人生は旅

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梅雨は読書に最適な季節

今週のお題「雨の日の過ごし方」

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雨の日は読書にもってこいの天気だと気付いて

 覚悟はしていましたが、とうとう梅雨の時期になってしまいました。まだまだだと思っていたら、予期せぬ早さに面食らってしまいました。かと言って、梅雨の過ごし方と言われても、特に思いつきません。でも、自粛生活の中で梅雨を過ごすのなら、少しは工夫しなければなりません。ジメジメ、ジトジトといった身体に纏わりつくような不快感の中で、いかに快適に過ごすかを考えてみることにしたのです。でも、この季節特有の気候は自分の力ではどうにもならないので、何かで少しでも気をそらすしかありません。では、何がその役目をはたしてくれるのかと言ったら、すぐに思いつくのは、音楽や書物といった類のものです。昔の人は楽器演奏や詩を作ったりして気を紛らわしたと言われています。

 ふと思ったのですが、雨の日は晴れた日よりも気持ちが落ち着くのです。今朝雨音で目を覚まして、布団の中でじっとしていたら、とても落ち着いた気持ちになりました。正直言って、家の中より外が好きなのですが、外が雨風激しい時は家に居るより仕方がありません。それに晴れた日に聞こえてくる外の喧噪が雨音にかき消されます。なので、集中するには最適の環境になるだと初めて気づいたのです。天気がいい日に昼間家で何かに熱中することは、私にはとても難しい事でした。外が気になって、外に行きたくて仕方がなくて、どうしてもソワソワしてしまうのです。「昼は行動の時、夜は思索の時」と五木寛之さんが書いておられるように、昼間は集中力に欠けるのです。でも、雨降りとなると状況は一変するのです。つまり、梅雨の時期は読書をするのに最適な季節といえるかもしれません。

 それで、家の中で何か読むものを探してみました。本棚にある本は自粛生活ですでに読んでしまったので、押し入れや倉庫を捜すしかありません。でも、以前流行っていた断捨離をしてしまった後なので、ほとんど本がないのです。本屋に行って探しても、なかなか買いたい本がありません。今更、こんなことを言っても埒が明かないのですが、もう少し本を捨てずに置けばよかったと後悔したのです。ある片付けの本には「本はいくらでもまた手に入れることができる」のだと書いてありました。たぶん、そう書くことによって、少しでも軽い気持ちで手放せるようにとの配慮があったと思うのです。

 ですが、その時処分したお目当ての本を手に入れようとするのは至難の業なのでした。本屋に売っていないなら、それなら図書館に行けばあるのかと思ったら、それは甘い考えだと思い知りました。もう何年も行っていない近所の図書館を久しぶりに覗いてみたら、本の少なさに愕然としてしまいました。家から歩いて10分のところにあるその図書館なら返すのも楽だと単純に考えたのですが、思慮が足りませんでした。やはり、借りて読むのなら面倒でも遠くにある中央図書館に行かなければならないようです。それと、今回、図書館に行って気づいたのは、図書館の本にはカバーと帯がないことです。普通、本屋で本を選ぶときはカバーや帯に書かれている文句によって、ある程度内容が想像できます。でも図書館の本はタイトルだけなので、パラパラとページを捲って内容を確かめるしかないのです。

 いずれにせよ、鬱陶しい季節を何かに熱中して乗り切ることは必須事項です。その何かを見つけることが、これからの課題であり、また楽しみでもあります。先日、本屋でNHKの語学講座のテキストを買う際についでに岩波文庫の『中国唐詩選』を買いました。買うつもりは全くなかったのですが、いつも中国ドラマを見ているせいか気になったのです。その本の中のある詩には虹が出て来るのですが、この詩が作られた中国の衛では虹はタブーとされているのです。雨上がりの晴れ間に見える、誰からも歓迎される、あの虹がこの時代の人にとっては汚らわしいものなのでした。解説によると、「虹は天と地が性的に交わったときにあらわれると考えられた。それは秩序を乱す不穏なしるしであり、男女の場合は淫蕩を、君臣の場合は謀反、不忠を意味する。世の転覆を予兆する『白虹(はっこう) 日を貫く」という成語もある」そうです。時代によって、物の見方というのこんなにも違うのかと目から鱗でした。と同時にこれから先ページを捲るのが楽しみでしかたありません。

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