人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ラジオで尾崎世界観さんの声を聞く

新聞のエッセイしか読んでいない、だから興味津々

 昨日の夜ラジオを聞いていたら、ある番組のゲストが尾崎世界観さんだった。実を言うと、私は尾崎さんがどんな人なのか、どんな歌を歌っているのか、どんな声なのかを全く知らない。私が知っているのは昨年の日経の夕刊に週に一回エッセイを書いていて、クリープハイプのボーカルを担当している人だということだけだ。『プロムナード』という約1300字程度のコラムなのだが、それを担当する人は皆世の中に名の知れた人ばかりだ。だから、すぐにこの人はそれなりに注目された、あるいは今まさに旬の人なのだと気付いた。何でも分からないことはネットで検索するのが習慣になっているのに、なぜだかもっと知りたいという気にはならなかった。

 ただ、エッセイを読んだ限りでは、5人いる他の担当者とは文章が一線を画していた。尾崎さんは、文章の中に「驚いた」とか「嬉しかった」とか「悲しかった」という直接的な感情をもろに表現する言葉を使わない。ではそんな感情を一体どうやって吐露していたかと言うと、すべて文章に組み込んで巧みに読み手に伝わるようにしていた。尾崎さんの文章は面白くて、ユーモアがあってというタイプとはまるっきり違っていた。それどころか、暗くて、ジメジメしていて、感動的な話でもなく、どこまでも現実的だった。エッセイの主題は過去の思い出話だったが、有名になった自慢話よりも今の場所にたどり着くのにどれだけ大変だったかが真摯に綴られていた。

 ラジオで尾崎さんは「よく僕の書く歌詞は文学的ですね」と言われることが多いと語っていた。なるほど、歌を聞いたことはないが、週一回のエッセイを6カ月読んだ身としては頷ける。思えば、エッセイもさながら純文学のような雰囲気を醸し出していた。どう見ても一般向けではないが、目利きができる人が読めば、それなりに評価するのかもしれない。もちろん、凡人の私にはそんな才能はないが、何かしら他を圧倒するような隠された魅力を感じていた。つまり、文章というのは、こんな書き方も存在するのだという衝撃を受けたのだ。決して尾崎さんの文章が好きなのではないが、なんだか気になってしようがないのだ。

 番組の中で、尾崎さんはネットで「ごめんなさい。よくわかりませんでした」という書き込みを見つけることが多いとも言っていた。自分の小説を読んだ感想なのだが、尾崎さんの小説がさっぱり理解できないので申し訳ない気持ちになっているらしい。そこには理解したくてもできない戸惑いをどうかわかって欲しいとの気持ちもある。だが、尾崎さんは「ごめんなさいなんて、言うなよ」と憤慨する。つまり、自分の書いたものを分からないのなら、分からないままで、それでいい。だが、その前に「ごめんなさい」と謝って欲しくない。「そんなに気を使うなよ」と言いたいのが本音なのだ。必要が無いのに、無駄に気を使われるこっちとしては、なんだか惨めな?まあ、なんというか複雑な気分になってしまうのだから。だから「ごめんなさい」は余計なのだ。

 それから、一番気に障るのが、ミュージシャンや役者が小説を書いて話題になると、必ず世間から言われること。いわゆる、本業でうまくやってるのにそっちの方面にまで進出しなくてもいいんじゃないの」という世間からの風当たりだ。「へえぇ~!?小説も書くんだ!」みたいなことを散々言われ、日頃からやたらいい思いばかりしているかのように勝手に思われてしまうことが鬱陶しい。いつも美味しい物を食べてばかりいるのに「それでも、まだ食うのか!?」なんて言われるのとたいして変わりない。そんな見方をされるのは心外で、世間一般の偏見に過ぎないと尾崎さんは断言する。自分だって決して楽しいことばかりではなく、辛いこともいっぱいある。それなのに、そんな現実をわかりもしないのに、色眼鏡で見られることには強く異を唱えたいと言う。

 私は尾崎さんが小説を書き始めた経緯を知っているだけに、その思いがよくわかる。昨年のエッセイでそのことに触れていたからなのだが、声が思うように出なくなったときに、絶望のどん底から救ってくれたのが小説だったのだから。

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