人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

新聞の連載小説

普段めったに読まない作家と出会える楽しみが

 6月の後半から取り始めた新聞の連載小説が終わり、また新しく連載が始まった。以前の小説は木内昇さんの『かたばみ』で、出会った時はかなり物語が終わりに差し掛かっていた。それでも気にかけて、ほぼ毎日目を通していたのは、清太という中学生の男の子のせいだった。彼はどうやら両親の本当の子供ではないようで、周囲の雰囲気から敏感にそのことを感じ始めていた。彼の両親は彼が大きくなって、物事が理解できるようになってから事実を伝えようと考えていた。要するに、その方がショックが少ないから、彼のためになると固く信じていた。ところが、当の彼は両親が想像もつかないような衝撃を受けたのか、大好きな野球をやめようかとまで思いつめてしまう。

 彼は今の両親が大好きなので、彼らの実の子供でなかったのが悲しくて仕方がない。血が繋がっていなくても、清太は何も変わらない、今まで通り私たちの子供なんだよ、などと両親は愛情に満ちた言葉をかけてくれる。だが、清太は本当の子供でないのが申し訳ない気がして、「僕はここに居てもいいのかなあ?」と思い悩む。家を飛び出して親戚の家で何日か過ごすうちに、彼の心はゆっくりと落ち着きを取り戻す。彼と彼の家族が右往左往する様子を毎日読んでいるうちに、気が付いたら自然と感情移入してしまった。考えてみると、遅かれ早かれ、戸籍を調べれば子供は自分の両親が本当の親でないことを知るのだ。子供の側からしたら、暗闇に突き落とされたかのように感じる真実を、一番感受性豊かな年頃に知らされるのはどう考えても残酷だ。子どもが背負う荷物が重たすぎる。ダメージが大きすぎる。大人は何もわかっちゃいないのだ。

 この小説を読んだ後、世間で言われるところのステレオタイプな考えを捨てた。自分たちが本当の親でないことを子供が小さいうちから伝えた方が親子関係が上手く行くのではないか。血のつながりなんて、たいして需要ではないと教えたらどうだろうか。その点で『かたばみ』に出て来る親子関係は情愛に満ちていて、現在の私たちが手を伸ばそうとあがいても、なかなか届かない稀有なものに思えて来る。そのせいかどうかは定かではないが、『かたばみ』の終了後に沢山の連載終了を惜しむ声が寄せられているのを知って仰天した。「毎朝、楽しみにしていました」とか「新聞を開いたら真っ先に読むのはかたばみです」との声が投稿欄に掲載されていた。その中でも目を引いたのは「僕も実は両親の本当の子供ではないので、自分事として受け止めることができました」との当事者からの声だった。

 さて、『かたばみ』の後の小説はH氏の『ひとでなし』というタイトルだった。H氏は略歴を見る限り、文芸賞大江健三郎賞谷崎潤一郎賞などを受賞している社会的にも認められている作家だ。ふ~ん、これはなんだかよさそうな、何か面白そうな感じがしてきた。私は今までその人の作品を読んだこともないので、ジワジワと正体がわからない期待感が増してきた。だが、H氏の名前だけはどこかで見た記憶があった。あれはどこだったかと考えてみたら、間違いない、近所の古本屋だった。古本屋の店先に並べられていた棚の中に同じ著者の文庫本が3冊ほどあった。その本の著者の名前がたしかH氏だったと思う。普通は誰でも本を買う時、2,3ページ読んでみたり、ペラペラ捲ってみたりして本の内容を確かめようとする。

 私もそうしてみたが、なぜかH氏の本はさっと読んだだけでは内容がわかりにくかった。一体全体、何が書いてあるのかまことに意味不明だった。いわば、筋書きが無いようなもので、一冊丸ごと丁寧に読まない限りその本の中身はもちろん、その良さも分からないのだと言われているようなものだった。精読、というか、熟読を要求されているようで、頭が空っぽの私としてはそこまでの情熱は持ち合わせていない。それで、めんどくさくなって、たとえ、100円であってもその本を手に取る気にはなれないのだ。それであと腐れないように、何もなかったかのようにとりあえず元の棚に戻して置いた。後日また行って見ると、誰もが敬遠するであろう本は依然としてその場所にあった。

 そんな経緯があったので、私は何か胸騒ぎを覚えた。朝刊に連載されているH氏の小説は予想通り、私にはよくわからない。つまり、どこが、どういいのか理解できないのだ。頭が悪いんじゃないのとか、この面白さがわからないのと非難されても、正直言って、分からないものは分からないのだから仕方ない。ただ、途中から雷に打たれたように面白くなるかもしれないので、その時のために毎日せっせと切り取ってスクラップしている。

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