人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

地元の駅にピアノが

今週のお題「わたしの実家」

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なんと駅にピアノがあって弾く人が絶えることなく

 今回実家に帰省してみて、変わったことは、いつも待ち合わせ場所になっている駅にピアノがあったことでした。テレビの番組でもたまに見ますが、空港にピアノがおいてあったり、ショッピングセンターのような人が大勢行き来する場所にピアノがある事が多いです。でも私自身は実際にはこの目で見たことがなかったので、一瞬「あれ?」と少し驚いてしまいました。「こんなところにピアノが!」と思って、ふと見ると誰かが弾いているのですが、周りに観客がいないせいか自由で楽しそうな雰囲気が伝わってきます。テレビの映像ではいつも何人かのギャラリーがいて、弾き終えると拍手なんかが聞こえたりします。他人事ながら、あれじゃあ弾きたいと思っても気後れしてしまって、上手な人しか弾けなくなってしまうのではないかと余計な心配をしたこともあります。

 その点において、あの場所にあるピアノは駅の出入り口の近くにあるので、人々は皆たいてい急いでいて、ピアノに耳を傾ける余裕などないようです。生のピアノの音が喧噪にかき消されるBGMのように虚しく、でもとても自由な音に聞こえてきます。ここはコンサート会場ではないのですから、弾きたい気分の人がいつでも弾けるようにピアノは置いてあるし、熱心な聴衆は必要ないのです。かくいう私もピアノをチラッと横目に見ながらも、『エリーゼのために』や『トルコ行進曲』をちゃっかり盗み聞きしていました。ピアノなんて全然興味ないという振りをしながら、ちゃんと聞いていて、密かに楽しんでいたのです。

 迎えに来てくれた兄嫁のミチコさんが「ああいうところで弾く人は皆プロとかで音楽関係の上手な人なんだよね、テレビでは」ともっともな正論を言いました。でも目の前の場所では生のピアノもスピーカーから流れるテープの音とたいして変わらないのです。だから弾きたい人にとってはストレスが少なくて好都合かもしれません。注目されたい人にとってはお気の毒ですが、そうでない人にとっては最高の環境といえるのかもしれません。ピアノを弾いている自分の近くに来られて、じっと見つめられるのはなんだかやりにくい、でもやっぱり弾いてみたい気持ちを抑えることはできないのだと、友人が言っていたのを思い出します。

 少しの間遠くからピアノのある方を観察していたのですが、ピアノの音は絶えることなく続いていました。時折子供が弾いているのか、お馴染みの『猫ふんじゃつた』や『きらきら星』のような楽しい曲も聞こえました。皆忙しい振りをして全然聞いていないように見えても、私のようにちゃんと聞いている人もいるはずです。いずれにしろ、駅ピアノは人々の喧噪に紛れてしまうせいか、全然うるさく感じないので苦情など来ないのでしょう。どこかのショッピングモールに置いてあったピアノのように、周りにテーブルとイスがあって人々が休憩できるようになっている場所ならまた反応は違ってくるのでしょう。

 音楽は誰にでも歓迎されると思いたい私ですが、音楽はすべて心地よくて、人を幸せにするかというと甚だ疑問です。以前親戚の結婚式で都心のホテルに行きました。その隣には大きなデパートがあって、敷地には大規模なイベントができる広場がありました。前日に現地に着いて、ホテルの周辺を散策していたら、ちょうど何かのフェスティバルが開かれていて、何処かの有名な地ビールや見るからにおいしそうな食べ物の屋台もたくさん出ていました。そこまでは良かったのですが、歩いていているうちに何やら耳障りな声が聞こえてきました。人を不快にさせるような声の主はその日のために作られたステージでギターを弾きながら歌っていたのです。

 なんと表現すればいいのでしょう、その人の歌が特にヘタと言うわけでもないのに、その声が私の癇に障るというか、もう聞いていたくなかったのです。正直言って、いつものようにBGMのようには思えず、「もうお願いだからやめてくれ!」なのでした。そんな経験は高校に入ったばかりの時に、音楽クラブに見学に行って以来の衝撃でした。あの時彼らは体育館の暗幕の中で演奏をしていましたが、それがあまりにも喧しすぎて耐え切れずに逃げ出したのです。彼らの世界は私には到底理解できないのだとつくづく思ったのです。

 

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