人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

なぜか気になる家

トタンが赤茶けた家、それは一見、廃屋だが・・・

 最近また散歩のコースを変えた。その理由は何のことはない、些細なことで、その方向に歩けば、大好きなBOSSの缶コーヒーの自販機が2つもあるからだった。缶コーヒーを買って帰るのを習慣にしているので、いつものコースでは売り切れになることが多かったからだ。新しい散歩コースでは駅へと続く大通りの両側に自販機はあるのだが、通勤に利用する道の脇にある自販機が売り切れになったことがあった。となるといつもは通らない反対側に信号を渡っていかなければならない。面倒だが、仕方がないので缶コーヒーを買うためだけに歩いて行く。そのまま交差点まで行こうとして、一軒の古びた2階建ての木造住宅があるのに気が付いた。トタン屋根は赤茶けていて、人が住んでいそうもない空き家、と言うか廃屋だとばかり思っていた。ガスメーターも撤去されて使えなくなっている。

 だが、以前夕方反対側から見たら、2階の部屋に灯りが見えた気がした。その時はまさかと思ったが、どうやらこの家には人が住んでいるのだと確信できる出来事があった。それは玄関の引き戸に付けられている錠前がかかっていないことがあるからだった。いつも朝通ると錠前がちゃんとかかっているが、週末になると錠前が掛けられていない。つまり、誰かがその家に帰ってきているのだった。ただその家の前を通りすぎるだけなのだが、気にしていたらある変化に気が付いて自分だけで面白がっている。昨日の月曜日に見たら、錠前はちゃんとかかっていたので、その家の住人は朝が凄く早い人か、あるいは、日曜日の夜にはどこか他の場所に帰って行く人なのだろう。

 週末だけ過ごす家、それがその家の役割で、家の住人はおそらく仕事か何かで遠い場所にいるのだと想像できる。となると、なぜガスメーターを外したのかが理由がわからない。まあ、その辺のところはそんなに追求しなくてもいいか。近頃はオール電化の家もそう珍しくはないし、ガスがなくても電気で十分事足りてしまうのだから。廃屋だと信じていた家に人が住んでいることに驚いたが、よく見るとトタンの赤さびが酷いのを除けば、所々ちゃんと綺麗に直してあるので問題はなさそうだ。廃屋と言うと、今にも崩れ落ちそうな家を想像してしまうが、その家は古ぼけた空き家というよりも、今風の言い方をすれば”古民家”とも言える。

 古民家という言い方は耳障りがよくて、なんともおしゃれ?な響きがあるが、田舎育ちの私にとってはただのボロ家でしかない。いずれにせよ、その家に対してあまり好奇心をエスカレートさせないようにしなければならない。私としては、もう錠前の謎が解けたのだからこれ以上はその家を“見張る”必要は無くなった。どんな人が住んでいるのか、その人は普段はどんな生活をして居るのか、はすべて私だけの妄想の中で楽しむことにしよう。最大限の想像力を働かせて、小説を書いてみるのも面白いかもしれない。そうすれば、誰に迷惑をかけることもないし、誰かを傷つけることもない。

 その家を通りすぎると、すぐに大きな鳥居がある神社が見えて来た。ふと境内の方に目をやると枯葉の絨毯で覆われていた。ここはまだ6時前なのにも関わらず門が開いていて、どれだけ朝早いのかとびっくりする。普段はじっくり見たことなどなかったが、その日は壁に取り付けられたガラスケースの中を覗いてみた。「七五三」と書かれた紙の横に「やろうと思わなければ、寝た箸を竪にすることもできん 夏目漱石」との文面を見つけた。予期せぬ夏目漱石の格言との出会いに少し面食らった。なぜそこに漱石なのかは知る由もないが、何度もその言葉を声に出して言ってみた。なるほど漱石先生の言うとおり、意志というものがなければ、人は箸さえも動かすことはできないのだと思い知る。最初から諦めていては、できることもできなくなるということを言いたかったのだろうか。

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