人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

近所を散策するのが楽しい

今週のお題「外でしたいこと」

なにも遠出をしなくても、幸せはすぐ近くにある

 今、外は植物の宝庫と言ってもいいほどに、賑わいを見せている。冬の間殺風景だった世界が最高潮に盛り上がっている。しかも、頬をくすぐる風さえも心地いい。早朝ならまだ暑くもなく、寒くもない最高のコンディションで散歩ができる。もう少し時間が経てば、すぐに太陽の日差しを眩しく、また鬱陶しく感じてしまうのだろうが、幸いなことに、暫し至福の時間を味わえる。冬の間は裸木で、侘しい限りで見るに堪えなかった樹々の葉が繁茂しているのを見るのは、まるで生命の神秘を、何らかの希望の光をみているようで、とても新鮮だ。散歩の途中にある、ハナミズキが青々とした葉で鬱蒼として来たと思ったら、いつの間にか白い花を咲かせている。その花がなんとも清楚で可憐な花なので、足を止めて眺めている。ただの白い花と言ってしまえばそれまでだが、人を惹きつけずにはいられない魅力がある。

 少し歩みを進めると、今度はピンクと白の模様のハナミズキの花が咲いていて、白い花もいいが、ピンクの花もまた葉の緑とコントラストを奏でていてとても綺麗だ。そう言えば、先日朝日新聞天声人語を読んでいて、気づかされたことがあった。それは、「日露戦争の講和で、労を尽くした米国に尾崎幸雄が感謝を尽くそうと、桜の苗木を3千本贈り、その返礼として米国はハナミズキを送ってきた」との記述で、だが、尾崎のそんな事情を知らない日本人は激怒し、ハナミズキを切り倒してしまったという。そんな逸話がハナミズキにはあるのだと初めて知った。

 こんなにも賑やかな今の風景はかつてあっただろうか。さすがにもう桜は散ってしまたが、道路の端っこには桜の花びらがてんこ盛りにあって、思わず「なんてきれいなの」と私などは心の中で叫んでしまう。あちこちにタンポポの黄色、水仙の白も顔をのぞかせているし、あの盛夏の季節に咲くはずの百日紅までが燃えるようなピンクの花を咲かせている。色彩の饗宴とも言える外の風景は今が見ごろで、「ただの花でしょう」などとうそぶいて、無視してしまうのはもったいなさすぎる。続々とつぼみをのぞかせ、今にも咲き誇ろうとしているツツジも、油断すれば、あっという間に枯れてしまうのはわかっている。まさに花の命は短いのだ。だから、せめてその全盛期を見逃さないようにしたい。

 いつも通る散歩コースの道沿いに製菓専門学校があって、入口の脇にある植え込みはいつも季節の花で彩られている。グリーン中心だが、中には黄色の見事な花を咲かせているラナンキュラスもあるし、もちろんマリーゴールドだってあって、冬の間も寒さにも負けず圧倒的な存在感を放っていた。今注目しているのは、私はそれらがどんな名前か知らないが、パンジーに似た花で、紫の色の配色がなんとも絶妙だなあとじっと見つめてしまう花たちだ。そう言えば、以前郵便局に行った時に、玄関にある植え込みにそれらと同じ種類の花を見かけたことがあった。嬉しいことに、色のバリエーションが豊富で、私たち人間の目を大いに楽しませてくれる。冬の無彩色の世界から、やっと色彩のある色づいた町に変貌を遂げた世界は儚ないが、とても貴重だ。それがほんの少しの間とわかっていても、やはり自然のもの、人工的ではない植物は人にとって不可欠だ。

 歩いていたら、何処からともなく、風に吹かれて桜の花びらが降ってきた。思わず、頭上に目をやっては見たが、近くに桜の木は見当たらない。桜の花のシャワーを浴びたら、きっとうちの姉だったら、ここで一句となるところだが、私には残念ながら何も浮かんではこない。ただ、何とも不思議な心地良い気分に一瞬浸るだけで、すぐに現実世世界に舞い戻るだけのことだ。爽やかな余韻に包まれたまま、いつものように散歩を続ける。足が勝手に歩みを進めるからなのだが、間違いなく私は桜の花びらのシャワーで気分転換をしていた。

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一年ぶりに髪を切ったら

 

信じられないような爽快感に包まれて

 昨日ついに髪を切りに行った。ずうっと行かなくちゃとは思っていたが、先延ばしにしていた。髪を切ってもらう美容院は、いつも行くスーパーの隣りという恵まれた場所にあるにも関わらず、行かなかった、いや、行けなかった理由はちゃんとある。たいしてストレスになるような原因のカケラさえ思いつかないのに、それでもやたら抜け毛が多くて、このままではいずれ髪の毛が無くなってしまうのではないかと不安でたまらなかった。抜け毛が一段落すると、今度は頭の猛烈な痒みが気になって仕方なかった。気にすると、余計にジワジワト痒みが襲ってきて、皮膚科に行った方がいいのではと本気で思った。近所には皮膚科がないので、ネットで検索して探していたら、薬局に頭専用のかゆみ止めがあることを知った。私はそんなものがある事さえ知らなくて、頭の痒みで悩んでいる人は意外に多いのだということを初めて知った。

 要するに、皮膚の痒みと同様に、かゆみ止めを塗って症状を抑えるやり方だ。何回か塗って、それでも症状が改善しないようなら、その時は皮膚科に行くしかないらしい。薬局に行って、かゆみ止めの棚をみると、頭専用のかゆみ止めは液体タイプとクリーム状タイプの物があったが、売れている液体の方を選んでレジに持って行った。なんだか後ろめたい気持ちになったが、このまま頭の痒みを放置することはできなかった。家に帰ると、早速箱から取り出して、頭の痒い部分に塗ってみる。シュワシュワとしたメントールの匂いに顔をしかめる。痒みに堪えられなくて、掻いてしまったせいか、液がジーンと染みて少し痛痒い。少し痒みが和らいだ感じもするが、それは気のせいかもしれない。頭のかゆみ止めを使ってみて、この薬は刺激が強すぎて、やたらと使えないと思い知る。それからは、薬はやめて、頭の痒みをあまり意識しないように努めた。はっきり言って、薬を塗っても効果は期待できなかった。

 さて、そう言うわけで、髪を切りに行くのが伸ばし伸ばしになっていた。今回意を決して行こうと思ったのは、7月に実家の法事があるからで、帰省のためだった。いつも、帰省や特に海外旅行に行く前には、髪を切りに行くのが私の儀式のようなものだった。さっぱりした髪の毛で何の憂いもなく旅立つことで、モチベーションがさらに高まった。旅立つ前にやらなければならないリストの中で、髪を切りに行くことは上位に位置していたはず。なのに、私は昨年髪を切りに行った記憶がない。いったいいつ髪の毛を切りに行ったのか思い出せないまま、海外旅行から帰ってから今まで暮らしていた。

 当然私の髪の毛は鬱陶しいほどに伸びていた。15㎝ぐらいは切っただろうか、さっぱりして、世界が変わったように感じるのは無理もなかった。昨年海外旅行の前に髪を切りに行かなかったのにはちゃんとした理由がある。いや、その前のお盆の帰省の前に行っておけばよかったのかもしれないが、できなかった、それどころじゃなくて、というかそんな余裕がなくて。実を言うと、昨年の6月から年末までずうっと不調だった。膝の裏に水が溜まってまともに歩けなくなったのが、始まりだった。もっとも、痛みをこらえて無理矢理歩きまわってはいたが、夏の暑さが一段落したと思ったら、今度は目がおかしくなった。右目の周りに強烈な痛みが出て、まともに顔が洗えなくなった。原因は右目の奥の炎症で外側の炎症よりも深刻だった。9月から眼科に通っていたが、ある予期せぬ事実が判明して、未だに定期検診が必要な状態だ。

 まだ続きがある。海外旅行直前に胃がおかしくなり、物が食べられなくなった。”旅行は健康でこそ楽しめる”がモットーの私には最悪の事態だった。一番大事な”健康”が欠けている旅行が果たして、楽しいものなのか、甚だ疑問だが、それでも旅行を取りやめるという選択肢はなくて、とりあえず行ってみようとなった。病院に行って、何日かぶんの薬を貰い、不安を抱えながらの離陸は初めての経験だった。もちろん、1日に2回の目薬も忘れずに差さなければならない。そうやって何とか自分で決めた日程をクリアーしてわかったのは、具合が悪くてもけっこう旅行は楽しめるということだ。恐る恐る行ってはみたが、案外気持ちは上がるもので、「行ってみて、本当によかった」と旅行中はずうっと思っていた。まさに”案ずるより産むがやすし”である。

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エジプトという選択肢が消えた理由

エジプトはあのイスラエルと国境を接している

 昨年のヨーロッパ旅行から5カ月も経つと、さすがにお尻のあたりがむずむずしてきた。つまり、立ち上がりたい、ここから再び旅立ちたい欲求がメラメラと湧いてきた。だが、いったいどこへ、もう以前の自分のようには行きたい場所は頭の中に浮かんではこなかった。何処でもいいから行きたいとまでは言わないが、何処か興味が持てるような場所はないものかと思案していたら、そうだ、エジプトに行こうとなった。その発端となったのはNHKのラジオ英会話でのある日のストーリーで、国際カップルのダグと志保が新婚旅行先にエジプトを選んだからだ。普通はイタリアとかフランスとかを選ぶのにどうしてと尋ねる志保に、せっかくだから、エジプトにしようとダグは提案する。

 実を言うと、志保は普通のカップルがするような結婚式はしたくないと自分の正直な気持ちをダグに打ち明けた。それで、ダグは志保の想像を遥かに超えた旅先としてエジプトを選んだのだ。結婚式の費用を将来のために貯金しようと言う志保にダグはそれなら新婚旅行ぐらいは豪華にしてもいいのではないかと意見を求めた。その申し出を聞いた志保は「これでやっとピラミッドを見るという夢が叶うのね」と感激する。ダグは志保が何を望んでいるのかちゃんと知っていた。さすが志保の恋人である。

 この話を聞いていた私は、すぐに「エジプトか、それもいいなあ」と思ってしまった。以前の私なら、すぐに大型書店に行って、7階の海外旅行本コーナーでガイドブックを読み漁るのだろうが、現在ではそのスぺ―スはもうない。ガイドブックが頼りにならないとしたら、船の羅針盤のようにすがるべきはネットの情報だった。むしろ情報が更新されないガイドブックよりはライブ感のあるありのままの情報が手に入る。「エジプト、観光」と打ち込んで、検索してみる。できるだけ最新の情報が欲しいので、日付を見ながら、”エジプトの歩き方”がつぶさにわかる記事を探す。

 すると、ヤフーの知恵袋に「今度、エジプトに観光に行きます。見どころは個人で回れますか、それとも現地のツアーに参加したほうがいいのでしょうか」という質問を見つけた。そのベストアンサーで、「個人で公共バスなどに乗って郊外のスポットを回るのは無理で、タクシーの貸し切りになります」とあったので、これはちょっと勝手が違うぞとようやく気付いた。今まで私がしてきたような気軽な街歩きはできないと思った方がいいらしい。たとえ、観光スポットにほど近いホテルに宿泊しようと、タクシーでの移動が基本なのだという。さらに、「個人でも大丈夫で、観光地を回る限りでは、私は危険は感じませんでした」と付け加えていた。

 そう言えば、昔、エジプトに行こうとしていた時があった。あのルクソールでの銃乱射事件が起こる前だったが、ガイドブックを見ただけで、ギザのピラミッド、ルクソール神殿、その他のたくさんある見どころがあまりにも離れすぎていることにまず戸惑った。移動するのに、恐ろしく時間がかかり、またお金もかかることに気付かされた。日本で言うと、東京、名古屋、京都、福岡というように移動するようなもので、もちろん鉄道などなく、全て飛行機での移動である。これでは見どころの大半を巡るのに10日では足りないのは誰の目にも明らかだ。確かにピラミッドはできる事ならこの目で見てみたい。だが、どうしても、どうしようもなく見たいというわけでもない、それどころかどうしてを追及されると返答に困るほど軽い思いつきだった。

 となると、「もうピラミッドはいいや」となるのは自然の成り行きだ。”死ぬ前に絶対行って見たい場所”のリストに載っているわけでもない。NHKのラジオ英会話に導かれて、エジプトを再び旅行先に考え始めたが、正直言って、迷っていた。ところが、あるサイトを閲覧していると、「今行くべきではありません。イスラエルはすぐ隣の国ですよ」という忌憚のない意見もあって、これには現実を思い知らされて、冷や汗が出た。新聞には、イランがイスラエルを攻撃し、イスラエルも報復を検討していると書いてあった。今後中東の情勢がどうなるかもわからないのに、旅行だなんて悠長なことを言っている場合かと、もうひとりの自分が渇を入れる。そうなると、それほど行きたいわけではない私はエジプトに行くことを断念しない訳には行かなかった。

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おおかみこどもの雨と雪

それぞれの道を見つけた姉と弟

 このところ私は図書館に通い詰めている。公立図書館サイトを何度も検索し、新聞広告に載っていた新刊がないかどうかを探す日々が続いている。不安なのである、と言っても別にこれと言って差し迫った何かがあるわけでもないが、とにかく不安材料には事欠かないのが今の世の中だ。だから、せめて何かに熱中していたい。そうやって不安から目をそらし、今をやり過ごしたい、とそう思っているからこそ、本を読みたいのだろう。何か面白そうな話題はないかといつもアンテナを張って、見逃さないように見張っている。自分がよさそうだと思っている本をサイトで見つけた時はまさに至福の瞬間で、自分はなんて幸せ者なんだと感激し、気分が最高潮になる。それもひとつの幸せの形だ。

 さて、先日も借りていた本を返しに行ったついでに、何気なしにビデオの棚を見ていた。すると、この『おおかみこどもの雨と雪』を発見した。そう言えば、このタイトルは何年も前に夕刊の映画時評で見かけたことがあるが、その内容は全く覚えていない。要するに、その頃の私はこんなありえない設定の話にはあまり興味がなかったらしい。だいたいが「おおかみこども」だなんて、奇想天外すぎて、なんだか先行きが危ぶまれて、見る気にもなれなかったのだと推測できる。なのに、先日は違った。面白そうだから、見てみようと好奇心全開で、ワクワクしていた。

 狼の末裔で正体を隠しながら、ひっそりと生きる彼と、大学生の花は出会った。その出会いからして、運命的なのだが、もしも花が彼に何の関心も持たず、声をかけなかったら、この物語は始まってはいない。「ちょっと、あの人何なのだろう」とふと思うことはあっても、普通は思うだけで終わりで、何ごとも起りはしない。たいていは人と人とは繋がらないで、時だけが過ぎていく。知らない人に声をかけてコミュニケーションを取ろうとすることは勇気がいることだ。その点において、おおかみこどもの雨と雪の母である花は勇敢な人と言える。もっともそれは勇気のいることではなく、偶然といういう運命に導かれた必然であったかもしれない。声をかけたかったから、気が付いたらそうしていたという自然な行為だったかもしれない。

 ビデオを見ていて、最初に気が付いたのは花の声がやたら可愛いことで、あら、この声優さん誰だろうと思った。それに狼男である彼の声も狼にしては、誠実で優しすぎる声だった。さっそくDVDの裏に書かれている声の主を探したら、花役は宮崎あおいさんで、彼役は大沢たかおさんだったので、そうだったの!と少しびっくりした。狼男である彼は運送会社で働き、団地に引越しの荷物を運ぶのが仕事だった。「部屋の作りは同じでも、それぞれみな違う生活をしているんだ」と花に話してくれたりして、二人の生活は何の問題もないかのように見えた。

 ところが、彼は狼の狩猟本能が忘れられず、ときどき狩りをすることがあった。妊娠した花の身体を気遣って滋養のある物を食べさせようと、自ら取った鳥をお土産にして帰宅した。ある日川に狼の死体が浮かんでいた。市の業者が彼の死体をゴミ収集車に放り込むのを花は目撃した。そのなんとも衝撃的なシーンが彼とのお別れで、花は泣いている暇などなく、子供二人を守るべく逞しい母になって奮闘する。ありえない話なのは頭では十分すぎるほど分かっているが、花の頑張りには脱帽するしかない。都会ではおおかみこどもの雨と雪を守り切れないと判断した花は、誰も知らない、遠くへ、それも人里離れた遠い場所に引越すという決断をする。

 そんな場所でも、そんな場所だからこそ、当然のことながら人との付き合いは避けられない。普通の子供とは違う秘密を持った子供二人の正体をいつかは村人に知られてしまうのではないかと、花よりもビデオを見ているこちらの方がドキドキしてしまった。時には肝を冷やしながらも、まあ、作り話だからそんな心配は無用のなのにも関わらず、やきもきのしっぱなし。それは、おそらくこのビデオを見始めて、すぐさまこの物語の世界に没入してしまって、退屈という感情が入り込む余地がなかったせいだろう。

 最後に姉の雪と弟の雨が下す決断に、特に雨がひとり立ちする場面では、母親なら涙なしでは見れないだろう。寂しい限りだが、余計な心配はいらなかった。姉と弟はそれぞれ別の道を見つけて自立したのだから。

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Tシャツを求めて

今ではもうどこにもない

 最近やたらと、汗をかくことが多くなった。外に出かける度に、帰って来ると着替えをする。一日に何枚もTシャツを着替えなければならないが、ある意味、着替えは気分転換のようなもので、気持ちがいい。特に素肌に綿100%のTシャツを身に着ける時は爽快感でいっぱいになる。洗濯の時に数えてみたら、まだ真夏でもないのに、一日に4枚も洗っていた。となると、これから季節が進めば、さらに枚数が必要になるだろう。

 今着ているTシャツをよく見てみると、生地が薄くなったり、袖のちょうど脇の下に当たる部分が、わずかに黒くなっていて気持ちが悪い。そう言えば、もう長い間愛用して、手持ちのTシャツは消耗していたのだ。そうだ、今が、今こそ新しいTシャツに取り換えるべきなのだ。そうは言っても、私の心は晴れない。なぜなら、いつものスーパーから、お目当てのTシャツは消えてしまったからだ。なぜ消えたのか、それはあまり売れないからで、でも、私はあのTシャツが大好きだったのだが、それって私だけだったらしい。食料品を買うついでに衣料品を買えるのは一石二鳥で、わざわざ他の場所に行かなくて済むので大助かりだった。

 考えてみると、今の世の中はネットで何でも買える時代だから、皆ネットで安く、と言っても、実際はそう安くはないのだが、衣料品を買うのもまたネットで済ます時代なのだろうか。画面で見ただけでは、見た目で判断するしかなくて、手触りも何もわからない。きっと大丈夫だろうという希望的観測に従うしかない。一が八か運を天に任せてみるしかないのが現実なので、昔通信販売全盛だった時に返品ばかりする憂き目に遭っていた私は衣料品をネットで買おうとは思わない。

 自分の目で確かめて大丈夫と判断したら買いたい私は、何とか別の店舗にないものかと探し回った。昨日、家から歩いて最寄りの駅まで15分と電車で15分の隣町にあるスーパーに行ってきた。そこの地区は昔から花街で有名な場所で、今でもやたらと人が集まることに驚きを隠せない。すでに以前の華やかさは身を潜め、坂道にぎっしりと店が連なってはいるが、馴染みのある私にはたいして新鮮には映らない。その一角にスーパーはあって、今でも人がひっきりなしに出たり入ったりして昔と変わらずに繁盛していた。何も特に物が安いからとか言ったメリットがあるわけでもなく、むしろその反対で、品物の品質にこだわっているのが特徴とも言える店だった。

 このスーパーの売り場は一階と二階で、一階は生鮮食料品で、二階が日用品と衣料品だった。Tシャツを探していた私は二階に行って唖然とした。行く前からある程度は予想はしていたが、衣料品の売り場がこれでもかというくらい、縮小していたからだ。私の想像範囲を遥かに超えていた現実に打ちのめされた。僅かに残されていたスペースに置かれていたのはまるで閉店セールのような残り物の寄せ集めだった。かと言って、値引きもされておらず、堂々と正規の値段で売られていた。男性用下着、フェイスタオル、女性用靴下と下着、パジャマ等が、必要最低限の量で置いてあって、「もし必要な物があれば、ついでにお買い求めください」と暗に言われているようなものだった。

 この時初めて私はすべてを理解した。要するに、私なんかは別して、誰も食料品のついでに衣料品を買い求めようとはしないのだということを。もう昔のような需要はないのだということを。この店の実態を見ればそれは明かだ。誰も欲しないのだから、そんな商品は、ここでは衣料品は無用の長物で、少しだけでも置いて有ればいいのだ。それは数少ない「あったらいいなあ」とか、あるいは「ここにあってよかった。助かった」と思うお客さんのためのものなのだ。

 それはさておき、肝心のTシャツをどうしようか、どこで買おうかと途方に暮れる。とりあえずはTシャツ問題を何とかしなければ、これから来る猛暑の夏をやり過ごせないだろう。

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コロナの薬代が3万円!

信じられない高額な費用に仰天

 新聞に載っている読者からの投稿はいつも私に気づきを与えてくれ、当事者でしか知りえない情報を入手する絶好の機会になっている。先日も『コロナ薬の負担重すぎ』というタイトルの記事を読んで、唖然とした。それは埼玉県戸田市の柳田章さんの投稿で、4月1日に病院に行ったら、新型コロナだと診断されたという。念のため、インフルエンザとコロナの検査を受けたら、コロナの陽性反応が出て、びっくり仰天した。さらに、処方箋を貰い、薬局に行ったら、ラブゲリオなどの薬代が約3万円かかると聞かされて、二度ビックリ。薬局の人に「支払えますか」と心配される有様だった。

 柳田さんが言いたいのは、ニュースなどで、4月からコロナが5類に分類されることはわかってはいたが、これほどの高額だとは露も思わなかったということ。これでは高齢者や年金生活者にとっては手も足も出ないわけで、適切な処置を受けるためのお金を支払えないのだから、諦めるしか選択肢がないということ。考えてみると、なにも、彼等に限ったことではなく、富裕層でない私たち皆に降りかかってくる忌々しき問題だ。今では皆がまるでコロナのことを忘れ、もう終わったことだと認識しているようだが、運悪く、もし自分がコロナに罹りでもしたら、まるで落とし落ちたような気分気分になるだろう。

 私にしたって、今でもマスクは手放せないが、コロナは他人事だとばかり思っていた。要するに、気を付けていれば、人込みでマスクを着用していれば、絶対に罹ることはないだろうなどと過信している。なので、ニュースで4月から自己負担が増すと言われても、たいして切迫感はなかった。もし自分がコロナに罹ったら、いったいいくら費用が掛かるかだなんて、想像すらしなかった。だが、今回柳田さんの貴重な御意見を読んで、「へえ~、コロナに罹るとこんなに薬代がかかるんだ!」と真相を知ることができた。まさに油断大敵である。別に油断していなくても、コロナに罹るときは罹るのだから、どうしようもない。これからは今まで同様に、感染対策に努め、なおかつそれなりの覚悟が必要だとつくづく思う。

 もしも、この先高熱でも出て、というのは熱でも出ない限り私は病院には行きたくないからだが、病院に行く際には、最低4万円ぐらいは用意しなければならない。というのは、インフルエンザかコロナか判断するのに検査が必要で、私は過去にインフルエンザの検査しかしたことはないが、それでも4千円かかった。因みにインフルエンザの予防注射もそれと同額の費用だったので、こんなつらい思いをするのなら、毎年予防注射をする方がましだと考えていた。インフルエンザに加えて、コロナの検査もするとなれば、より費用は増して、一万円くらい無いと不安だ。さらに、コロナと診断されたら、薬局で約3万円の支払いが必要となれば、やはり4万円は持たないと心許ない。

 柳田さんの投稿記事を読んでいて、気づいたのだが、「風邪のような症状のため、近くの開業医を受診した」と書かれている。つまり、この文章から察すると、柳田さんは軽い風邪でも、気軽に医者に行くタイプの方だとお見受けする。それだからこそ、コロナと診断されて、青天の霹靂のような思いをされたのだろう。このことから、今のコロナは、以前誰かが嘘ぶいていたかのような、”軽い風邪”のような症状に進化してきているのだということがわかる。私自身は、頭が痛いとか喉が少し痛い、とか身体がだるく節々が痛いとかというようなときには、市販の風邪薬を飲んでそれで済ませている。だいたいがそれ以上大事にならずに症状が改善するので、それで良しとしているが、もしかしたら、知らず知らずのうちにコロナに罹っていたかもしれないと思うとぞっとする。

 近頃はテレビや新聞等でもコロナに関連した情報はさっぱり聞かないので、本当のところはいったいどうなっているのか知る由もなかった。柳田さんの投稿のおかげで、今の新型コロナの実態を知ることができて本当に有難かった。

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ハンバーグ包み焼き

空腹が私を唆す

 昨日夕方スーパーに買い物に行ったら、総菜売り場で新商品の惣菜を見つけた。それは「ハンバーグ包み焼き」でラベルには広告の商品と太文字で書いてあった。どうやら広告に載っている商品のようだが、新聞を取ってはいても、チラシを見る習慣がない私にはわからない。じっと見ると、パックの中からハンバーグが顔を出し、「美味しそうでしょう?買わないの?」と私を誘惑してくる。そうなるともうだめだ、だいたいが立ち止ったら時点で、迷っている時点で、今日ぐらいはいいか、となってしまう。それが後で後悔することになっても、そうなったらそれでいいではないかとノープロブレムになってしまうのだ。

 実は何を隠そう、ちょうど夕食時とあって小腹が空いていた。家に帰れば、作り置きのおかずがあるにも関わらず、無駄遣いを平気でしようとしていた。たまには、違う味が欲しかったのも事実で、仕方がないのだが、失敗するのを承知で買おうとしていた。ハンバーグ包み焼きのパックを手に取ると、ええ!?何だろう、やたら重い。これはもしかしたら、まさかまさかの、じゃがいもでも入っているのではと見当をつけた。ハンバーグと野菜だけで、この重さを出そうと思ったら無理である。そこは絶対芋類、つまりじゃがいもの出番なのだ。ふと並んでいる総菜類のパックを見てみると、何度か買ったことがある「ポテトのベーコンチーズ焼き」もあったので、これの方がいいのではとの思いがチラッと頭をかすめた。

 ポテトのベーコンチーズ焼きは、文字どおり、皮つきのじゃがいもの上にベーコンとチーズを乗せて、オーブンで焼いたもので、初めて買った時はまあまあ美味しかった。特にベーコンが美味しくて、チーズがアクセントになっていて気に入っていた。ただ、下にあるじゃがいもはどこにでもある普通のじゃがいもなので、行儀が悪いが私は上の美味しい部分しか食べない。もったいないから、じゃがいもを無理に食べようとすると、まるで自分が罰ゲームか何かを受けているような気になってしまうからだ。なのでそこは割り切って、いい思いだけしようと決めている。

 昨日の場面ではポテトのベーコンチーズ焼きでよかったところを敢えて、ハンバーグ包み焼きにしたのは、ハンバーグでも食べようか、という発想によるところが大きい。ハンバーグが食べたいという欲求には抗いきれず、パックの重さからして相当なじゃがいもの量を容易に想像できたのに、それを重々承知でカゴに入れた。ハンバーグの隣りにはブロッコリーの姿も見えたので、野菜も一緒に食べられるのだからと自分を納得させた。

 さて、家に帰って、早速パックの蓋を開けてみた。蓋を開けた途端、その全容が明らかにされて、仰天した。何と、てんこ盛りのじゃがいもの山があり、全体的にデミグラスソースが掛かっていて、カモフラージュされていて、パックの外側からはそれらがじゃがいもだとは皆目わからないようになっていた。茶色いものはハンバーグではなく、ただの芋だった。肝心のハンバーグは端に一個乗っかっているだけで、付け合わせの野菜もブロッコリーだけだった。この総菜をSDGSの名のもとに残さず食べなさいと言われたら、すぐさま逃げ出したくなった。仕方がないので、目的のハンバーグを食べ始めたが、最初は美味しいと感じたはずなのに、食べているうちになんだか侘しくなって最後まで食べられなかった。言うまでもなく、じゃがいもは見るからに抵抗があって、躊躇することなく捨ててしまった。

 この総菜の”ハンバーグ包み焼き”という名前は総菜の説明には全くなっていない。わかりやすく、正しいのは、さしずめ”ポテトのデミグラスソース焼き、ハンバーグ添え”と言ったところだろう。最初から薄々気が付いていたとはいえ、本当に買ってしまうのだから、後先考えない自分の好奇心に我ながら呆れる。ただ、言えることは、そんなバカげた失敗をしてしまうからこそ、こんな恥ずかしいブログを書けるのだ。もちろん、失敗は今後の教訓にしたいので、パックの容器は戒めのためにちゃんと取っておくことにしている。

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