人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

電気を好きなだけ使う生活に疑問を持って

今週のお題「下書き供養」

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 まだはてなブログに下書きの機能があることも何も知らなかった頃、ふと思いついた何かをメモしておく場所としてwordを使っていました。捜してみたら、下書きではないけれど、ブログのネタのような文章が見つかりました。きっと何か感じることがあったのでしょう。それが何かは思いだせませんが、心に引っ掛かるような出来事に違いありません。それは以下のこんな書き置きです。

 

 叔母によると、昔は冷蔵庫がなかったので、肉や魚はその日に食べる分だけ一軒隣にある八百屋で買っていた。八百屋と言っても野菜だけ売っているのではなく、何でも屋で食料品から日用品まで何でも売っていた。だから冷蔵庫が無くても何も困ることはなかった。何でも屋は祖母の家の冷蔵庫でもあったわけだ。「何しろ家の一軒隣にあるのだから、しょっちゅう買い物に行っていたわ」と懐かしそうに話し、お金は後払いだったという。つまり、帳面と呼ばれるノートみたいなものを持って行き、店の人に商品の名前と金額を書いてもらう。そして月末に合計してもらい支払いをするわけだ。もちろん合計すれば、相当な金額になるのだが、驚いても店に文句を言うわけにはいかないのだ。そのころはかなりアバウトなお金の使い方をしていたのだと振り返る。昔は店と客との間に信用取引が行われていて、それが当たり前の時代だった。

 

 と、こんな風に尻切れトンボのような感じで終わっているので、この後いったい何を言いたかったのかと不思議でなりません。でも死滅するはずの書き置きが救われたわけで、きちんとした文章にならなくても、心に残った何かの尻尾でもいいから捕まえておいて記録しておけば、何かの役に立つということが証明されたわけです。想像力を働かせて、当時のことを振り返ってみると、どうやら電気を好きなだけ使う生活に疑問を持ち始めていたようなのです。電気は確かに私たちに便利で快適な生活を与えてくれますが、そんなに「もっともっと」と求めなくてもいいのではとも思うのです。たぶん、そんな思いを抱いたのには、世界の現状を自分の目で見たからだと思います。初めて海外旅行に行ったのはイタリアでしたが、そこには日本の街にあるような自動販売機はありませんでした。「どうしたらいいの?」と困惑するばかりなのにスーパーは7時までしか開いていません。どう考えてもこれは不便なのではと思ったのは私が日本人だからで、そこではこれが当たり前のことで、何の問題もないのです。

 もっと仰天したのは、アイスコーヒーがないことで、真夏なのにコーラなどの飲み物を頼んでもグラスに氷はついてきません。だんだんとコーヒーは暖かいのが世界の常識だということがわかってきました。あのスターバックスだってアイスコーヒーはないらしく、聞いてみる勇気がないので、店の中を観察してみたことがあります。でも誰一人冷たいコーヒーを飲んでいる人は見当たりませんでした。真夏に喉がカラカラになったら、頭が痛くなるほど冷え切った飲み物をグイッと飲みたいのに、自動販売機がないのは悲しいことです。でも彼らは脇に抱えた2リットルのペットボトルの水を飲んで満足しているのです。そこで思ったのです、多くを求めなければいいのだと。

 それから、世界では今や節電が当たり前なのだという常識を目のあたりして目から鱗でした。以前旅行したスロバキアの駅は昼間行ってみたら真っ暗でした。日本なら「これは休みなのね」という状況ですが、よく見たら遠くに小さな灯りがあるのに気づきました。それが駅の切符売り場の窓口でした。どうやら電気は夜になってから使うものらしく、売店も薄暗い中を進んで行ったら、突然初老の老人が現れてビクッとしてしまいました。その時はまだ東ヨーロッパだから云々などと言う認識しかなかったのです。でも数年前行ったスペイン最南端のアルへシラスでも同じ経験をしました。要するに、必要のない電気は使わずに、使うべきところには使うようにして電気を大切にしているのだと気付いたのです。

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