人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

何をしたいか、漠然としていた

英語の習得が目標で、その先を考えていなかった

 思えば、私と英語との初めての出会いは、すぐ上の兄、と言っても9つも歳が離れているのだが、その兄がいつも聞いていた英語ニュースのテープだった。当時兄は高校生で、家に居るときは一日中英語のテープを流していた。当然まだ英語のエの字も分からない子供だった私も門前の小僧のように、BGMのような英語を聞いていた。言葉の意味なんて分からず、何を言っているかもチンプンカンプンなのだが、子供心に英語独特のあのリズムが心地よく感じられた。日本語よりも、英語の音がなんだかとてもカッコよく思えて来た。言葉の意味なんて分からなくても構わなかった。英語は耳障りな雑音なんかではなく、ある種の音楽、それも飛び切りカッコイイ音楽のように思われた。いつしかテープの音を真似して、声に出して発音してみた。特徴を捉えて、オーバーに声に出すので、周りは可笑しくて堪らないらしい。

 こんなカッコいい言葉を話す人たちがいるらしい。私にも話せたらなあと漠然とした夢を見ていた。今思うと、それが初めて抱いた外国への憧れだった。うちの兄は高校生の頃から英語だけではなくスペイン語も勉強していた。田舎だから、習いに行くところもないので、もっぱらNHKrの語学講座を聞いていた。兄の部屋にはテキストがいっぱいあったので、将来は何か英語を生かした職業に就くのだとばかり思っていた。兄は母の自慢の息子で、母は私にいつも兄がどんなに素晴らしいかを話して聞かせた。中学性の時に夏休みの自由研究で担任の先生に褒められたこと。「○○君(兄のこと)は将来が楽しみですねえ」と言われたと自慢げに話していた。それでその話を真に受けた私は、てっきり兄は素晴らしい人生を送るのだと疑いもしなかった。

 母の話の真偽はさておき、どこでどう間違えたか、将来を期待された兄は立派な人になるはずだったのに、どこにでもいる”普通の人”になった。英語に関わる仕事に就くために国立の外国語大学を受験したが、残念ながら不合格だった。プライドだけは人一倍あった兄は仕方がないので地元の私大に入った。そこで同期の人たちに「僕は君たちとは違うんだぞ」とぶちまけてしまって、周りを大いに驚かせた。今となっては本人曰く、とんだ笑い話である。それでも英語との関わりは消えることなく、大学の英語のサークルに入って活動していた。中学生になって、私が英語を勉強するようになると、「そこは違うよ」と発音を直してくれたりもした。

 今にして思えば、兄は英語を使って何がしたかったのだろうか。それについては聞いたこともなかったし、本人も母も何も言っていなかった気がする。おそらく兄にはどうしたいのか、漠然とした将来の希望はあったはずなのだ。でもそれなら、なぜ最後までそれを追い求めなかったのか。それは本人だけが知ることで、私の想像力はそこまで及ぶはずもない。最初から高い目標を掲げて、例えば、外交官になるとか、英語力を生かして旅行社で働くとか、新聞記者になるとかで、本当にそうなってしまう、夢を実現してしまう人はそう多くはない。兄の場合も、外大に落ちたことで、英語に対して持っていた情熱が冷めてしまったのだろうか。

 兄の就職先は地元で有名な旅行社で、主な仕事は中学生の修学旅行の添乗だった。なぜその会社にしたかというと、ただ単に親戚で役員をしている人がいたからだ。当時は縁故で就職は当たり前のことだった。旅行社なのだから、英語を使った仕事をしようとすればできたはずだ。もちろん兄はそのつもりだったらしく、通訳案内士の試験も何回か受けていた。だが、いつも「不合格」と赤のスタンプが押されたハガキが家に届いた。そのうちに、兄はもう試験を受けなくなり、30過ぎてやっと結婚して家を出て行った。私の場合も、英語を使って何をしたいか、あまりにも漠然としていて、わからなかった。海外旅行に行くための俄か英語ではなく、「使える英語」のハードルを越えるのは至難の業だ。あまりにもいい加減で、飽きっぽくて、情熱が長く続かない私には無理だった。

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