人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

空き家になった社宅の思い出

今週のお題「おうち時間2021」

f:id:mikonacolon:20210508182944j:plain

 いつの間にか人がいなくなって空き家に

 最近、近所に昔からあった某銀行の社宅から人が消えて空き家になりました。なぜそのことに気づいたのかと言うと、社宅の入口にある門扉に張り紙があったからです。そこには「この建物についての連絡先は○○サービスセンターです」とあり、管理会社の名前と電話番号が書かれていました。それで、社宅の敷地と建物は売りに出されたのだとわかったのです。以前から、建物が古くなっていることは一目瞭然で、ベランダの手すりの塗装は剥がれ落ちて、赤さびができていてひどい状態でした。どうして修繕しないのだろうといつも思いながら、社宅の前を通っていました。それでも住民は家族でちゃんと暮らしていたので、いつか必ずきれいになる、あるいは建て替えるのかもと信じていたのです。そんな勝手なことを考えていたのですが、その日は永遠に来なかったわけです。

 思えば、他人が住む社宅のことなんて、どうでもいいことなのです。でもどうしても気になってしまうのはその敷地の広さとこれからどうなるのかを考えてしまうからです。それと近所をうろつく時間が長くなったせいか、ちょっとしたことにも目を向けるようになったせいかもしれません。その社宅は広い敷地にある日当たりのいい3階建てで9家族が住んでいました。各部屋のベランダはかけっこができそうなくらい、信じられないほど広かったのです。だから、普通の家のベランダのように賑やかさはありませんでした。地方に転勤が多い居住者のために広々とした駐車場もありました。でもしだいに人が減っていって、その役割を果たすことなくただの空き地になり、コンクリートの割れ目には雑草が生えるようになりました。

 こんなふうに書くと、社宅の移り変わりを見守ってきたように誤解されてしまいますが、そうではないのです。私が気にするようになったのはコロナが流行る少し前のことでした。ある日通りかかると、父親と息子と思われる中年の男性と小学生の男の子が社宅の庭で何か土いじりをしていました。庭と言っても、社宅の建物の前にある空き地で、そこは草木が生い茂った小さな森のようになっていたのです。昔はブロック塀で中はほとんど見えなかったのですが、古くなって危ないからと白い格子のフェンスに変わりました。それで中の様子が自然と見えるので、親子はどうやら何かの種を蒔いているようでした。周りに生えている雑草を抜いて、土を慣らし、丁寧に種を土の中に埋めていきます。ふと見ると、その花壇以外の場所には黒いシートが敷かれて雑草が伸びないようになっていました。

 さて、気温がどんどん上がって、汗が光る季節になると、彼らが何の種を蒔いたのか、その答えがわかりました。それはひまわりで、最初は細くて弱弱しかった茎は、予想外に太く、力強くなりました。そして、そのひまわりの木はどんどん空に向かって伸びて、太陽の光を燦燦と浴びて立派な花を咲かせました。お盛んな季節が終わり、秋になるとひまわりは萎れて、枯れ始めました。ひまわりの花弁が黒々とした種でいっぱいになっても、お世話する手は現れず、仕方なくひまわりは土の上に横たわるしかありませんでした。あの親子はどうしたのだろう、そう思ったら合点がいきました。たぶん、彼らはもうその社宅にはいないのです。引っ越すことがわかっていて、あのひまわりを植えたのかもしれません。ひまわりは彼らの置き土産なのでしょうか。

 季節は巡り、コロナ禍にあって2度目の春がやって来た時、不思議なことが起こりました。社宅の雑草だらけの庭に菜の花がポツンと一輪咲いていたのです。どこからか風に乗って種子が飛んでやって来たんだなあ。まるで田舎みたいだと嬉しくなりました。そしたら日を追うごとに数が増えて、あっという間に菜の花の群生が出来上がってしまいました。社宅の前を通るたびに、美しいレモン色の菜の花の花束に毎日見とれていました。そしたら、ある日突然、雑草の影から黄色いチューリップが3輪現れたのです。「どうしてこんなところに?」誰も球根なんて植えるはずないのにと思ったら、何か得をした気分になって思わず笑顔になってしまいました。不思議なことに、ひまわりも菜の花もチューリップもすべて黄色だなんて!これって、まさに黄色つながりで、もしかしてあの親子の思いのなせる業かもと余計なことまで考えてしまうのです。

mikonacolon