人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

むらさきのスカートの女

明らかに異常な話、でも面白いので一気に読了

 今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』をようやく昨日読むことができた。「できた」と言うのは、もうずうっと前に買って本棚に置いてあったにも関わらず、見向きもしなかったからだ。新聞の書評や出版社の広告等で、何度も著者の名前と本のタイトルは頭に刷り込まれていた。なんだかよさそうで、たいして面白くもない日常を変えてくれそうな(今なら平穏が一番有難いのだと痛感するのだが)、そんな本に違いないと思っていた。『むらさきのスカートの女』のことが何度も私の頭の中を掠めては通りすぎ、時間だけが過ぎて行った。でもそんなある日、近所の書店に行ったら、その本が目のまえにあって、私に何かを囁いていた。躊躇なく本を手に取って、レジに持って行った。

 だが、残念なことにその時私が読みたかった本は別の本で好奇心はそちらに向かってしまい、『むらさきのスカートの女』を確保しただけで安心してしまった。本屋の店員に「カバーを掛けますか?」と聞かれたら、遠慮なくお願いする方なので、本のタイトルは隠れたままだった。そんな訳で、毎日本棚を見ていながら、すっかり『むらさきのスカートの女』の存在を忘れていた。不思議なもので、本のタイトルが隠れたままだと、「読まなきゃ」という強制観念から解放されるみたいだ。一度、本のカバーを全部取り除いてみたら、一斉に本のタイトルが話し掛けてくるものだから、胸のざわつきが止まらなかった。煩くて、苦しいので堪らず「もう勘弁して!」となった。慌ててすべての本のカバーを元通りに着け終わったら、やっといつもの静寂が戻ってきた。

 この『むらさきのスカートの女』は10万部のベストセラー本で、文庫にもなって手軽に読めるようになった。芥川賞も受賞しているが、いったい何がそんなにいいのか、その秘密をどうしても知りたかった。ある書評では、「今村さんは普通の人間が思いもつかないことを書いて、いつだって私たちを驚かせてくれる。これからの作品が待ちどおしい」と書かれていた。こんな意味深なことを言わせずにはおかない小説とはどんななものなのだろうか。今さらながら、好奇心が再燃して、時間を忘れて一気に読み終えた。

 その内容は語り手である「私」がある女性に執着し、遠くから観察し、守ってあげたいと思う。そして最終的な目的は彼女と友人関係になることだ。その彼女が、近所で有名なむらさきのスカートの女と呼ばれる女性だった。はっきり言って、どう考えても「私」は変な人であり、他人の生活をまるで探偵のように見張るだなんてことは常軌を逸した行為だ。余程の暇人か頭がすこしイカレているとしか思えないし、普通は皆自分の事で精一杯で他人に構っている場合ではないのだ。実際、「私」は働いてはいるらしいが、普通の真面目な勤め人ではなくて、どう見ても社会的にはみ出した部類の人間だ。

 なぜそんなに「私」が他人に執着するのか、確固たる理由は書かれていないが、この種の小説に置いて理由はたいして重要ではない。これからどう展開するのかが問題であって、面白ければいい。何がそんなに面白いかと言うと、むらさきのスカートの女が読み進めるにつれて、次第に変身し、まるっきり別の女性になることだ。最初その女の顔はのっぺらぼうのように感じられ、性格も何も正体不明だった。だが、その女は2カ月という短期間のうちに「私」が予想だにしなかった、とんでもない人間になった。残念なことに「私」は彼女とまだ友人関係になっていなかった。それなのに、ある事件が起こって、彼女が窮地に陥ったときに手を差し伸べる。頼まれてもいないのに、相手は自分の事など知らないのに、彼女を助けようとするのだ。この果てしない、呆れるような執着心に引いてしまうのは私だけだろうか。

 確かに、読んでいて、「ええ!?そんなのありなの?」とか「そんなバカなことはあり得ない」と思ってしまう部分も多々あった。でも、普通の人がどれだけ無い知恵を絞って考えてみたところで、目に見えるはずもない物が見えるわけもない。でも、今村さんはその実体のない何かが見える数少ない人なのだと痛感させられる、そんな小説が『むらさきのスカートの女』なのだ。

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