人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

炎上供養

最初は仰天したが、これも時代の流れか

 9月4日の天声人語で話題にされていたのは、炎上供養のことだった。聞きなれない言葉だが、「SNSやネットの掲示板に批判や中傷などの書き込みが殺到し、心に傷を負った人たちに救いを提供するのがねらい」だと言う。そう言われても具体的に、何をどうするのか、さっぱりわからなかった。一瞬、戸惑っていると、「問題となった投稿を寺のサイトに送ると、寺はその投稿を紙に印刷し、撫木(なでき)と呼ばれる木の札に巻き付けてたき上げる」という説明があったので、そこでようやくなるほどそういうことかと納得した。このような実にタイムリーだと感心するサービスを提供してくれるのは新潟県燕市にある国上寺というお寺だ。

 さらに驚くのはこのサービスを無料で提供し、今まで500通もの供養をしてきたことだ。普通、○○供養と言うと、思い浮かぶのは人形供養とか、水子供養くらいだが、その人形供養にしても、昨今は様子が少し違ってきているようだ。つまり、最初は人形だけだったが、今では「だるまや羽子板、ぬいぐるみ」まで、ありとあらゆるものが持ち込まれる。「思い出がありすぎて捨てるに捨てらえない品々を預かり、読経をして火にくべる」役目を寺は引き受ける。さらに、最近はこんなものまでと仰天するようなもの、例えば、「名刺や写真、犬型ロボット、入れ歯にパチンコ台もあった」そうで、人々は単に捨てるだけではとても気が済まないのだ。

 考えてみると、何かの理由で愛着があるものを捨てる、つまり、ゴミに出すと言うことはただ単に自分の目の前からそれを見えなくするだけのことなのだ。”去る者日々に疎し”とよく世間では言われるけれど、実際は心の中にそのまま居続けることもある。しばしば映画やドラマに出てくるシーンのように、自らそれを焼いて灰になるのを確かめない限り、この世から消えたわけではないのだ。となると、読経をあげてもらい、火にくべて焼いてもらうことを選択するのは自然なことだと言える。

 国上寺では例年は春一回だった供養祭を秋にも開く予定だ。その理由は持ち込まれる品物の数が多すぎるからだった。寺に持ち込まれたり、あるいは送られてくる膨大な量の品々を保管して、読経した後火にくべて焼く。想像するだけでも、物凄い人手と労力が必要だとわかる。これはいくら何でも無料なわけがない、と察した私はネットで検索して、寺のサイトを見てみた。供養してもらう品は宅配便でも受け付けると書いてあった。さて、肝心の供養料はと言うと、人形二体までは5千円、3体までは一万円で、段ボール箱(3辺の合計が110cm)は一個に付き2万円かかる。宅配便となると、やはりダンボール箱で送るので、現地に直接行かない代わりにお金がかかることが分かった。それでも新潟の燕市まで行くにも交通費がかかることを考えれば、2万円は妥当な金額だと言えるかもしれない。ダンボールに供養してもらいたい物と一緒に供養料を入れて送れば受け付けてくれる。寺の方も慈善事業で供養をしているわけではないのだから当然のことだ。

 だが、本来の物を供養するという目的を考えると、自ら直接寺に持って行くのが筋なのだろう。段ボールで送りつけると言うのはまるで不用品に加えて処理料を払ってしまえば、それで片が付くと言うか、すっきりするのではという誤解を与えてしまいかねない。そんなことを思ってしまうのは、私がまさに今叔母の遺品の洋服を送りつけられて、どうするべきか思案中だからだ。とりあえず、押し入れに隠して普段は見えなくしてあるから、心に引っ掛かることはない。こちらの了解も得ずに勝手に送って来る方も来る方だが、受け取りの拒否権を行使できないのだからどうしようもない。だから、捨てるのではなく、目の前で燃やして灰にできたらどんなにいいかとありえないことをふと思ってしまうのだ。

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