人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ピンピンコロリは幻想

認知症の母親と暮らしてわかったことは・・・

 先日の新聞の投稿欄『声』を読んでいて、思わず目を大きく見開いた。何だ、そういうことだったのかと目から鱗だった。それは「認知症の母と暮らしてみたら」というタイトルの無職の68歳の男性からの投稿だった。その人はもう5年ほど認知症の母親と二人で暮らしている。母親は92歳で、同居を始めたときは本当の意味で認知症がどんなものなのか、わかっていなかった。当初は単純に「母がボケるならボケた母とのんびり暮らせばいいと思っていた」のだが、現実は想像をはるかに超えていた。「母親は人が変わったように怒りっぽくなり、症状を理由にショートステイの受け入れを何軒も断られた」!そうだ。そうなると、のんびり生きるなんて悠長なことは言ってられなくて、毎日が戦争のようなものだ。また、「認知症の母のことを相談できる専門医も地域には少ない」。だから「もっと認知症について、国で、社会で、個人で考えて欲しい」とこの人は訴えている。

 テレビのニュースでは「新しい認知症の治療薬が承認されました」との朗報を伝えてはいるが、大事なのはそこではないだろうといつも感じる。認知症になってからではなくて、なる前にもっとするべきことがあるはずだ。国が、社会が認知症予防のために全力で取り組む必要がある。そうでなければ、人生100年時代で、幸せになるなんてことは不可能だ。それに最新の治療薬は保険が利かなくて、高額なのではという懸念もある。そうなると、お金持ちにしか手が届かなくて、貧乏人には夢の治療薬でしかない。

  同僚のひとりが「これからさらにいい薬ができるはずだから、もう認知症なんて怖くないね」などと気楽なことを平気で言う。現実はそんなに簡単なことではないし、とても楽観できない状況だ。私の叔母は82歳で食道がんで亡くなったが、生前は気骨があってスタスタと歩くエネルギッシュな人だった。普通の老人と違って、お金があったので、習い事をして、ひとりで自由に暮らしていた。「今が一番幸せ」といつも言っていたが、その叔母があるとき高齢者施設を見学する機会があったそうだ。そんなところへ入る気などさらさらなかったが、今後の参考にと興味深々で知人に付いて行った。

 見学してみて驚いた、お年寄りが退屈しないようにこれでもかと手厚い配慮がされていたのだ。映画やドラマが見放題だし、ジムもあるし、プールもあるので、やりたいことが何でもできる。叔母は「ここって、天国みたいなところだね」と施設のことを褒めちぎった。だが、よく考えてみると、健康でなければ、どんなに施設が豪華でも意味がないのだ。身体の自由が利かなくなったり、認知症で訳が分からくなったりしたらどうだろう、全く無用の長物になってしまう。

 あの頃、幸せで輝いていた叔母が「私、死ぬことが怖いの」と冗談とも本気ともつかない事を真顔で言うのを聞いたことがある。叔母のような人は世間で言われるようなピンピンコロリで亡くなるのだとばかり思っていたが実際は違った。去年の8月に亡くなった叔母はその年の2月にはすでに体の異常を感じ取っていた。家族には隠したかっただろうが、ついに晩御飯が食べられなくなった。同じ敷地の離れで暮らしていた叔母は夕食だけは家族と共にしていたので、家族は慌てて、病院に連れて行った。

 病院の診断の結果は食道がんで、叔母の場合は腫瘍が手術ができない場所にあることが分かった。治療方法としては放射線治療しかない。食べられないので別人のようにやせ細ったおばの体力を回復させるためにも入院させるのがベストな選択だった。ところが、間の悪いことに時期が悪かった。世の中は折も折コロナ禍で、家の者すら面会は許されず、たまに洗濯物を看護師に手渡すのがやっとだった。

 社交的で変化に富んでいた叔母の生活は一変し、どこにも行けない、看護師以外は誰とも話せない、畳一畳ほどのベットが唯一の生活空間になった。となると、いくら気丈な叔母と言えども、悲しいことに精神的に異常をきたすことは避けられなかった。こちらがメールで質問したことに、全く答えてくれない。言葉のキャッチボールが出来なくなった。以前のようには意思疎通が出来なくなったことは寂しい限りだが、それでもまだ生きていてくれることに感謝しかなかった。

 叔母は自分の運命を悟っていたかもしれないが、家族も、周りの誰も、あんなにあっけなく向こうに逝ってしまうとは予想していなかった。だが、本人にとっては突然の死ではなくて、ある程度覚悟していた死であることは間違いない。あの人がそう簡単に死ぬはずない。あの人が死ぬことがあるとすれば、それはピンピンコロリだと誰からも言われていた叔母。でも叔母の死でピンピンコロリは幻想だとわかった。

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