人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

親友と疎遠になった苦い思い出

今週のお題「忘れたいこと」

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今では若かったと笑い転げてしまうのに、微かに痛みが

 何かの本によると、人生で一番友だちができるのが高校時代で、それも一生を通じての親友が得られるというのです。確かに以前見た新聞のアンケートでも、やはり高校時代に親友と出会って、その人とは年を取ってからも今日まで続いているという人が少なくありません。あの年代は純粋でまだ感受性が豊かな年頃なので、相手と真摯に向き合えるからなのでしょう。本当の友だちというものに憧れて、自分にもそんな友がいたらどんなにか毎日が楽しいだろうと考えてしまいます。そんなときに偶然に物の見かたも趣味も似通った誰かと知り合ったなら、「私の親友」になって貰いたいと思うのが自然です。こんなにもぴったり合った二人なのだから、高校を卒業して別々の道を歩んでも、きっと付き合っていけると信じて疑わないのです。

 実を言うと、私は高校になるまで、本当の友だち、つまり親友と呼べる人に出会ったことはありませんでした。相手から「貴方とは親友だからね」と一方的に言われて戸惑うことが多かったのです。親友などと言われても、そりゃあ、その子と一緒に居ておしゃべりをしたり、遊んだりしていれば楽しい、でもだからと言って、親友と呼ぶには何か物足りないわけです。例えば、相手が本当に信頼に値するかどうかとか、自分の事を理解してくれるかどうかとか、そんな心のつながりを求めていたのかもしれません。つまり私に「親友だからね」といった相手の熱量に比べたら、私の心はそれほどでもなく覚めていたのです。だから相手が鬱陶しいとしか思えませんでした。どうやら私は本当の意味での友達など求めていなかったようです。

 そんな私も高校になって、親友と呼べる友だちができました。彼女からは多くことを教わり、そのおかげで私の高校時代は彩りに溢れ、多くの楽しい時間を過ごせました。エラリー・クイーンエルキュール・ポアロが登場する、アガサ・クリスティー推理小説を知りました。「この本、絶対面白いから読んでみて」と言われて読んだら、嵌ってしまって朝まで読み耽りました。それ以来彼女から何冊もの本を借りて、推理小説の魅力にどっぷりと浸かりました。またSF小説の『デューン砂の惑星』も強く勧められて読んだら、最初は違和感があったのにいつの間にか異世界に引きずり込まれて行きました。

 そのうちにある一冊の本を読んで、私たちは意気投合するのですが、それがきっかけで私の中に「もしかしてこの人が私の親友?」という気持ちが心の中に生まれてきました。その本は日本人で初めてニューカレドニアに行き、その旅行記で一躍有名になった若い女性が書いたものでした。その人のシリーズ本に私たちは夢中になり、今度は本を貸すのは私の役目になりました。毎日のようになんだかんだと時間を忘れて語り合いました。学校が終わると、よく通り道にある彼女の家に遊びに行きました。その時必ずお茶を出してくれて、その緑茶がどこで飲むお茶よりも美味しかったのを懐かしく思い出します。そのせいか新茶の清々しい香りを嗅ぐと、どうしても彼女のことを思い出してしまうのです。

 もし、今でも彼女と付き合っていたら、ずうっと親友だと堂々と胸を張れるなら、忘れたいなどとは思わないでしょう。「高校を卒業して離れ離れになっても、絶対に親友でいよう」と思っていたし、彼女とも固く誓い合ったはずでした。それなのに疎遠になってしまったのは、彼女に続ける意思がなかったからです。二人共環境が変わって、その変化に対応しようと目の前のことに夢中になっていたのです。私は自分なりに連絡を取ろうと努力したのに、うまく行かなくて、それがいつしか諦めに変わりました。「もういいか」と言えるようになった時は、心の痛みはだいぶ鈍くなりました。「なぜ連絡してくれないの?」とせめて理由を聞きたい気持ちを抑え込んで、心から消すことにしたのです。どうやら環境は否応なく人を変えてしまうようです。考えてみると、彼女と私の関係も高校の時だけの「期間限定の親友」だったのかもしれません。

 

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