人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

故障を楽しむ

少しくらい不便でも、まあいいか

 先日の中日新聞の投稿コーナーの『あけくれ』のタイトルは「故障」だった。故障と聞くと、すぐに気持ちが穏やかではなくなり、早く元の状態に戻したくなるのが人の常だ、と思っていた。故障のままではにっちもさっちもいかないので、修理を頼むか、あるいは、新しい物を買いにビックカメラなどの量販店に急いで行かなければならない。不便なのに、慣れていないから、仕方がないのである。便利であることを最優先し、快適な生活を送るためには必須の事項だからだ。その快適な生活が故障によって、一瞬にして維持できなくなるのは、何とも辛いことだ。背に腹は代えられない、お金がもったいないどと、ふざけたことを言っている場合ではない。一分でも、一秒でも早く元の生活に戻さないと、自分の生活が成り立たない、いや、スムーズに進まなくて、イライラする。それが耐えられないのである。

 だが、驚いたことに、投稿者の川村秋子さんは、故障を受け入れ、そのままで何とかしようとしていた。つまり、前日までの快適生活が一瞬にして消えたのも関わらず、それならそれでよしとし、不便を受け入れようとしていた。例えば、長年愛用していたコーヒーメーカーが粉しか作らなくなり、その先の行程を実行しようとなくなった。すると、仕方がないので、引いた粉をフィルターごと取り出してやかんで沸かした湯を注いで、コーヒーを入れた。普通は言うまでもなく、それはその場しのぎの処置であって、まさかそのままずうっと続けはしないだろう。でも、川村さんは違うようなのだ。誰もが嫌う不便を受けいれ、それどころか楽しんでいる雰囲気さえ、文章には漂っている。

 さらに驚いたのは、トイレのことだ。「1年くらい前に水洗トイレが壊れた。水を流した後の、ほどほどの水が溜まらなくなった」そうで、それならもちろん修理を頼んだに違いない、と疑わなかった。ところが、川村さんは、「洗面器で水を便器に運んで、溜めている」などと書いていて、私が我が目を疑い、訝しく思うことを平気で続けておられるようなのだ。これには正直、どうしてそんな面倒臭いことをしているのですか、と本気で聞きたくなった。だが、「初めはとてつもなく面倒に感じたこの作業も、慣れればそうでもない」と諦観しているようで、ここまで来ると、凄いの一言である。

 ユニットバスの換気扇にしても、故障しているようで、これはなくてもまあいいかとなったそうだ。考えてみると、川村さんの家は故障者が、いや、故障物が続出のお宅で、さぞかし不便だろうと想像できるが、そこの住人にとってはそれほどでもないようだ。それどころか、「プチ不便の生活を楽しめる年齢になった」との言葉で最後を締めくくっている。これは私などには到底真似できないことである。川村さんが言いたいのは、それほど便利を追求しなくても十分生活できるということだ。確かに、現代はやたら滅多らこれでもかと便利を追求しすぎているから、突然不便を強いられるとたちまち狼狽えてしまう。正直言って、かくなる私も不便は怖い、免疫がないから、慣れていないから余計に怖い。不便でも、大いに結構で、何も怖くないと言える人なら、この先何があっても心強いだろう。

 以前、新聞でベランダに設置した太陽パネルだけで電気を賄っている人の話を読んだ。その人は当然のことながら、洗濯機を持っていない。ひとり暮らしのその人は、洗濯はひと昔前のように、お風呂に入った際に手洗いで済ませている。ひとりだから、それで十分で、テレビはないので、ラジオを聞いて過ごしている。何よりも、自分が作った電気だけで生活できていることにとても満足しているそうだ。

 私は今、毎朝、スマホのアラームで起きている。少し前まではICレコーダーの目覚ましで起きていたが、電池の消耗を遅らせるためにやめることにした。もはや生産中止になって、買いたくても買えない商品をできるだけ長く使うためである。私がICレコーダーに危機感を感じるのは、昔は音量が13で十分だったのに、今ではマックスの30近くでないと寝過ごしてしまうことだ。どう見ても、お年でガタが来ているのは間違いない。もうかれこれ8年ぐらいになるだろうか。願わくば、できるだけ長くこれからもICレコーダーと付き合っていきたい。

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