人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ホームレスの支援活動は難しい

 

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それでも「継続はちからなり」

 昨日の朝刊の「声」欄には大変興味深い意見が載っていた。それはホームレスの支援活動についてのことで、先日の女子大学生の「ホームレスに食料渡す難しさ」という投稿に共感したという60代の女性からのものだった。その女性も以前ホームレスの支援活動をしていて、学生と同様の経験をしたらしい。例えば、ある男性に「たくさんのお肉が入った親子丼ですよ」と渡した。そしたらいきなり「いらん」と言われて戸惑った。きっと私たちは彼らはいつもお腹を空かせていると思い込んでいるし、また彼らが何を考え、日々どんな暮らしをしているのか知る由もないからだ。その後、そのホームレスの男性から「食肉解体工場に仕事に行ったら、肉を解体する機械の清掃でな。それ以来、肉が食えんのや」と打ち明けられた。なるほど、無理もない。家畜から出る血の匂いを嫌というほど嗅いだら、誰だってもう肉は食べる気がしないだろう。部外者の私たちにそんな彼らの事情を理解できるはずもなかった。

 また別の人は店の模様替えで一晩中、重い機材を運び続けて疲れ切って、「一口も食べられない」と訴えた。「食べるよりはまず寝たい」のが本音らしい。しかし、少し経験を積むと、「ホームレスですか」と直接聞けそうにない雰囲気の人への対処の仕方がわかる。それらしき人にはこう聞けばいい「お弁当を渡したいのですが、この辺にホームレスの方はいませんか」。すると必ず「いや、お姉さん、私がホームレスです。助かります」という感じで答えてくれる。時には暴言を吐かれたり、冷たい視線を投げかけられたり、実に様々な反応をされます。それでも、自分の経験上言えることは「継続は力なり」と女子大学生にエールを送っている。

 支援活動というものはどうしても「してあげる」という上から目線になってしまう。それでも断られたとしても、気にすることはないし、また卑屈になることもない。沸きあがる感情に従って、やりたいならやればいいだけのことだ。現に私が夜中に救急外来で目撃した人はホームレスとはっきりわかる男性に寄り添っていた。見たところ20代と思われる女性で、救急隊の人たちもホームレスにはちゃんと面倒をみるボランティアの人がいるから大丈夫だと話していた。世の中には奇特な人がいるものだとまるで他人事のように思っていた。

 私の住む町にも以前はよくホームレスと思われる人が毛布を脇に抱えて歩いていた。高架線下で寝起きしていた人たちも今ではもういない。そういえば、広大な公園で小さな小屋を作って暮らしていた人達も追い出されてもう姿がみえない。あの人たちはいったいどこに行ってしまったのだろう。彼らが身の回りから忽然と姿を消したと同時に、今度は私たちだっていつ何時ああなるかわからなくなった。今となっては”一寸先は闇”で”明日は我が身”を実感する。だから私たちも同じ人間で、彼らと自分を区分けすることなんて全くのナンセンスなのだ。こう思うと、彼らと私たちの境界線など無いに等しいし、蔑んだ目で見くだすなんてとてもできそうにない。

 知人の父親は放浪癖のある人で、知人がまだ子供の頃に家を出て公園で暮らしていた。家を出て行った理由は、なんと「家族のために働くのがバカバカしくなった」からだった。心配した福祉事務所の人が施設に入れても、自由がないからとそこを逃げ出してしまう。普通なら、外よりも施設の方が快適だと思いがちだが、本人はそういうふうには考えない。何度連れ戻しても、同じことで「自由がないから嫌だ」の一点張りで埒が明かない。彼にとって、施設は自分を保護してくれるところ、守ってくれるところではなくて、むしろ自分を閉じ込める場所だと認識しているようだ。だから、息苦しさで逃げ出したくなるらしい、どうしても閉そく感を感じてしまうのだ。

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