人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

潜水服は蝶の夢を見る

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コスタリカに生息する動物や昆虫をモチーフにしたアクセサリー。NHK旅するスペイン語テキストから。

内容を知らずに見たら、目から鱗

 ある日気が付いた、もうずいぶん長いこと、いい映画を見ていないことに。心から感動する映画をさっぱり見ていないことに愕然として思った。「映画が見たいなあ、どうせなら見てよかったと思える作品がいいなあ」と。もちろん韓国ドラマや中華ドラマは見ているが、それは深い感動とは別ものだ。今の私には心に栄養が必要だった。本気でそう思ったら、足は自然とツタヤに向いていた。その時の私の頭の中に浮かんだのは以前新聞のインタビューで見たことがあるマチュー・アルマニックさん主演の『潜水服は蝶の夢を見る』だった。この作品は当時世界の映画祭の話題をさらった作品で、彼の目だけの演技で有名だと書いてあった。

 その時の私はすぐに見たいという気持ちになったが、積極的に行動しようとはしなかった。日々の忙しさに紛れて忘れてしまっていたが、最近NHKフランス語講座を聞いていたら、偶然映画にまつわる話題になり、先生が個性的なカットが印象的な『潜水服は蝶の夢を見る』はどうしても忘れられない作品だと言っていた。もうひとりのフランス人の先生も深く感動したと共感していた。そんな噂を耳にしていたせいか、がぜん見る気になった。よかったのはあらすじも何も知らずに見たことだった。予備知識なしだったので、稀有なストーリーをものすごく新鮮に感じて目から鱗だった。

 正直言って、以前近所の書店に行った時に、この映画と同じタイトルの文庫本を見つけたことがあった。でもその時は「あれ、これ同じ題名だ!」と不思議に思っただけだった。今考えると、その本は映画の語り手が書いた本だった。彼は映画の主人公で脳梗塞に倒れたエルの編集長だった人だ。頭のてっぺんから足の先まで麻痺していて、一言も話せない。でも頭は働くし、心は感受性豊かだ。耳も聞こえて、目もはっきり見えるが、不幸にも右目は必要があって塞がれてしまった。なので彼は左目だけで世の中を見ることになった。「なんだか、情けないことになったなあ」と嘆いていた彼のところに美人が二人やって来た。ひとりは言語聴覚士で、もうひとりは作業療法士だった。

 彼らは全力で彼の力になりたいと言う。少しでも彼の失われてしまった機能を回復させたい一心だった。彼らは自分たちの仕事に誇りを持ち、患者への思いも生半可ではない。作業療法士は唯一彼が見ることができる左目の前で、「私にキスを送って!」と口をツンツンさせて、やってみるように彼を促す。そんなことを言われても彼はうまくできない。それでもその唇の動きは大事なリハビリになるので大切だ。それから、もう一つは舌を出して、歯の裏に滑らせる動き、これは食べ物を飲み込めるための訓練だった。最初は無理だと諦めていた彼も後になって声を出して歌も歌えるようになった。最もそれは周りにいる人間にとってはただの雑音にしか聞こえない。でも彼としては確かに歌を歌っていることに変わりはない。はっきり言って凄いことなのだ。

 彼が本を書こうと思えたのは溢れんばかりの情熱でもって接してくれた言語聴覚士のマリエットのおかげだった。彼女は自ら考えて来たアルファベットの表を彼に見せた。それはAから始まるのではなく「E,S,A,R,I,N,T・・・」と風変わりな順番で並んでいた。彼女によると、フランス語の単語に使われる頻度の多い順番で並んでいるらしい。すでに、「はい」は目の瞬き1回、「いいえ」は瞬き2回とルールを決めて意思疎通ができていた。今度は彼に文を伝えさせたいらしく、最初は単語から始めた。彼に何か単語を決めてもらって、それが何かこちらにわかるようにしたいのだ。まずは彼女がアルファベットを読み上げるのだが、単語のスペルが読まれたら彼が瞬きをして教えてくれるやり方だ。例えば、merci (ありがとう)を書き留めるためにはアルファベを5回読み上げる必要があった。どう考えても気が遠くなる作業だ。でも彼女は忍耐強く、簡単には諦めない。しばらくすると文章での会話に慣れてきた。

 驚くべきことに、彼は現在の「潜水服」を着たような状態から抜け出すために本を書こうと決めた。進捗状態はまさにカメの歩みでも、その足取りは着実だった。出版社が辛抱強く書き留めてくれる女性を雇ってくれたので、本は完成した。でも本が出版されてから10日後に亡くなってしまった。ようやく希望という一筋の光が見えてきたと思ったのに、肺炎にかかってしまったのだ。タイトルにある「蝶」は自由にはばたく生き物の象徴で、また希望の光でもあった。

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