人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ゴミの分別をサボりたい

今週のお題「サボりたいこと」

せっせと洗って乾かす、意味があると思いたいが

 今の世の中はSDGsなので、無関心ではいられない。めんどくさがりで、ずぼらな私でも、誰にいわれたわけでもないのに、資源ごみには特に気を遣う。以前は近所の人が見て見ぬふりをしてくれるのを良いことに、ずるをしてすべて燃えるゴミとして出していた。当然、皆さんの家のゴミ袋はそれなりで、どこに出しても恥ずかしくない大きさだ。だがうちのゴミ袋はでかい袋が二つもあった。新聞の折り込みチラシも、スーパーで買ったお惣菜のポリ容器も、牛乳パックも、トレーもすべて燃えるゴミとして出していたからだ。正直に言うと、胸の奥は後ろめたさでいっぱいだった。ゴミのカサが大きすぎることに内心は嘆かずにはいられなかった。

 こんなことを言っても言い訳にしかならないが、私だって、昔はトレーや牛乳パックを真面目に洗って、乾かして、せっせとスーパーに持って行った時代もあった。だが、ある日ニュースで「あれはほとんどリサイクルされずにゴミになります」だなんて言っているのを聞いて、騙されていたと思ったら嫌になった。そうなったら、分別だなんてやってられないとすっかりやる気が無くなった。だが、今はそんなことを言ってる場合ではなくなった。環境問題が切迫しているからだ。なんとしてもゴミの量を減らし、せめてゴミのカサを小さくし、リサイクル可能な物は自分たちで捨てるのをやめる努力をしなければならない。

 それで今の私はせっせと資源になる包装ポリ容器という類のものを洗って、乾かしている。生ごみとティシュペーパー等の紙類以外のゴミはすべて、それらは資源ゴミなのに驚く。納豆の入れ物、肉や魚がいれてあるトレー、お菓子の袋、卵のパック等々、お金で商品をゴミと一緒に買っているのだと改めて気づく。一時スーパーで肉や魚などの商品を袋に詰め替えて帰るお客のその行為が問題になったが、ゴミを家に持ち帰りたくない気持ちはわかる気がする。だが、商品はゴミとセットで売られているのだから、買った以上は責任があると考えればいい。子供の頃、近所の養鶏場に生みたての卵を買いに行ったことがあった。その時自転車で買いに行ったので、うまく持ち帰ることができず、何個かは割れてしまった。その時のことを思い出すと、今の卵のパックはつくづく優れものだと思う。

 資源ごみは最初は確か、「さっと洗って、乾かして、回収に」だったはずなのだが、実際は「さっと」ではダメで、「綺麗に」洗わないと、それは残念なことに燃えるゴミになってしまう。なので、食事の後の食器洗いに加えて、資源ごみを洗う仕事が増えた。はっきり言って、面倒でうっとおしく、手間がかかる仕事だが、現実問題としてそんなことを言っている場合ではないらしい。ポリ容器やトレーを綺麗に洗うには水をけっこう使うのだが、それってどうなのだろうか。特に味付けがされている肉やスーパーのお惣菜のパックはなかなか汚れが落ちないので、水ではなくお湯を使うことが多い。そうまでして頑張って汚れを落として、自己満足に浸っているのだが、それが本当に意味があることならいいのだが。資源ごみが回収された後のその先が知りたくなってしまう。

 最近地域の資源ごみのパンフレットを見ていて驚いた。それはマヨネーズやケチャップのチューブなども資源ごみだと知ったからだ。あんなものまで!?と言うのが正直な感想だ。今までは使い切ったら、そのまま燃えるゴミとして捨てていた。だが、そのことを知ってしまったからには、これからはあのチューブを半分に切って洗わなければならないのだろうか。私のことだから、そうなれば、きっとチューブの中をティシュで拭き取り、お湯ですすぐだろう。あのヌメヌメが一番厄介なので、綺麗にするには手間をかけるしかない。

 そんなことを考えると、できるだけ洗う手間を省きたくて、買い物に行って何を買うかが問題になってくる。忙しい毎日の中で、資源ごみを洗うというひと手間をかけることが負担にならないようにしたい。余裕のある時はいいのだが、疲れてくるとついついサボりたくなる。頭ではわかっていても、身体が、気持ちが「まあ、ちょっとぐらいならいいか」と誘惑してくる。これって人間としての義務!?みたいに思えばいいのか、いや、そんなたいそうなことでもないのかもしれないが、私が今直面している課題なのだ。

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