人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

キャベツ

目の前から、キャベツが消えた

 先日私はスーパーで、信じられないような体験をした。と言ってもたかがキャベツの話で、第三者にはとるに足らないことかもしれない。その時の私はキャベツを買わなきゃと思っていたわけでもなく、買おうかどうか迷っていた。実は家にまだ少しキャベツが残っていたので、その日の夕食に特売のメキシコ産牛肉とキャベツの炒めものを作るのには十分だった。それでも、余裕があったほうがいいので、さてどうしようかと思案していた。スーパーの野菜売り場の棚にはキャベツが2個だけ置いてあった。値段はひとつ178円で、以前よりは少し高めだった。その下の棚には半分に切ったキャベツが山ほどあってひとつ98円だった。

 いくら山ほどあっても、半分のキャベツを買う気にはなれず、私が見つめるのは一個丸ごとのキャベツだけだった。どう考えても、二対一でキャベツとむき合う人間の邪魔をする人などいないと思っていた、まあ自分だけかもしれないが。ところが、突然目の前に人の手が伸びてきて、キャベツを一つ持ち上げて、それをカゴに入れた。その瞬間私は自分もこの人のようにキャベツを買おうと決心した。残りのひとつは私のものだと信じ切っていた。ところがあろうことか、その人は続けてもう一つのキャベツも当然のようにカゴに入れたのだった。ええっ!と私は声を上げそうになったが、ドラマでそういうシーンもあるが、現実なのでとてもできない。まさかキャベツを一度に2個も買う人がいるだなんて、長く生きてきて初めて遭遇した。

 その人はキャベツを2個かごに入れると、颯爽と去って行ったが、後に残された私は茫然としたまま動けない。確かにあのキャベツは私の物になるはずだったと後悔してももう遅い。トンビに油揚げをさらわれたようなもので、なんだか自分が相当な間抜けのように思えた。それで、このなんだかへんてこな喪失感から気をそらすために、買う気もないのに香辛料のコーナーや、インスタント食品等の棚を見て歩いた。そのうちに何とか平常心を取り戻し、キャベツのことはもう考えないことにした。

 そもそも私があの人なら、誰かが自分の欲しい物の真正面に立っていたとしたら、横から手を伸ばしてその商品を取るだなんてことは絶対しないだろう。あるいは、急いでいたとしたら、きっと一言声をかけて断ってからすると思う。だいたいは、いつも少し待てば、その場から人はいなくなるので自分の番を待てばいいだけのことだ。ただ、今ならこうも考えられる、あの時不意に突き付けられた喪失感でオロオロするくらいなら、初めからさっさとキャベツをカゴに入れてしまえばよかったのだと。たとえ、それを買おうか買うまいが迷っているとしても、とりあえずキープして置く、そのことで平常心を失わずに済むのだから。カゴに入れたとしても、後で必要ないと判断したら棚に戻しておけばいいだけのことだ。ましてやたった2個しかないのだから、もっと想像力を働かせるべきだった。今回の事で、自分がどれだけボオーッとして生きているのか思い知らされた。

 キャベツで思い出すのは、冒頭の写真でわかるように「これってキャベツの親戚?それとも白菜の新種?」とも思える謎の野菜のことだ。この不思議な野菜を発見したのはコロナ前に行ったロシアのサンクトペテルブルグにあるメガマーケットの野菜売り場だった。興味半分で数えてみたらレジが53台もあり、品物の搬入はフォークリフトで行われていた。当時は白菜のフワフワした柔らかい葉先を想像して、形はキャベツでも触感は白菜に近いのだとばかり思っていた。実際に買って食べてみる機会はなかったが、改めてよく写真を見てみると、葉がゴワゴワしていて固めな印象を受ける。つまり、葉の模様は白菜そっくりなのに、それは見かけだけなのだ。果たしてどんな味なのかも気になるが、それよりも、私にとってはこんな見たこともない不思議な野菜に出会えたことが嬉しかった。だから、これは絶対写真に撮らなきゃとデジカメのシャッターを押した。

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