人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

本棚の中身に助けられた話

今週のお題「本棚の中身」

時間を潰す必要が、でもどうすればいいのか

 以前親戚の葬儀で田舎に行った時、その土地の風習のせいで2~3日そこに留まることになった。普通はお通夜の翌日は告別式と決まっているようなものだが、土地柄なのか、”日が悪い”と言うことで、2日ほど時間が空いてしまった。さて、異邦人の私たちは一体どう過ごしたらいのだろうか、何をしたらいいのかとほとほと困り果てた。それなのに、地元に住んでいる彼らは、羨望の目で見つめる私たちの視線などにお構いなく、当然のようにそれぞれの職場に出掛けて行った。

 お通夜と葬式の間にぽっかりと空いた時間を、無駄なく使える彼らをただ見つめるしかない私たち一同は檻の中に閉じ込めれて自由を持たない動物と同じだ。監禁されているわけでもないのに、自由がないと思えるのはさしあたりこれと言って何もすることがないからだ。何か読むものや見るものでもあれば、どんなにかよかっただろう、でもその時は遊びに来たわけではない。だからこそ、時間の潰し方がわからなかった。もしも、彼らがサービス精神を発揮してくれて、退屈だからとどこかに連れて行ってくれればよかったのだが、そんなことはあり得ない。排他的で、人のことには構わない土地柄なので、天地がひっくり返りでもしない限り、期待などできやしない。

 一応、喪中なので、親戚の人たちがしょっちゅう親戚の家の出入りする。何人もの人たちがやってくるのだが、挨拶をするだけで、そそくさと帰って行く。こちらは誰でもいいから「暇そうだから、どこかに連れて行ってあげようか」などと親切に言ってくれるのを期待する。物欲しそうな目で訴えるのだが、私たちの切なる思いはさっぱり彼らには届かない。「まあ、仕方ないね、しきたりだから待つしかないね」とまるで他人事のように言う、いや、自分たちには関係ないことなのだ。「もし、どこかに行きたいなら、車を貸してあげるよ」と言ってくれる人もいたのだが、果たしてあの片田舎でどこに行けばいいのやら。どう考えても、ショッピングセンターぐらいしか思い浮かばなかった。

 もしもあの状況で家の周りになにか店とかあればよかったのだが、残念なことに何もなかった。たしか前に来た時は2~3軒先に雑貨屋があってそこでお菓子やらアイスやらを売っていた記憶があるが、すでにそこは空き家になっていた。子供がない家や子供がいても結婚しないと跡を継ぐ人がいないので、当然家は消滅する運命にある。

 それで私たちは何か食べたいものがあっても、普段のように外に行けば何でも手に入ると言うわけにはいかない。家のお嫁さんが朝パートに行く前に「冷蔵庫の物は何でも食べていいから」と言ってくれるのだが、なんだか喜べない。野菜は畑でとれたナスやピーマンがたくさんあって食料不足と言うわけでもないのに。今思うと、あれは行動を規制された隔離生活のようなものだった。

 気分転換に散歩でもすればいいのだが、ちょうど真夏で遮るものがない田舎では直射日光が容赦なく照り付けて外にはいられない。太陽の凄まじい熱量に外にでたものの、すごすごと逃げ帰った。これではとても外では過ごせないと諦めた。見渡す限りの水田地帯の緑は眩しいくらい綺麗なのだが、その美しさを眺めて楽しむ余裕はなかった。外がダメなので、自然と私たちの視線は家の中に向いた。家に大勢の人が集まるので、自分の部屋を差し出して、行き場を失ったその家の娘たちの本棚が部屋の隅に置かれていた。今は使われていないその部屋には一時避難したタンスや机が置かれていていっぱいだったが、私たちにとっては誰にもじゃまされないホッとできる空間だった。

 自然と本棚に目がいった、「一体どんなものを読んでいるのだろうか」。正直言って、その持ち主にはたいして興味はないが、本棚の中身には興味津々だった。まるで人の心の中をのぞき見するような気分になるから不思議だ。ざあっと見てみたら、私とは全く違うジャンルが好きらしく、よさそうだけど、手を伸ばす気にはならない話題の本もあった。この際だから、いい機会だから、今読んでしまおうかと思って、一気に読んだ。まるで、異文化体験のような感覚だった。ただ、人様の本棚を本人の断りなく、勝手に好き放題いじりまくることに少なからず後ろめたさもあった。だから少しドキドキしながら、誰も来ないことを願いながら読んでいた。

 幸運にも、本棚の持ち主から「何勝手なことしてるの!?」なんてことは言われずに楽しむことができた。時間を潰さなかければならない羽目になり、どうしようかと悶々としていたが、あろうことか、他人の本棚の中身に助けられた。

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