人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

PLAN75を見ようかどうしようか

見たら余計に怖くなるから、やめた方がいいのか

 最近の新聞の投書欄を見て思うのは、ウクライナのことももちろん言及されているが、目立つのは映画『PLAN75』についてだ。この映画を見てこの先の未来が怖くなって、背筋が凍ったという投稿が多いことに気が付いた。その中で特筆すべきは「年金を貰うと言いますが、国に預けたお金を返してもらっているのです」とか「掛け金を長く払い続け、やっと手にした年金も若者が支えていると言われ・・・」というような認識の高齢者がいることだ。これには正直言って仰天した。まさかこんな風に高齢者が思っているとは想定外だった。当事者からすれば、もっともな意見なのはわかるし、「私は若者に支えられているのでしょうか!?」と疑問を投げかけたい心情も理解できる。そして「私が長年国に納めて来たお金はどこへ消えたのでしょうか」と言われると返す言葉も見つからない。

 私の場合は若い時に年金だけでは足りないともうわかっていたので、民間の個人年金を積み立てている。払い込み額は月に2万円で、貰う時期を60歳からか65歳からか自由に選べるようになってはいるが、支給期間は20年と決まっている。限りある年金で未来永劫ずうっと貰えるわけではないが、あるのと無いのとでは雲泥の差がある。満期になってひと月に貰えるのは3万円程度だから、公的年金がいかにお得かがわかる。払い込み額以上に戻ってくるのだから、銀行貯金とは比べ物にならない。

 新聞の投書には、「映画では高齢者は医療費、年金を食いつぶす老害でしかないと洗脳。若者世代の負担が大変だから、安楽死を選べと狡猾に進めます」と書いてある。こうなると、政府やマスコミが勝手に煽りたてている”人生100年時代”っていったい何?と首を傾げずにはいられない。健康で、お金があって、バイタリティ溢れるスーパー高齢者のための言葉でしかない。どう考えてみても、皆が皆そんな理想的な高齢者になれるわけもないのだから、人生100年時代を謳歌できるのは一握りの人たちだけだ。たとえ、お金があっても、100年生きたくても、病は突然人を襲ってくる。人に寿命というものがあるのなら、残念ながらお迎えが来たのだ。私の叔母も100まで生きると宣言していたし、お金には不自由していなかった。今が一番幸せといつも言っていたが、結局は食道がんになって逝ってしまった。甥っ子の医者に「どこも悪い所はない」と太鼓判を推されていただけに、余計に周りはショックが大きかった。

 新聞の投書を読んだ私は、「これは是非とも見なければ・・・」とすぐに思った。そうだ、お盆に実家に行くから、義姉のミチコさんと一緒に見に行けばいいと考えた。ネットで検索して、「PLAN75、上映館、」と入力し、表示された画面から地域を選んだ。あんな田舎に映画館なんてあったっけと半ば期待せずに見たら、家から車で30分ほどの場所に一軒だけあった。もちろん今まで行ったことがない場所だったが、イオンモールというショッピングセンターの3階にある映画館だった。サイトのレビューを読んでみると、「お客さんは高齢者が多いようで、皆さん声も出さずに静かだった」とか「近未来を見るようで胸が痛いを通り越して、空恐ろしい」という意見が多かった。その中で「つまらなかった」というコメントもあったのには驚いたが、要するに、映画での出来事は十分想定外ということなのだろうか。

 この映画は高齢者が全人口の大半を占める未来への問題提起をしているのだが、果たしてその事実を突き付けられた私たちに対応策はあるのか、否か。今のところ目の前にある生活での対応に精一杯で、残念ながら手も足も出ないのが現実だ。こうなると長生きは幸せなことなのかという究極の課題にぶつかってしまう。だから、私は映画を見ようかどうしようか迷っている。だが一方では、映画を見終わったら、少しは自分の中の何かが変わるのかもしれない、などと少しの希望も抱いている。

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