人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

年越しをした実感がない

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

帰省なし、去年までの自分がリセットできない

 今年の正月はどこにも行かずに自分の家で過ごした。いつもなら実家に帰省するのに、ちょっとした事情があってできなかった。親戚の娘が久しぶりに家に来たいと言ったからで、それならと楽しみに待っていた。ところが、年末の30日に電話があって、旦那さんがコロナに罹ったので行けそうもないと断ってきた。なんたることだ、これでは正月気分も何もあったものではない。今から急遽実家に行くこともチラッと頭に浮かんだが、考え直した。たまには家で正月を迎えるのも新鮮でいいかもしれないと。

 だが実際には、電車や新幹線などの乗り物や人混みの中での移動がないので、年末年始のあの高揚感に溢れた雰囲気を味合うこともなく、全く特別感を感じられない。目の前にあるのはいつもと変わらない風景で、カレンダーを2023年の新しい物に変えてもさっぱり年が改まったという実感が湧いてこない。ただ単に月をまたいだだけのことで、何ひとつ変わりはしなかった。そんなことだから、自分の身体もリセットできず、ひたすらいつもの習慣を実行しようとする。なにも1月1日ぐらい早朝散歩を休んでもいいような気もするが、身体は少しぐらいサボってもいいではないかという提案を受け付けようとはしない。あらかじめセットされたプログラムを疑うことなく実行するだけなのだ。

 そういうことなので、私は元旦の朝っぱらから外に出て行かざるを得なくなった。たしか去年の今ごろは布団の中でまだ夢の中に居たような気がするが、環境が変わらないと身体は納得しないのだ。さて、外に出ると、案の定誰も歩いている人はいないし、車だって走ってはいない。異様な静けさに少し怯んでしまうが、そのうち慣れてきてすぐに馴染んで来た。いつもの道を歩いて行くと、薄暗闇の中に何やら灯りが見えた。それは私が通るときはいつだって締まっている店で、看板には「night cafe」と書かれていた。前日の31日にもやっていて、ガラス張りの窓越しに大勢の人が談笑しているのが見えた。おそらく彼らはここで皆で集まって年越しをしていたと思われる。

 そう言えば、一番最初の驚きは24日のクリスマスイブに煌々とまるで不夜城のように灯りが付いていたことだった。一体何事!?とギョッとした覚えがあるが、何ともユニークな店があるものだと今では面白がっている。その店を通りすぎると、立派な門構えの神社があるが、さぞかし人が集まるのかと思いきや人影は全くなかった。新しい年になったからと言って、町の様子はいつもと変わらない。だが、目には見えなくても時間は確実に進んでいて、何もかもが新しく生まれ変わっているのだと思える。誰かが言っていた、”どんな一日もひとつとして同じ日はなくて、昨日と同じ今日はない”のだと。つまり、昨日と変わらないように見える景色もようく見てみると、どこかに必ず小さな変化があると言いたいらしい。

 コロナ禍にあって、年末年始の帰省は私にとっては一大イベントのひとつだった。数少ない気分転換の手段で、去年までの自分をリセットするのにこれほど有効な手段はなかった。こう書いている私は、正直言って今まで実家への帰省を惰性でしてきたようなものだった。だが、物事はそれを失ってみて初めてその大切さに気づくものらしい。今改めて気づいた、未だに私の身体はリセットされていないままなのだと。というよりもリセットする機会を失ったのだ。実家に帰省すると、自然といつもの習慣はリセットされる。身体は目の前の環境に順応するようにできているものらしい。いつもの時間の朝5時15分に目が覚めることもないし、ましてや早朝散歩に出掛けようなどとは思わない。行かなくちゃという気持ちすら湧いてはこない。まさに”郷に入っては郷に従え”なのだ。

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