人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

お兄さんとサヨナラした日

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

f:id:mikonacolon:20210722214918j:plain

▲チリのアタカマ砂漠の花畑。NHKまいにちスペイン語8月号から。

その人はまさにお兄さんと呼ぶべき人で

 お兄さんに出会ったのは私がまだ若い頃で、東京でひとり暮らしてをしている時でした。近くの商店街にあるうどん屋さんで夕方からアルバイトをしていたのです。私はそこで、できたうどんを運んだり、空いたどんぶりを片づけたりしていました。ある日の夜、カウンターに入っていたら、女主人が一人の男性のお客さんと話をしていました。その人が私がお兄さんと呼んでいた若い男性で、週に2~3回程度は通ってくる店の常連でした。この店のうどんがモチモチして気に入っていて、会社の帰りに寄って食べるうどんは晩御飯のようなものでした。カウンターというのは、普通の席と比べて話しかけて世間話がしやすいようです。お兄さんも気さくな人柄で、店でおしゃべりするのは嫌いではないのです。それに店は昼間の喧噪とは全く違う雰囲気で、夕方を過ぎて8時頃になると落ち着いた空気が流れます。なんだかバーでのおしゃべりのように、うどん屋さんなのに時間がゆっくりと過ぎて行きました。カウンターだからと言って、昼間のように急いで食べてさっさと帰らなくていいのです。

 私は元来人見知りなのですが、お兄さんの人懐っこさに魅かれて、だんだんと話をするようになりました。話をするうちに、お兄さんの住んでいるアパートが私の下宿までの通り道にあることを知りました。「あそこならいつも通っているから知っています」。そう聞いてしまうと、ついつい意識してどの部屋だろうと捜してしまいます。ある日、バイトの帰りに通りかかると、窓に明かりが灯っていました。何を思ったか、つい「お兄さあ~ん!」と呼んでしまいました。すると、窓がガラガラと開けられて、お兄さんが不思議そうな顔をしてこちらを見つめていました。そして「なんだ、○○さんかあ!びっくりしたよ」とすぐに笑顔になりました。

 当時お兄さんは家賃9万円のアパートで独り暮らしでした。以前は学生だった弟さんと一緒に暮らしていたのですが、就職して大阪に行ってしまったからでした。お兄さんは自分の安月給の割には高い家賃をどうするか悩みましたが、その点については問題ありませんでした。学生の頃から雀荘に通っていたので、たいていはいつも勝つのでそれで何とかなってしまうのでした。何と言ってもお兄さんは物凄く気前がいい人でした。その頃、店の近くに当時としては珍しかったシェイクの店が新装開店しました。その店のことが話題になると、「今度買ってきてあげるよ」と言ってくれました。冗談かと思ったらある日本当に持ってきてくれたのには仰天しました。

 それから2~3日経つと、なんとシェイク店の若い店長がうどんを食べにやってきて、私たちは知り合いになりました。その店長がある日自分は東大卒で商社の社員だったと打ち明けました。その場にいた全員が「岬の灯台の間違いじゃないの?」と女主人が揶揄するほどの衝撃を受けてしまいました。店長によると、いくら世間で羨ましがられる会社に入っても、所詮組織の駒のひとつでしかない。だから虚しすぎるというのです。だから小さい店でも一国一城の主がいいと、チェーンのシェイク店の店長になりました。やがて、シェイク店はハンバーグ店に変わりましたが、いつもお兄さんのおごりで食べに行きました。考えてみると、私はなにひとつお返しをしたことはありませんでした。

 夜中に突然訪ねて行ってしまうこともありました。それにはちゃんと理由があって、同じアパートの子がどうしても髪を洗いたいと言ったからでした。お風呂屋さんはもうやっていないので無理だなあと思ったら、ふと頭の中にお兄さんのことが浮かびました。断られてもいいかとダメ元でピンポンを押したら、嫌な顔一つせずに迎え入れてくれました。田舎から友達が出てきたときも、渋谷のライブハウスに連れて行ってくれました。待ち合わせをして夕食をご馳走になったあと、ジャンジャンで青山南さんのライブを見ました。そんな風にして気楽で楽しい日々が続いたのですが、ある時会社の女性が気になるようになりました。それまでお兄さんには恋人という存在は居なかったのですが、30歳の誕生日が近づいてくると急に意識するようになったのです。

 「たぶん、もうこの店には来ないと思う」そうお兄さんは私に言いました。彼女と付き合うことに決めたお兄さんはそれからうどん店には来なくなりました。それから何カ月ぶりかで久しぶりに会ったお兄さんは両親と一緒でした。彼女との結婚が決まったようで、これからについての相談や引っ越しの準備をするためでもありました。それがお兄さんに会った最後の日で、名前も知らないお兄さんとサヨナラした日でした。

mikonacolon