人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

コロナ禍で立ち話が聞こえない

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立ち話のチャンスをうかがう

 作家の青山七恵さんはコロナで自粛要請が出たときは歩くことを日課にしていたそうです。都心に住む友達にも会えないし、勤め先の大学にも行けない日々が続いたからです。一人暮らしということもあってか、時々寂しさに負けてすれ違う人に声をかけたい誘惑に負けてしまいそうになったとか。毎日東西南北の方角を決めて家の周り5kmほどを悶々と歩き回っていると、人恋しさが募ってくる。誰でもいいから雑談してみたいといつも思っていたら、ふと気付くと話しかけていたらしい。青山さんの場合は職業が小説家ということもあって他人の話に飢えているのだそうです。要するに仕事のネタを探して24時間アンテナを立て、何か面白いことはないかとあたりを覗っているのです。事実は小説よりも奇なりとよく言いますが、人のつぶやきには驚くようなことがたまにあるのです。知らない人と立ち話して他人の人生のうわっらを垣間見たり、たまたま聞こえてきた他人の会話を盗み聞きしたりする。そんなたわいもないことで、わけもなく不機嫌だったのに気分がパアッと明るくなってしまうのですから不思議です。

 歩くことで孤独を解消できるかは別にして、少なくとも真正面から向き合うことは避けられます。移動することで目の前の景色が変わっていくのが楽しくて、気分転換できてしまうからです。天気などに関係なく、たとえ土砂降りでも外に行かないよりはましだと私などは思ってしまいます。植物の様子や朝早くから働いている人たちの姿を眺めながら、ついつい人の話に耳を傾けてしまいます。彼らは仕事をしながらも頃合いを見計らって雑談をしているのです。ある日などは、コロナウイルスの感染者数が日ごとに増加傾向にあるのでこれからどうなるのかと心配していました。立ち話で他人の生活や関心事を知ってしまうと、知り合いになったかのように錯覚してしまいます。すると、まるで他人と繋がってるかのように感じられてしまうので不思議です。

立ち話がないと人と疎遠に

 近頃ではスーパーに買い物に行ったら、店内放送で「おしゃべりは控えめにお願いします」と念を押されてしまいます。信じられないほど野菜が高いとか、玉ねぎやジャガイモまで一個いくらだなんてどうなってるの?などということを口に出す人はいません。せいぜい心の中でため息をついて嘆くにとどめているのです。知り合いに会っても会釈のみで済ませて声は出さないようにするので、考えようによっては便利かもしれません。

 しかし気の合う人とのおしゃべりチャンスは減る一方で、口から出るに任せるたわいもない会話は電話までしてするようなことでもないのです。一時はお互いの距離が縮まったかに見えたのに、気がつけば今では悲しいことに疎遠になっています。立ち話だからこそ、限られた時間だからこそ相手はこの時とばかりに話し出すのです。聞く側のこちらとしても子供の自慢話も夫婦間の愚痴もほんの少しの時間だからこそウエルカムだったのです。そういう意味で立ち話というのは、考えてもみなかったのですがコミュニケーションの立派なツールだったのです。正直言って、コロナ以前は立ち話はただの無駄話、いわゆる不要不急のものとばかり認識していました。「この世の中に無駄なものは一つもない」とか「無駄を嫌う社会は余裕がない社会で生きづらい」ともよく世間では言われています。立ち話が無くなったコロナ禍の中で人はどう生きるのか、これからの私たちの課題です。

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