人生は旅

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花のお江戸で鬼探し

今週のお題「鬼」

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▲これは蝉谷めぐ美(せみたにめぐみ)さんの『化け物心中』の表紙と裏表紙。この表紙の絵を見ると、いかにも怖そうでホラー小説と勘違いしてしまいそうです。普段の私なら、絶対に手に取らないのですが、その時は「鬼」を捜していたのです。つい本に手を伸ばして、帯に書いてある文句を読んでみたら、「鬼探し」の文字が。「まあ、これでも読んでみるか」と軽い気持ちで買ったわけです。

鬼探しの始まりは

 この小説の舞台は芝居小屋が盛況だったころの江戸の町で、読み始めると、聞きなれない、難しい漢字言葉に幻惑されてしまいました。この時代の都会の女子の楽しみは歌舞伎で、誰もが贔屓の役者に熱をあげていたのです。物語の始まりは芝居小屋での役者の本読みの集まりでした。その場には6人の役者がいたのですが、鬼がそのうちのひとりを食べてしまった。そして鬼はその人物に成りすましているというのです。それで、芝居小屋の座長から鬼探しの依頼を受けたのが、元女形の魚之助と鳥屋の藤九郎でした。魚の助はかつては一世を風靡した女形で、引退した今でも女の格好をしていて美しいのです。相方の藤九郎は鳥屋の息子で、鳥屋と言っても焼き鳥屋ではなく生きている鳥で商売をしているのです。でも女形と鳥屋がどうして知り合いなのか、不思議でなりません。実は藤九郎が可愛いカナリヤを嫁に出した相手が魚之助だったのです。

出刃包丁で片足を切られた美形の女形

 江戸時代の芝居小屋の知識などない私が、面白がって読み進めていけたのは、ふたりの軽妙なやり取りのおかげでした。魚之助が「そやからおまえは鳥頭なんや」と藤九郎を馬鹿にし、「人の上っ面しか見えてへんのか、お前は」と一喝する。顔も美しいのですが、頭も切れる、人の内面までもお見通しの人物像が魅力的なのです。いつもふざけているようでいて、物事を観察する目は鋭く光っています。ですが、足元を見ると、右足が膝の下からストンと消えています。人気絶頂の時に客に出刃包丁で切られたらしいのです。本人に言わせると、客に足を刺されたくらいで、足を失くしたわけではないのです。足を失くした本当の原因は、自分の中に住み着いている鬼のせいなのだ。あの時、客に刺されたとき、すぐに舞台を降りて、すぐに医者に走れば足は失わずに済んだのだった。でも役者の性なのか、刺されてもなお気丈に演じることが、自分の宣伝になる絶好の機会だと思った。だからその辺にあった赤い手ぬぐいで足をきゅんと縛っただけで、何も起こらなかったかのように芝居を続けたのだ。どうもそれがいけなかったらしい、ばい菌が入って壊疽になり、役者の命ともいえる足を失ってしまった。芝居の鬼に唆されて掴んだ名声の代償はあまりにも大きかった。今でも鮮明に思い出すのは、客が刺した足の上にふわりと布をかぶせると、その布が真っ赤に染まった。すると客はその布を口に含みちゅるちゅると吸って恍惚の表情になっていた。役者が憎いから刺したのではない。人魚の尾びれが欲しかっただけなのだ。歪んでいるかもしれないがこれもまた狂おしいほどの愛なのだと気付いた。

鬼が暴く役者の本性

 鬼は「残酷で非道な生きもん」と言われていますが、この小説の中に出て来る鬼は心優しくて純粋そのものです。先の6人の役者のうち5人は皆が心の中に鬼がいて、外面は綺麗なのに中身ときたら酷いものと本物の鬼が嘆く始末です。己の欲のためには、平気で人を切り捨て、挙句の果てに人を殺そうとまでする。芝居で心中物を演じているせいか、彼らにとって殺しはもはや日常そのもので、実際に人が殺されそうになってもさほど驚きはしない。役者は常に死と隣り合わせの世界に住んでいて、自分が生き残るためなら、なんだってする。それにもはや何が芝居の世界で現実なのか、その境目がわからなくなってきているのだとか。

 特筆すべきは、鬼にはなぜ人間が愛する人を殺そうとするのかわからないのです。曽根崎心中の中で徳兵衛がお初の喉元を刃物でグサッとやる、なぜ愛する女を殺そうとするのか理解に苦しむ。だから人間を心底恐ろしいと思った。それなのにその恐ろしい人間を鬼は愛してしまった。あんなに切望していた芝居の舞台も度量のない人間の代わりに立派に勤めてやった。愛する人が己の才能のなさに涙にくれる姿を見たくなかったからなのです。魚之助にそう指摘されてしまった鬼は、不思議なことに瞬く間に消えてしまったのです。

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