人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

図書館に本を探しに

なんだかひどく疲れてしまったのはなぜなのか

 先日、久しぶりに、たぶん約一年ぶりに図書館に行って来た。家から遠いこともあり、何かのついでにふらっと立ち寄るという気にならない場所に公立図書館というのはあるものだ。はっきりとした、図書館に行こうという意志でもない限り、いつの間にか行ける処でもない。本屋ならいざ知らず、「図書館にでも」というそんな気まぐれな気持ちには到底なれない場所、それが私にとっての図書館だった。以前行った時は、効率を重視し、目的の本をネットで検索し、そこにあるのを確認してから行った。最初から職員のいるカウンターに行き、お目当ての本のタイトルを書いた紙を見せて探してもらった。館内を徘徊して、自力で見つけようだなんて冒険は侵すはずもなかった。そんなことをすれば、疲れ切ってしまうに違いなかったから。

 それくらいのっけから図書館には期待してはいないのだ。本屋のように未知の本を物色するのが、その行為自体が楽しいというワクワクした気持ちはどこにもない。でもその時私が捜していたのは絵本で、活字しか載っていない一般書とはまた別ものだ。活字の海を泳ぎ疲れたら、絵が主役の絵本を眺めているとホッとできる。新聞の記事で読者の人が「最近本とはご無沙汰しています。こんな私が気軽に読める本は何かないでしょうか」と質問していた。すると回答者である本選びの達人は「あなたのような方にはいきなり活字が溢れている本はハードルが高いと思われます。だから私のお勧めは絵本です。読んだらどこかほかの場所に行ってしまえるような、そんな幻想的な気分を味わえる本を何冊か紹介しましょう」と答えていた。

 だから私は達人が紹介した3冊の絵本のうちの1冊であるフランスの画家が描いた絵本を目当てに図書館を訪れたのだ。もちろん図書館に行く前に大型書店に行って探したが、残念なことに置いてなかった。それで期待などしなかったが、図書館のサイトを検索したら蔵書ありと出た。これも絵本だからか特別のようで、奥にある書庫からわざわざ係員に持ってきてもらわなければならなかった。どうやら絵本は誰もが触れられる本以外に想像もできないほどの蔵書があるらしい。

 さて、今回私は何を思ったか、たいした目的も持たずに図書館に行った。それも児童書のある3階の子ども図書館ではなくて、2階の一般図書のフロアーに初めて足を踏み入れた。何か読む本がないだろうか、という何の当てもない行動で、今思っても甚だ無謀な試みだった。まず最初の棚は海外文学で、それも無学な私には馴染みのない著者ばかりだったが、一応すべての棚を眺めて歩いた。それから次は日本文学の棚で、私でも聞いたことがある名前の作家の作品がずらっと並んでいたので、やっと一息付けた。だが、どれかを借りたいという食指が全く動かない。ただ、眺めているだけで一向に借りたい本が見つからず、時間だけが過ぎて行った。本屋ではないのだから、本当のところは手っ取り早く選んでしまえばいいのだが、そう簡単には動けない。

 ぼんやり眺めていたら、『業平』というタイトルの本に目が留まった。たしか以前日経新聞の朝刊に連載されていた小説で、気が向いた時だけ読んでいたが、面白い時もあるし、そうでない時は退屈なだけだった。一瞬だが、私の心に「これを最初から読んでみたらどうだろうか」というささやきが聞こえて来た。それで決心がついたので、本を借りることにする。図書館の本を借りるのをこれほど躊躇するのは、”とうりゃんせ”だからで、”行きはよいよい、帰りは恐い”からだ。借りる時は楽しいが、いざ返すとなるとめんどくさくて、いつだって辛い思いをするからだ。

 『業平』と一緒に過去の芥川賞作家の作品も借りることにして、カウンターに持って行く。図書館から外に出たら、なんだか物凄い疲れを感じて戸惑った。普段近所の書店や大型書店を何時間か徘徊したり、立ち読みしたりしても感じたことがない疲労感だった。これに似たような感覚をどこかほかの場所で経験したことがあった。そうだ、以前古着屋の「ひまわり」で何か掘り出し物がないかと熱心に物色したのに、戦利品にありつけなかった。あの時のどっと押し寄せて来た疲れに似ていた。

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