人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

そうめん論争で思い出が溢れて

今週のお題「そうめん」

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 二人で仲良くそうめんを食べていた光景が蘇ってきて

 そうめんと聞いて、無邪気に喜んでいた私でしたが、一つ肝心なことを忘れていました。それはそうめんが美味しいと感じる季節は太陽の熱で四方から身体を囲まれるかのように感じる真夏の日々なのでした。朝の散歩を1時間早くしたのも、気温が高すぎて歩くのが辛いからでした。水分補給のために飲み物を持参するのですが、いっこうに身体が冷えてくれません。そんなときはカフェに入って一息つくと、ヘロヘロでヨロヨロになっていた身体が一気に復活します。冷房の効用に今更ながら感心し、電気の威力を思い知ることになります。また朝からヘトヘトになる季節が足音を立てて近づいてきたのか、そう思うとため息が出ます。でもそんなことも言っていられないので、暑さに耐え抜くぞと覚悟を決めるしかありません。

 兄が亡くなったのも、そんな夏の暑さが最高潮に達していた時でした。葬式が終わった後、私たち親族はお昼をたべにカニの専門店に行きました。店の2階にある静かな個室の部屋はキンキンに冷えていて、外の熱帯地方のような気温と比べるとまるで別世界でした。お茶を飲んで一息ついていると、そこにカニの刺身が運ばれてきました。一口食べて見ると、今まで食べたことがない味で、「これが本当の生のカニ?」と衝撃を受けてしまいました。ステレオタイプな見方をすれば、今まで知っているカニはパサパサで、正直言って、カニカマの方がしっとりして美味しいのではと思っていました。

 私同様に本物のカニに感激したのか、次々と運ばれてくるカニ料理をみんな一心不乱に黙々と食べていました。話などそっちのけで食べていたはずなのに、どんな流れからそうなったのか、二番目の兄がそうめんのことを話題にしたのです。「そうめんなんて、どれもおなじだよね」と周りに同意を求めました。兄は今までそうめんを食べてきて、そうめんにも味があることに気が付かないまま生きて来たようでした。姉たちも私もそんな兄の戯言など気にせず、目の前にあるカニに熱中していました。すると、話好きなお寺の住職がサービス精神を発揮して兄の話し相手をし始めたのです。この住職は姉に言わせると、坊さんなのに性格が軽すぎて、その人間性に首を傾げたくなることが多々あるそうで、この時も兄の言うことに適当に頷いていました。

 そんな穏やかな雰囲気が一変したのは、終始沈黙していたおとなしそうな男性の発言でした。その親戚の男性が「そうめんにもまずいのと美味しいのがある。特に美味しいのは揖保乃糸だ」などと主張したので皆面食らってしまったのです。その一言でそうめんに対してのこだわりが溢れだしたのか、たちまちその場はそうめん教室になってしまいました。私はそうめんあるあるを聞きながら、亡くなった兄と二番目の兄は歳が3つしか離れていなくて、とても仲が良かったことを思いだしていました。二人でよく座布団を手に括り付けてグローブ代わりにし、ボクシングの真似事をして遊んでいたこと。また、ある時はランニングシャツ姿でふざけ合いながらそうめんを啜っていた二人の姿が蘇ってきたのです。

 仲が良かった二人ですが、一度だけ兄が弟に激怒したことがありました。弟はその頃旅行会社に勤めていて、兄の会社の社員旅行の手配を任されていました。それなのに、どうしてなのか弟はうっかり忘れていたと言い訳をして、信頼を裏切るような真似をしてしまいました。素直に謝ればいいのに、反省の色もなく「あんな小さな会社の旅行なんて」などと生意気なことばかり言うので、兄の怒りは頂点に達してしまったのです。子供の頃はあんなに仲が良くても、いつしか、時の流れが、置かれた環境がその関係を壊してしまうようです。弟、つまり2番目の兄は大学を卒業して社会人になった頃から変わってしまいました。私にとっても一心同体だと思っていた兄は見たこともない人になりました。亡くなった兄がもう長くないとわかったときもなぜかお見舞いにも来ませんでした。家は目と鼻の先なのにどうしてなのか、たぶん彼なりの理由があるのです。

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