って自分から花屋で植物を買い求める人ってあまりいないと思うのです。毎日のように花屋の前を通って買い物に行くのですが、店先にお客さんを見かけることはめったにありません。母の日ですらカーネーションの鉢植えが売れないのですから。一方で、以前旅行したロシアの街角では、花束を抱えている人たちでいっぱいで驚きました。「どうしたの?今日は何かの記念日?」と聞いて回りたくなったほどです。よく見ると地下鉄の駅の前には必ず「花屋」の看板が出ているのです。「どうしてこんなに花屋があるの?」。街を行く人々が持っているのは、大きな花束もあれば、小さな花束もあります。それらは美しい花柄の紙袋に入れられて、街に彩りを与えてくれているのです。

ポインセチアを贈ったら

 「あれは育てるのが難しいのよね」。贈ってからしばらくたって、友人に遠回しに言われて初めて気づきました。きっと喜ばれると思ってプレゼントしたポインセチアが迷惑以外の何ものでもなかったことを。ある日何気なしに花屋の店先を覗いたら、可愛いポインセチアが目に留まり、できれば側に置きたいと思ってしまいました。ポインセチアと言っても、燃えるような赤、可愛いローズピンク、優しい色合いのサーモンピンクと様々です。葉っぱがまだら模様になっている珍しいものが気に入ったのですが、自分用に買えば何の問題もなかったのです。それなのに、自分の独りよがりの気持ちから、友人にポインセチアを贈ってしまいました。すっかり忘れていたのです、自分には「緑の手」の才がないことを。どちらかというと、いつも植物を枯らす方なのだということをケロリと。それにしても人への贈り物というのは実に悩ましいものです。

 私立中学の先生をしている知人などは、生徒の父兄から贈り物を貰うのに慣れっこになっています。お中元やお歳暮の時期になると玄関は贈り物で溢れんばかりになるそうです。でも彼女にとって一番嬉しい贈り物は何なのか、聞いてみたら、それはデパートの商品券でした。確かにかさ張らず、処分に困ることもなさそうです。

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鍋を囲んだら国際交流

 

今週のお題「鍋」

 

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幸運から始まった結婚式

 5年ほど前、東京の高級ホテルのウエステインに泊まる機会がありました。姪の結婚式がそこで行われたからで、移動の必要が無くて便利だろうとの配慮から部屋を取ってくれました。インターネットで予約した、早割で格安の5階の部屋だそうで、どんなところか楽しみでした。ところが、当日ホテルに行ってみると、なんと部屋が用意できないと言うのです。ホテル側のミスであることは明らかで、印刷した予約確認書を見せると、「少々お待ちください」と言われました。仕方なく親戚一同しばらく待っていると、部屋の用意ができたと言うのですが、まさかの12階と聞いてびっくり。しばらく待たされた分、部屋がグレードアップしたのです。またとない幸運が舞い込んできて「私たちはなんてついているの!」と一同大喜びです。部屋に行ってみると天井が高くて、窓が大きくて眺望がすばらしい、さすが12階だけあります。その窓からの光景は5階だったらとても見ることはできなかったでしょう。

居酒屋で鍋を囲んだら

 結婚式の後、私たちは二次会で予約してあった居酒屋に行きました。ちょうど来るはずだった台風がそれて北上したおかげで、いつもなら満席のお座敷も悠々と座れました。そこの店はちょっと変わっていてエキゾチックな雰囲気が漂っているのですが、メニューはいたって普通でした。大勢なので、みんなで食べられる鍋を注文しました。その時注文を取りに来て、お世話してくれたのが、一目で外国人だとわかる若い女性でした。「どこの国の人?」と聞くと、「ネパール」。

 私の中ではネパールと言えばヒマラヤ山脈で、ヒマラヤと言えばアンモナイトが思い浮かぶ。元々は海の底だったのに、地殻変動によってうず高く盛り上がったらしい。その証拠に3千メートル辺りを歩いていると、小川にはアンモナイトの化石がゴロゴロ。そんなことを想像するといつも時空を超えたロマンを感じてしまう。

 そんなロマンの地から来た彼女はなかなか達者な日本語を話すのです。誰かが面白がって田舎の方言を使ってみると、それでもちゃんと通じてしまう。「えっ?わかるんだ、すごいねえ!」と面食らう。ちょっとからかってみただけなのに、その臨機応変な対応に感心してしまった。以前は大阪にいたこともあるらしく、標準語でなくても困らないらしい。まさか、居酒屋で国際交流できるなんて夢にも思わなかった。人なっこくて、ユーモアのある店員さんで、私たちはとても楽しい時を過ごせたのです。

居酒屋で子供たちがのんびり

 私たちは夕方の5時頃から鍋を囲んでワイワイやっていたのですが、しばらくすると、子供が3~4人でいるのに気づきました。最初は親と一緒だとばかり思ったのですが、いつまでたっても親は現れません。おそらく何かの事情があって、土曜日の夜に子供だけで外食させているのでしょう。その中のひとりの女の子はノートに何かを書いているようです。まさか、ここで宿題?をしているのではと疑ってしまいます。あとの子たちは何やら話をしていますが退屈している様子でした。トイレに行くたびにその席の側を通るのでどうしても気になってしまうのです。田舎者の私たちは、「東京では子供だけで外食するの?」とびっくりし、とても信じられませんでした。周りを見渡すと、誰も気にしていないようです。思いがけなく、居酒屋でカルチャーショックを感じてしまったのです。

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土鍋で炊くご飯とサバイバル

今週のお題「鍋」

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なぜ土鍋でご飯を炊くの?

 最近、というよりも、コロナが流行る前から新聞や雑誌で「土鍋で炊くご飯が美味しい」と言われてきました。「一度やってみたら、病みつきになって、もう炊飯器には戻れない」らしいのです。そんなことを言われても、めんどくさがり屋の私には馬耳東風です。今使っている炊飯器に不満はないからです。いつでもスイッチを押せば美味しいごはんを炊いてくれる炊飯器があるのに、どうしてわざわざ土鍋を使わなければならないのか。どう考えてもさっぱりわかりません。きっと土鍋でご飯を炊いている人は何かのきっかけがあったのでしょう。友達の家に行ったら、偶然その人が「ご飯を土鍋で炊く派」だったとか、あるいは、炊飯器が突然壊れて、仕方なく鍋でご飯を炊くことになったとか。そんなハプニングでもない限り、こんな便利な時代にご飯を鍋で炊くなどという、原始的な行為はなかなか思いつかないと思うのです。それでも、敢えてこだわって土鍋で美味しいご飯を炊き、密かに楽しむことはお金のかからない贅沢のひとつと言えるのかもしれません。

鍋でご飯が炊けますか?

 考えてみたら、子供の頃、田舎ではかまどで藁を燃やしてご飯を炊いていました。もちろん電気もガスもあったのにです。当時はそのご飯が美味しかったのかどうかなんて、もう記憶には残っていません。それよりも、ガスも電気も使わなくても、ちゃんとご飯が炊けたのだということを思い出したのです。最近は大雨による災害が多くて、沢山の方々が不自由な思いをされました。地震だっていつ起こるかわからないのです。だから、そんな時を乗り切るサバイバル術として「鍋でご飯が炊ける」ことが大切なのだそうです。カセットコンロがあれば暖かいご飯が食べられるのです。

 「鍋でご飯が炊けますか」と聞かれたら、最近はやったことがないので「たぶん」としか答えられません。ただ、子供の頃にお米の水加減は祖母から教えてもらったのを今でも覚えています。手のひらをお米の上に乗せたら、手首の関節のところまで水を入れればいい、確かそんなことだったような・・・。

炊飯器を捨てる人がいるとは

 実を言うと、家の炊飯器はもう10年以上も酷使しているのに、まだまだ健在で有難い存在です。そんな炊飯器と別れるなんてことは考えたこともありません。しかし、驚くべきことにあんな便利な物を捨ててしまう人もいるのです。世にいうミニマリストと言われる人たちです。彼らは基本的に最小限のもので暮らしたいと願い、「もう、僕らに物は要らない」と宣言しているのです。炊飯器が無くても困らない、鍋で立派に代用できると言う考えからです。人はその暮らしに慣れてしまえば、結果的に何も困らないらしいです。「何にもない部屋にいると、なんだか幸せを感じるのです」とまで言い切るのです。

 テレビでよく紹介されている100円ショップの便利グッズは「あったらいいな」です。でも「あったらいいな」は「なくても困らない」と解釈したほうがよさそうです。やたら感心して言われるままに買っていたら、あっという間に便利グッズの山ができてしまうからです。それにコロナ禍で誰もが暇になった、というか、たっぷりの時間ができたのです。時間があるのですから、そんなに便利を追求しなくてもいいのではと思えてきます。それより「今あるもので工夫して何とかする」ことに無い知恵を絞り、それを楽しんでしまうことに意味があるのでは。

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鍋を囲む忘年会は過去のもの?

今週のお題「鍋」

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忘年会は過去のものに?

 だんだんと本格的な冬が迫ってくると、いつもなら忘年会のことをふと考えてしまいます。居酒屋でみんなで鍋を囲み、上司の悪口や仕事の愚痴をグダグダと言い合って笑い飛ばすのです。でも今年はコロナ禍で無理そうなので、やはりオンライン飲み会で我慢するしかなさそうです。街を歩くと「忘年会予約承ります」などというビラがあちこちで目につく、そんな風景は過去のものになりつつあります。本音はパソコンの前ではなく、じかに会って無駄話をしたいのです。最近はスーパーでだって、「おしゃべりは最低限でお願いします」と店内のアナウンスに自粛を促される始末なのです。知り合いに会っても会釈だけで済ませているので、どうでもいい話をしてみたいという欲求が募るばかりです。

 そう言えば、以前は人に会うと、今日は暑いだの寒いだのと挨拶をしていた気がしますが、今はそんな無駄な話をする人は誰もいません。「おしゃべりは控えめに」という心のブレーキが働くからです。立ち話という言葉も消滅の危機にあるのかもと思うのは私だけでしょうか。面と向かってどこかの別の場所でするような中身のある話ではありません。たわいないことを言いあっていたら、それが結果的に気分転換になって気分が良くなった、それだけのことです。

鍋がコミュニケーションに欠かせないのは

 失ってみて初めてその良さに気づくことは多々ありますが、忘年会の鍋料理もその一つではないかと思うのです。特に会社の忘年会については、無くてもいいかなあ、と心の中で思っていたのです。でも考えてみると、仕事以外では話す機会もない人達とコミュニケーションをとるいい機会だったのかもしれません。自分の目の前にちょうど鍋が置かれていたら、みんなの分を取り分けてあげて、話しかけるチャンスです。一人で食べる料理よりもめんどくさいと言えば、確かに面倒ですよね。でもその面倒なところが逆に鍋の効用だともいえるのです。苦手だなあと感じる人や厳しすぎて怖いとばかり思っていた人にも、実は意外な面があるのを発見できます。

 例えば、仕事でたまに一緒になる男性は、仕事はできるのですがいつも威張っていました。みんなから「あの人は怖い」というイメージを持たれていて、敬遠されていたのです。とても気さくに話しかけられるような雰囲気ではないので、世間話などしたこともありませんでした。ところが、噂によるとアルバイトの女の子に交際を迫られて付き合うことになり、あろうことか二人の仲はうまく行っていて結婚するかもとのこと。

彼女の涙を見たら

 自分よりずうっと年上の男性に告白するなんて、当時マスコミで話題になっていた「肉食系女子」の代表です。その女の子に言わせると、「彼は全然怖くない、優しいところもある」らしいのですが、彼女の言葉を鵜呑みにはできませんでした。忘年会で偶然彼氏の隣の席に座ることになりました。思い切って結婚のことを聞いてみると、喜んでこれからの予定を話してくれました。彼女はディズニーランドのホテルで結婚式をするのが子供のころからの夢だった。費用が高すぎるので諦めるように説得したら泣かれてしまった。彼女の涙を見たらとても「ダメだ」とは言えない。だから彼女の望み通りの結婚式をすることに決めた、と言うのです。「この人って、こんな人だっけ?」と彼の意外な面を知って驚いた記憶があります。人は不思議なことに見かけや態度だけではわからないものなのです。

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すき焼きが一番のごちそう

今週のお題「鍋」

f:id:mikonacolon:20201114185220j:plain子供の頃のごちそうはすき焼き

 偶然にも、昨日の朝日新聞に「好きな鍋料理は?」という記事が載っていました。そこでのランキング1位はなんとすき焼きで、2位はキムチ鍋でした。私としては意外で、キムチ鍋はわかるとしても、もっと身体が温まるイメージのある寄せ鍋が1位で人気があると思ったのです。そんな私はすき焼きが鍋料理の一つであることを忘れていました。正直言って、新聞の記事をパッと見た瞬間に「すき焼きって鍋料理だったんだ!」と気づいたのですから。

 思えば、子供の頃のごちそうと言えば、すき焼きでした。何かのお祝いの席ではお寿司やウナギよりも、やはり上等の牛肉が主役でした。夕飯がすき焼きだと聞かされると早く家に帰りたかった。すき焼き鍋に牛脂を入れると、シュルシュルという音がして、それがすき焼きの始まりです。早く食べたいと言う気持ちが抑えきれません。でもそこは子供なので、肉の良しあしよりも、あの甘辛い味付けに惹きつけられていたような気がします。肉と一緒にネギ、白滝、焼き豆腐などを溶き卵につけて食べる、その瞬間は幸せを感じて、「世の中にはこんな美味しいものがあるのだ」と病みつきになったものです。

 すき焼きを食べた翌日の朝ごはんは昨日の残り物と決まっていましたが、それがまたごはんに合うのです。具材の中でもとくにクタクタになったネギが甘くて、白滝もしっかりと味が付いているのがとても美味しかった記憶があります。子供の頃は肉にこだわりなどなかったわけですが、大人になって我が儘になり、こだわりを持つようになると話は違います。お金持ちでもないのに、贅沢になったおかげで、すき焼きは一番のごちそうとはもう思えなくなったのです。それどころか、あのしつこい味付けが、ちょっと苦手になって来たのです。でも牛肉への関心が薄れたわけではなく、チャンスがあれば最高級の肉を味わってみたいという欲望は消えてはいませんでした。

口に入れた瞬間溶けて無くなって

 2年ほど前、お正月に姉がすき焼きをご馳走してくれることになり、地元の高級店に行きました。テレビでタレントが食べるのを見るだけだった最高の牛肉が食べられるチャンスです。姉によると、一人前5千円、いいえ7千円とかの肉だそうで、興味津々でワクワクしていました。席に座って待っていると、お店の人が肉を運んできて、肉の焼き方を教えてくれました。そして「どうぞ、もういいですよ。召し上がれ」と言われて、口の中に入れました。すると、霜降りの肉の脂がすぐに溶けて消えてなくなったのです。いつもの、あの肉の触感は感じられないのですが、その瞬間「美味しい!」という言葉が口から出たのです。

 みんなの満足そうな顔を見て姉は嬉しそうでしたが、誰かが「肉だけ食べていないで、野菜も食べなきゃ」と言い出したのです。肉に感動するあまり野菜を食べるのを忘れていたようです。それで肉と野菜を一緒に焼いてみたら、後の祭りで失敗でした。せっかくの美味しい肉の脂の旨味が野菜の水分で台無しになったのです。肉を口に入れたら、あの美味しかった旨味はどこに行ったのか、ただの脂っこいだけの代物になってしまったのです。この時とばかりに追加した牛肉は胃袋が受け付けなくて無駄になりました。やはり、肉は肉だけで味わうのが賢明なのだと高い代償を払って知ったのです。

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