人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

本にカバーを掛けるのは

 

自分のは見られたくない、でも他人のは見たい

 昨日の朝日新聞の『天声人語』は読書週間が始まったこともあって、書店で本にカバーをかけてもらう話から始まった。店員さんに「カバーをかけますか」と聞かれたら、「はい」と即答する。執筆者は「自分が選んだ本の表紙が覆われて、題名が見えなくなる。その瞬間が私は好きだ。ちょっとした秘め事ができたような不思議な気分になる」と感じている様子。あれが秘め事!?と私は少しビックリし、感受性が恐ろしく欠如しているらしい自分はそんなことを夢にも思ったことはなかったと気付く。

 私も同様に書店で本にカバーを掛けてもらう派だが、その方が都合がいいからに過ぎなかった。例えば、本についている帯が邪魔だとか、そのままでは本が汚れてしまうとかの”あったらいいなあ”的な理由でそうするだけだった。いや、正直に言うと、本当のところは自分がどんな本を読んでいるのか他人に知られてしまうのが嫌なのだ。読んでいる本によってこちらの人間性まで露わになるように思えて、できれば避けたい。たぶん、どんな本を読んでいるかで、その人がどんな人なのかだいたいのところは分かると信じて疑わないからだろう。読んでいる本からは素直にそのまま、読み手の読書傾向や趣味を窺い知ることができる。だから、見知らぬ他人に自分のことをジロジロ見られているように錯覚してしまうのだ。それを避けるための予防線を張ること、私にとってはそれが人前で堂々と読書するために不可欠なカバーを掛けるということだ。他人から見れば、何を読んでいるか分からない奴だが、当人にとっては一番落ち着く読書の仕方と言える。

 『天声人語』の中で、「かつて社会学者の清水幾太郎が、電車の中で他の人が持つ本の題名が目に入ると『見てはならぬものを見た』ようで恥ずかしくなると書いていた」とあるが、私は正反対の反応をしてしまう。むしろ他人が何にあんなに夢中になっているか、どうしても知りたくて堪らなくなってしまうのだ。だいたいが自分の本の題名は絶対知られたくないのに、他人のは知りたいだなんて、なんて利己的な遺伝子の持ち主なんだと我ながら穴があったら入りたくなる。だが、こればっかりはしかたがない、心の声が私を責め立てるのだから。

 電車の中は密室で、無視してやり過ごせばいいのに、そんなどうでもいい行為ができない。嫌でも目に付く本を読んでいる他人にいつの間にか没入している。その人ではなくその人が手にしている本に目が惹きつけられる、本のタイトルが気になってしようがないが、こっそりやらないと気付かれそうで恥ずかしい。私はあなたの本になんて興味はありません、という顔をしながらも、じっと息をつめて本のタイトルを何とか見られないかと機会を狙っている次第だ。本を熱心に読んでいる状態では、本のタイトルは見られそうもない、本を閉じる瞬間が来るのをじっと待つしかない。そうやって何とか他人の本のタイトルを盗み見るのに成功する。その瞬間、「なるほど、あの本だったのか」と見知らぬ他人に変な親近感を抱くこともあった。あるいはその本が自分の好みとかけ離れたジャンルだとわかると、好きの基準は人それぞれなのだと今更ながら痛感したりと心模様は揺れ動いた。

 以前韓国ドラマに嵌っていた頃、多くの人たちと同様に韓国語を勉強していた。主に頼りにしたのはNHKラジオのテキストだが、私はそのテキストにもカバーを掛けていた。もちろん書店ではかけてもらえないので、自分で好みの包装紙で手作りしたカバーだった。その時もそのままでは目立つから、いや、不特定多数の人たちに自分のことを知られてしまうから、それが鬱陶しくてかけていた。電車内でそのテキストを片手に扉の近くに立って、人に見えないように指でハングル文字を書いて覚えていた。時々、何かの外国語を堂々とテキストを開いて勉強している人を見かけるが、自分にはああいう真似はとてもできそうにないと思う。

 

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