人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

夏休みは終わった

自由研究は悩ましいが、視点を変えると

 先日、小学校の前を通りかかったら、子どもが大勢で遊んでいた。と思ったら、それは遊んでいるのではなくて、どうやら体育の授業をしているらしい。ピイッ、ピイッという先生の笛の音が聞えて来たからだ。その後すぐにキンコンカンコーンという懐かしいチャイムが鳴った。それで今年も夏休みが終わったのだと気付いた。私が小学校の頃はたいていは9月1日が始業式だったが、土曜日が休みの関係もあって始まりが早いのだろうか。

 夏休みと言えば、子供がぐうたらな生活を送らないように考慮してか、先生が山ほどの宿題を出してくれる長い休みだ。その中で一番の苦行は読書感想文と自由研究だったが、最近は時代と共にその中身も多様性を増しているようだ。特に自由研究においてはその傾向が顕著で、「そんなんでいいの?」とか「何考えてるのか、さっぱりわからん」と頭が固い私などはついつい思ってしまう。その矢先、先日の夕刊の4コマ漫画を読んで仰天した。それは朝日新聞に連載されているしりあがり寿さんの『地球防衛家のヒトビト』で、子供が自分の自由研究を皆の前で発表している場面だった。

 その子の自由研究は昔で言うなら、「昆虫採集」とか「植物採集」に当たる。でも彼は「カブトムシやクワガタなどの昆虫は見つかりませんでした」と堂々と言ってのけた。では一体彼は何を”採集”したのか。驚くべきことに、彼はエビとアサリとシジミを見つけた。一体どこからそんなものをと不思議に思ったら、なんと「エビはミックスフライ定食の中に、アサリとシジミはみそ汁の中で見つけました」と主張したのだ。当然のことだが、彼の発表を聞いていた先生も生徒たちも不意打ちを食らったかのように呆然とするばかりだ。なんと表現していいか分からないのが本音だろう。ケチをつければ、多様性を否定することになりかねないだ。

 まあ、考えてみれば、自由研究なのだから、名目通り自由でいいし、興味のあることなら何でもありと解釈できる。事実、ある有名な小学校の先生は『例えば、みそ汁の具は何が一番人気があるのか調べて、統計を取ることも立派な自由研究になる』と語っていた。日常の些細な事に目を向けることは、何かに対して好奇心がないとできないからだ。他人から「そんなことして何が面白いの?」だなんて心無い言葉をかけられたとしても気にする必要はない。自分がやりたいと思ったら躊躇することなくやってみる、それが自由研究なのだから。

 子供の自由な発想に任せるのが本当の自由研究だとしたら、自分が昔していたことはあれは断じて”自由研究”でないと言える。毎日夏休みをダラダラ過ごしていたら、後半になって、そんな娘を見かねたのか、慌ててデパートに連れていかれた。その頃は子供用品のフロアーに行けば、いくらでも自由研究になりそうな商品が売られていたし、工作教室も盛況だった。お金を払って、テーブルに座ってそこに居るお兄さんと一緒に何かを作れば出来上がりだった。自分では何も考えなくても、少しの時間で完成してしまうので、正直楽だった。だが、頭が元々空っぽな上に、さらに何も考えないのだから恐ろしいことだ。自分の頭で考えると言うことを自ら放棄しているようなものだった。

 考えてみれば、自由研究とはやらされるものだったから、やりたくもないのはあたりまえのことだ。それに、勝手に宿題として出しておきながら、ヒントもくれないのだからずいぶんなことだ。まさか、先生に「自由研究って何をすればいいんですか」などと聞ける雰囲気などあるはずもない。だから、子供としては、というよりも子供の親としてはできるだけ安易な方法を選びたくなる。だが、幸運なことに今のご時世は多様性という追い風が吹いている。周りの皆がギョッとするような自由研究を目指してみるのもひとつの目標になるのではないか、と勝手なことをおばさんは思う。

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