人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

にんじん

読み始めたら、ページを捲る手が止まらない

 最近になってようやく、この本、ルナアルの『にんじん』を買って読んでみた。もう長いこと、気になっていたにも関わらず、頭の片隅には居座ってはいるものの、実際に本を手に取る機会がなかった。本屋にはしょっちゅう行っていたのに、手に取るまでには至らなかったのは、この本が見つからなかったからだ。要するに文庫のコーナーを探してみても置いていないのだ。普段、新聞などを読んでいると、どこかで必ずこの本のことが話題に上る。いわゆる、世間でよく言われる名作なのだそうだ。断片的に思い出すと、「にんじんと呼ばれる少年の瑞々しい成長物語」と書かれていた。だが、一体全体具体的にどんな物語なのかは誰も教えてくれなかったから、知りたいと言う欲求は余計に増すばかりだった。長い間、『にんじん』のことが頭の中を通過しては消えて行くのを繰り返していた。

 そんなある日、朝日新聞の『声』に80歳の女性の投稿が載った。その中に、「『にんじん』の中に出て来るオノリイヌのように老いに逆らって生きるのもいいかもしれない」と書かれていた。「にんじん」と「オノリイヌ」の文字に触発された私はやっと重い腰をあげた。せっかくだから、これも何かの機会だと捉えて、今度こそ『にんじん』を読もうと本気で思った。家から歩いて30分の場所にある中規模書店に行って探してみたが、やはりない。仕方がない、都心の大型書店なら間違いないだろう。あらかじめネットで調べたら、岩波文庫ならあるとわかった。オノリイヌとはいったいどんな人?という素朴な疑問が私の背中を押したのだ。

 念願だった本、ずうっと気にかけていた本『にんじん』を読んでみたら、と言うよりもう冒頭から雷に打たれたような衝撃を受けた。そこに書いてあることがとても信じられず、思わずページを捲る手が止まり、椅子から転げ落ちそうになった。にんじんは3人兄弟の末っ子であり、おそらくまだ10代前半の男の子だ。その子が父親が狩りに行って取ってきた獲物の始末をさせられる。兄も姉も鳥の首を絞めるという一番重要な役目を辞退するので、となるとそれはにんじんがやらなければならない。にんじんはあろうことか2羽を一度に素手で絞め殺そうとするものだから、鳥の方は悶絶する。子供の力では一気には締めることはできない。「にんじんは癇癪を起して、鳥の両足を持って靴の先で頭を思いっきり踏みつけた」などという、想像するだけでも恐ろしい地獄絵図が展開する。残酷!本来鳥を締めるのにはそんなにたいしたことじゃないのに、鳥の苦痛を考えると同情したくなる。

 この本を読み進めるうちに、にんじんがいかに母親に虐待されているかを痛感する。暴力をふるう身体的虐待ではなくて、子供の自由と権利を奪う精神的虐待だ。例えば、家族皆でメロンを食べるとする。母親は兄と姉にはちゃんと取り皿に取ってやるのだが、にんじんには「お前はメロンが嫌いだろう」と決めつけて与えない。にんじんが「僕はメロンが好きだよ」と言っても、「いや、お前は嫌いなはずだ」と相手にされない。いやはや、こんなことが家庭の中でまかり通っていること自体が青天の霹靂に思える。

 さらに母親はにんじんにウサギ小屋に行くように命令する。家族が食べたメロンの皮をウサギにエサとして与えるためだ。こんなことは日常茶飯事なので、にんじんはもう慣れっこになっている。ウサギにメロンの皮を与える前に、家族の食べかすのなかに少しでも果肉が残っていないか確かめる。まずは皮に張り付いている貴重な果肉を味わってから、その残りをウサギに与えるのだ。誤解を招くといけないので断っておくが、にんじんの家は貧乏でも何でもない。にんじんを含めて3人の子供は夏と冬の休暇以外は学校の宿舎で暮らしている。事実父親は仕事で忙しくてほとんど家にはいないので、家庭内は母親のやりたい放題だった。

 にんじんは、外に勝手に出かけてしまうといけないからという理由だけで、一晩部屋に鍵をかけられた。母親は忘れたふりをして、ベッドの下に用を足すための壺を置いてはくれない。生理的欲求は理性や我慢だけでは何ともならない。限界に耐えられなくなったにんじんは暖炉にしてしまう。母親の陰湿ないじめは挙げればきりがない。これって、まさか作者の体験したこと!?と考えるだけで、背筋が寒くなった。

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