人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

叔母の娘が送ってきた新聞

贈り物の中身よりも、新聞に興味が湧いて

 このところ、毎日暑くてほとほとまいっている。暑さと一口に言ってもかあっとした強烈なものではなくて、身体全体に纏わりつくような気味の悪い暑さだ。湿気が身体を覆い尽くしているためか、息苦しく感じてしまう。それでも季節は確実に秋にむかっているようだ。そのことを肌で感じたのは、都心の大型書店に向かって大通りを歩いていた時だった。交差点で信号待ちをしていたとき、何気なく空を見上げた。そこで見たものは木の枝に売りたいほど生っている青い実。その青い実はどこかで見た覚えがあった。そうだ、梅の実だ。毎年スーパーで袋にギュウギュウ詰められて売られている、あれだった。

 街角で偶然秋を見つけた。だが、どうして梅の実がここにあるのか不思議だった。季節を遡ってみた。そう言えば、この木々はたしか、春にはピンクや赤、白と可愛い花を咲かせて私を楽しませてくれた。そうか、梅の木だったのか。それでも私の頭の中でどうしても梅の花と梅の実が結びつかない。何年もこの木々の側を通りながら、梅の実を見つけたのは初めてだったから無理もない。

 毎日読んでいる新聞の連載小説にも変化があった。今まで連載していた多和田葉子さんの『白鶴亮翅』(はっかくりょうし)が終わり、今度は今村翔吾さんの『人よ、花よ』が始まった。今村さんと言えば、歴史小説の有能な書き手で、新聞の新刊案内で何度もその名前だけは目にしたことがあった。それに『塞王の盾』で直木賞も受賞されている方だ。残念なことに、歴史小説に全く興味のない私は今村さんの小説を手に取ろうとも思わなかった。そんな私にとって、これはまたとない機会だと正直喜んでいる。

 最近偶然に今村さんの記事を見つけた。それは毎日新聞に載っていた『乱読御免』というエッセイで、作家が自らの読書体験を明かしてくれる内容になっていた。毎日新聞を取っていない私がなぜ、そんな幸運にあやかれたかと言うと、叔母の娘のおかげだった。叔母の娘が法事の引き出物と一緒に遺品の洋服を何着か送りつけてきたことは既述した。その中に古新聞が数部入れられていて、普段読むことがない新聞に私の好奇心は物凄く反応した。正直言って、箱の中身よりもおまけで入っていた新聞の方が数倍嬉しかった。

 気が付くと、時間が経つのも忘れて読み耽っていた。箱の下に敷かれていたのと一番上に無造作に置かれていたのと合わせて合計3部すべてに目を通すには意外に時間が掛かった。不思議なことに、新聞を読み終えたら、迷惑でしかないと言う気持ちがすっかり薄らいでいた。不快な気持ちが浄化されて、「まあ、いいか」とリセットされたみたいだ。当初は箱を開けて中身を取り出してみた瞬間、こんな物をもらってどうしたらいいのかと思い悩んでいたのが、嘘のように心が晴れていた。まさに青天の霹靂で、思ってもみなかった”気分転換”ができていた。送ってきた相手はまさか受け取り手が古新聞なんかに目を留めるとは夢にも思わないだろう、今になってそれを考えるとなんだか笑える。

 本当なら,予期しない荷物を送りつけられて戸惑う気持ちを誰かにぶつけたいのが人の常だ。事実、私も義姉のミチコさんにすんでのところで電話をしたい衝動にかられた。だが、立ち止まって考えたら、感情に任せてとんでもない愚痴を、思いっきり吐いてしまいそうで少し躊躇した。二人で叔母の娘の悪口を散々言い合って、フラストレーションを解消するなんてことはできるなら避けたい。人はどうして自分の要らないものを他人に送ろうとするのだろうか、とふと思う。それとも、それは私の偏見で、相手の意図はまた別のところにあるのかもしれないが。それで、”人とはそういうものだから”と諦めて、無駄な追及をすることもなく、もちろん反撃などすることもなく、臨機応変に対応する、そうやって丸く収めるのが生きると言うことかと妙に納得した。

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