人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

今日でGAOが終了

 

無料であんなに見られるなんて有難かった

 今日2023年3月31日をもって無料の動画配信サービスGAOが終了する。正直言って、最近はもう見飽きてしまった作品ばかりなので、見ることはほとんどなかった。それでもやっぱり寂しいのは事実で、あれだけ多くの作品を無料で見られるなんて、なんてお得なのだろうとつくづく思う。もっとも私は大変な勘違いをしていて、毎月508円払って見ていると信じていたのだから、お目出たい。それはさておき、私がGAOを視聴し始めたのは、2016年でちょうどテレビから韓国ドラマの放送が嘘のように消えてしまった頃だった。思えば、今から10年くらい前はちょうど韓流ブームの最中で、テレビの番組欄を見れば、どれを見ようか迷うくらい作品が溢れていた。あの頃は動画サービスなんて必要なかったし、そんな視聴方法があるだなんて夢にも思わなかった。

 それでもローカルのテレビ局では韓国ドラマや中国ドラマを放送していて、私が最初に見て衝撃を受けたのは中国の時代劇の『三国志』だった。たぶんそこから、私の中国ドラマ好きは始まって、ドラマを見るなら現代ものより時代劇に限る、それもできれば恋愛ぬきの方が楽しめるという結論に至った。なので、有料の動画配信サービスを選ぶときは中国の時代劇が見られることを第一に選んできた。HuluやU-NEXT、Netflixも視聴してみたが、一通り見終わると、たちまち見るものが無くなった。となると、見なくても毎月料金が引き落とされるのだから、それなら退会するしかない。スカパーに至ってはドラマを録っておくビデオを買わなきゃとか、いろいろ考えていたら、面倒になって思考停止になった。それに友人によると、スカパーでは韓国ドラマや中国ドラマのチャンネルはいくつもあって、けっこう高くつくらしく、簡単に考えない方がいいと忠告されてしまった。

 さて、GAOの話に戻ると、3月に入ってから韓国ドラマの『紳士とお嬢さん』が配信開始になった。よく見ると、”一挙配信”の文字が付けられていたので、喜んだのもつかの間、視聴者からのレビューで現実に引き戻された。「あと60回もあるのに、いくら月から金と毎日のように配信されても3月31日までには無理でしょう」との指摘に「なあ~んだ、そういうことか」と合点がいった。実はこのドラマ、現在某テレビ局で毎日のように放送されていて、私もたまに見ている。現代ものには興味がない私がなぜ見るのかと言うと、なんだか良さそうだからで、たいしてまともな理由にもなっていない。

 紳士の役をやっているのがあのカッコいいチ・ヒョヌさんで、お嬢さん役の女優さんは清楚でなんだか感じがいい女性だからだ。それに何よりこのドラマがハートフルストーリーの代表みたいに思えてしまったからだが、それは私のとんでもない勘違いだとすぐにわかった。大金持ちの会長宅には、一見ホームドラマのようでありながら、策謀が渦巻いている。元愛人の大奥様は義理の息子である会長を秘書の女性と結婚させようと画策しているし、秘書は秘書で会長といい雰囲気になっている家庭教師の”お嬢さん”を追い出そうと必死になっている。偶然の事故で会長が記憶喪失になったのを利用し、秘書と婚約していたと信じさせてしまうのだから、開いた口が塞がらない。

 私が一番驚いたのは、大奥様の友人が、留守なのを良いことに金の延べ棒(インゴット)や現金などを盗み出してしまうことだ。それも金庫が適当な思いつきの番号で開いてしまうという、ありえない設定なのだから仰天する。韓国ドラマにはよく他人の家に行って、勝手に部屋に忍び込み、目当ての物を盗み出す場面がよく出てくるが、いくら何でもこれはやりすぎだ。普通の人があれやこれやと理由をつけて自分の行為を正当化し、ためらいながらも盗みを実行し、平気でお金を使おうとすることに強い違和感を抱かずにはいられない。

 それから、視聴者からのレビューを読んで、またまた仰天した。それは”お嬢さん”のことを私はとても純粋な人でしっかり者だと感心していたのに、レビューでは「思わせぶりな態度ばかりする、あざとい女」だと非難されていたからだ。まあ、確かに彼女はよく泣くし、でもそれは決して計算づくではないはずなのに。それなのにレビューでは似たような意見が多かったことにショックを受けた。ふ~ん、そんな受け止め方も有るのかと考えた方がよさそうだ。

 考えてみると、今までドラマのレビューからたくさんの情報を貰って、大いに参考になったし、楽しかった。何のかんの言っても今日でお別れなのだから、これくらいにしておくことにする。最後に、GAOさん、今まで楽しませてくれてありがとうと言いたい。

mikonacolon

 

 

 

 

A I 字幕がまどろっこしい

人の手で翻訳された字幕の素晴らしさを思い知る

 最近私はドラマを見ていて、それも中国の動画配信サービスでドラマを見ていて、つくづく思うことがある。それは人の手で翻訳された字幕がいかに素晴らしいかを改めて実感していることだ。今私が視聴している中国の動画配信サービスのアイチーイーは国際版なので、字幕の言語はほとんど英語である。それでも作品によっては韓国語、タイ語等の様々な言語で視聴可能である。たまに『成化十四年』や『マイクロスコープ』のように日本語字幕の作品もあるのだが、喜ぶのは早い。それと言うのも、字幕はどうやらAIが担当しているらしく、登場人物のセリフは時代背景も何もあったもんじゃないからだ。それに気持ちが悪くなるほどひどい日本語だ。「なんだ、これは!?」と最初は仰天したが、近頃では慣れてきて、自分の中でふさわしい、その場面にあったセリフに変換してドラマを見ている。そうやって何とか話の筋は追えているし、楽しめているのは、ドラマの内容が視聴者をドキドキさせてくれて、飽きさせないからだ。これがもしもテーマが恋愛ものだったりしたら、きっと退屈で見ていられないと思う。

 自動翻訳というものがどれほどひどいかはすでに経験済みで、もうこりごりだが、幸か不幸か、日本語字幕はそうはなくて、英語がほとんどである。今見ているのは『広起洛陽』というタイトルの中国の時代劇で、『海上牧雲記』に出ていたホワン・シュワンが主役を務めている。英語字幕なので、最初は辞書を引きながら見ていて、何度も停止を繰り返し、辞書で調べてまた見るのでなかなか進まない。一応、調べた単語はノートにメモしておくのだが、いちいちそれを見直すのは面倒なので、毎回毎回同じような単語を調べることになる。

 だが、そんな時間の無駄ともいえる作業をくり返しているうちに、あることに気が付いた。字幕に出てくる単語は意外にもある程度決まっていて、私には馴染みがなくてもそれが多用されていることだった。同じ単語を何度も見ていれば、例えば知らないうちにテレビのCMが頭に刷り込まれるように、ザル状態の私の頭の中にも記憶を残していたらしい。3月1日からドラマを見始めたが、複雑なやり取りや長い字幕以外はそのままで見られるようになった。あとはどれだけ心許ない記憶を頼りに知らない単語の意味を類推できるかにかかっている。目標というものがあるのなら、今は英語のままドラマを楽しむのがそれに当たる。ただ、どこかのテレビ局で早くドラマの放送が始まって、まともな人間の手による日本語字幕で見たいものだという気持ちは当然ある。要するに答え合わせをしたいのであって、「そうだったんだ!?」と謎解きをしたいだけなのかもしれない。

 でも、ちょっと待って欲しい。考えてみると、アイチーイーに登録した目的は中国語の勉強になるからだった。もちろん中国語字幕でも見れるが、それをしない訳はいつの間にか、目的がすり替わったからだ。つまり、中国に旅行に行くために中国語を勉強しだして、というより再開したわけだが、現実には中国には行けそうもない。それで、ヨーロッパに、それもパリに行くことにしたから、万国共通の英語の出番となったのだ。なんとも予想もつかない展開に我ながら呆れるが、本当いって結構楽しいのだからやめるわけにもいかない。ただ単にドラマの筋を追いたくて、英語の字幕をせっせと訳しながら見ている。あくまでも楽しみのためで、英語の勉強をしている感覚はないので嫌にはならない。それもこれもドラマが面白いからであってこその話だ。

 いま思いついたのだが、『慶余年』のチャン・ルオユンが主役の『マイクロスコープ』を日本語字幕で見て辟易したが、それなら英語字幕で見たらどうだろうか。そうか、その手があったことに今初めて気が付いた。これも英語字幕に慣れてきたおかげなのだろうか。もちろん、動画配信サービスのU-NEXTでは有料で多くの日本語字幕の中国ドラマが楽しめることは確かだが、それにはお金がかかりすぎる。なので、私は自分の身の丈に合った方法でドラマを楽しみたい。

mikonacolon



 

英語の勉強が楽くて、毎日が発見の連続

なぜ今まで本気にならなかったのか、不思議に思う

 私は自分で言うのも何だが、英語の勉強を嫌になることなく、未だに続けられていることに驚いている。以前はあんなに自分のダメさ加減にうんざりして、いつも投げ出していたのに。自分の記憶力のなさや、根気のなさ、隙あらば言い訳をしてサボろうとする怠惰な性格に飽き飽きして、開き直っていた。だが、今回はどうも様子が違う。

 思えば、海外旅行に行くために、錆びついてボロボロになってしまった英語力を何とかしようと思って始めたことだ。お尻に接着剤でもついたかのような重い腰を上げることになったきっかけは、テレビの朝の情報番組でやっていた星占いだった。普通なら何でもないことで、「ふ~ん」と聞き流してすぐに忘れてしまうようなことだ。でもその時の私は「来年のために、今日からできることを探して!」というフレーズが心に響いた。「来年」などというものが果たして私にあるのだろうかと、いつもコロナ禍の最中に居た私は思っていた。だが、その時は世の中がコロナ禍から抜け出そうとしているのを身をもって感じていた。

 やっと真っ暗闇の中に一筋の希望の光が見え始めたのだ。それで、自分にとっての「今日からできること」っていったい何だろう、と考えた。すぐに頭に中に浮かんだのは英語のことで、世界中どこへ行っても通じる言葉だから、まずは基本のきの英語から始めることにした。何をやるかはもう決まっていた。以前から聞き流すだけだったNHK大西泰斗先生のラジオ英会話をテキストなしで復習することだった。なぜテキストなしでやるかと言うと、何もない方が音だけに集中できるから効果的だから。というのは表向きの理由で、怠け者の私はテキストを買っただけですぐに安心し、すべてわかったつもりになって隙あらばさぼろうとするからである。

 中学の時に教科書ガイドというアンチョコがあって、それを見てすべてわかったように錯覚して、実は何もわかっていなかったという苦い経験があった。それにここだけの話だが、テキストが溜まって溜まってどうにもならなくなる状態をなんとか回避したいのが本音だった。大西先生の番組をまっさらの状態で何度も何度も聞いて、紙にディクテーションして書き写す。先生が繰り返す熱っぽい説明もちゃんと書き留め、その日の重要表現を使った英作文を必ず自分でやってみる。単語がわからなかったら、辞書で調べて必ず自分なりの文を作って、その上で「私たちのお勧めは・・・」の正解を聞くことにしている。

 これまで、レッスン101まで聞いてみた感想は、毎回毎回が発見の連続で「ええ~!?そうだったの?」と目から鱗になることが多い。例えば、英作文にしても、私たち日本人に馴染みのない単語や表現をネイティブスピーカーは多用するのだとわかった。どうしてそんな難しい単語や表現を使うのかと訝ってしまうのだが、それが彼らの普通なのだから受け入れるしかない。要するに、私が持っている辞書には載っていない俗語と呼ばれる単語が日常生活で多用されて、彼らにとってはそれが一番しっくりくるらしい。私が一番ネイティブとの感じ方の違いに驚かされたのは、abyssmalで、カタカナ表記ではアビスマルだ。

 先生はこの単語を「私のゴルフの知識は彼より広い」という英作文で使っていた。なぜこの文の知識の「広さ」という意味にabyssmalが適当かと言うと、それはabyssが元々は海底を意味し、またdeepの意味を持つからだった。その知識が「深くて、計り知れない」という底なし沼のようなイメージが浮かび上がるからだ。あとで、ネットで検索してみたが、なかなかabyssmalには出会えなかった。ただ、abyssだけなら何とか見つかって、意外にもこの単語はゲームの世界ではよく出てくる単語だと知って面食らった。さすがにゲームの世界は最新バージョンなのだなあと感心した。ちなみに私が持っている辞書でもabyssは載っていて、意味は「深遠」と書いてあった。

 勉強を開始してからまだ2カ月足らずだが、これからもこのまま続けて行こうと思う。なぜなら、毎回、自分が今まで知らなかったことを知ることができるのが楽しくて仕方ないからだ。心底「勉強が楽しい」と思えたのはこれが初めてで、たかがラジオ番組で、今まではどうでもいいだなんて思っていたが、聞き流していたなんてもったいないと思えてくる。何と言っても無料なのだから、この番組を聞き逃す手はない。

mikonacolon

 



 

図書館は一つあればいい

二つも必要ないとの意見に納得

 またまた、「いる?いらない?」の記事から、気になる意見を紹介したい。吹田市立千里小学校5年生の辻結斗さんは、学校には「図書館はひとつあればいい」と書いている。最初私は何のことやら見当もつかなかったが、どうやら千里小学校には2つも図書館があるらしい。1,2年生が使う低学年図書館と、3~6年生が使う中高学年図書館の二つの図書館がある。その現実にたいして、辻さんは「わざわざお金をかけて、二つの部屋を作るより、大きい一つの図書館を作った方がいいと思う」という意見だ。よく読んで見ると、「僕が低学年の時、読みたかった本が低学年図書館に無くて、先生に取ってきてもらったことがあった」らしく、そんな過去の経験があったからこそ、ひとつの方が何かと都合がいいと言いたいのだ。

 どうやら二つの図書館を学年に関わらず誰でも自由に利用できないのが問題らしい。確かに本というのは、たとえば、絵本にしたって小さな子供から大人まで幅広い年齢層の読者がいるのだから、低学年はこの図書館、中高学年はあっちの図書館と決めつけるのはいかがなものだろう。そう考えると、辻さんの意見はもっともだと納得できる。実を言うと、初めは図書館が二つもあるなんて、羨ましくもあった。だが自由に利用できるわけでもないとわかってがっかりした。

 子供の頃、私が住んでいた村には本屋などなかったので、学校の図書館は唯一日常的に本に触れられる場所だった。友だちと競争して、図書カードを裏表埋め尽くすのが目標だったこともある。思えば、一番近い町の本屋は子供が歩いて行くのには遠すぎた。もちろん、車で行けばすぐの場所なのだが、大人になって歩いてみたら、30分以上かかってしまった。そんな子どもにとって遠すぎる距離も、大好きな雑誌のりぼんを買いに行く時は全く気にならなかった。どうしてあの頃はあんなにドキドキして、まるで宝物か何かを買いに行くかのようなときめきを覚えたのだろうか。遠いところにあって、すぐには手が届かないものだからこそ、あんなに手に入れたときはワクワクしたのだろうか。

 会社の同僚にとっての図書館はまた違う思い出の場所らしい。彼女は東北の出身で、高校の3年間、毎朝パートの仕事に行く母親の軽自動車に乗せてもらって学校に行った。彼女の家から通学するのに車以外の交通手段がなかったからで、すぐ上の兄はバイクで通っていた。「じゃあ、帰りはどうするの?」との私の素朴な疑問に彼女は「お母さんが迎えに来てくれるまで図書館で待ってるの」と答えた。彼女の母親は工場で5時まで仕事をしているので、それから車を飛ばして学校に来るから、どう考えても6時近くになる。となると、高校の授業が終わるのが3時半だからそれまでどうしても学校に居なければならない。普通の高校生のような自由はないのだ。私の場合は自転車で30分のところに高校があったが、彼女の高校は自転車で通えるような距離にはないらしい。私と彼女では比べ物にならないほど置かれた環境が違うのだ。

 彼女は母親が迎えに来るまでの間、強制的に図書館で過ごすしかなかった。宿題をやったり、本を読んだりして、時間を潰した。そんな不自由な生活も慣れればなんてことはないよと笑うが、想像するだけでなんだか息苦しくなる。だが、見方を変えて、楽観的な視点から眺めると、電車で長距離通学をしているとでも思えばいい。母親を待つ間にすべてやらなければならないことを終わらせて、家に帰ったら寛げばいいのだ。家でやるのと違って、人の目がある分集中して取り組むことができるだろう。

 なんとか明るく前向きに考えようとしてみたが、現実となると、やはり私には無理な注文だと改めて思う。だが、実際に彼女はそんな不自由な生活を乗り切って無事高校を卒業したのだから、感心するしかない。

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2円玉、あれば会計に便利?

小学生のユニークな発想に目から鱗

 昨日の続きで、吹田市立千里第二小学校の5人の生徒さんの「いる?いらない?」に関する意見が大変興味深いので、またそれについて書きたい。内堀まおさんはなんと2円玉があれば、今よりもっと便利になるし、できれば、4円玉、6円玉、8円玉も有ればいいと書いている。その理由は、内堀さんの大好きなうまい棒が12円だから都合がいいからだ。でもそれだけではなく、スーパーなどのレジでお年寄りが会計するときに、何枚も何枚も1円玉を出さなくてもいいからとの配慮からでもある。

 内堀さんは自分の思い付きをとてもいいと思っているが、友だちに聞いてみると必要ないと言われてしまった。なぜなら2円で終わるものがあまりないから。別の友だちにも聞いてみたが、「小銭の種類が多くなって、お財布が膨らんでしまうから、大きなお財布を買わなければならなくなる」から要らないと言われてしまった。それでも内堀さんは2円玉は必要だと主張している。

 内堀さんのユニークな発想を知ってから、私は今までたいして気にもしなかった小銭というものを初めて意識した。スーパーのレジで財布の小銭をささっと苦も無く取り出せるのは100円、50円、10円、5円、1円と何種類もあるにもかかわらず、それぞれ色や形状が異なっているおかげである。当たり前のことだが、物凄く分かりやすい。私が思うには、内堀さんには大変申し訳ないが、どう考えても2円玉はなくてもいい。そう思う根拠は今のままで十分何事もなく機能しているからで、もしも、これ以上多くの種類の小銭があったとしたら、取り出すときに混乱してしまいかねないからだ。それに今の世の中、高齢者も立派に電子マネーやクレジットカードを使いこなしていて、レジで何枚もの硬貨を出そうとしてもたつく人は見かけない。

 小銭で思い出したのは、海外旅行でスーパーなどで買い物をすると、天文学的に多くの種類の硬貨が溜まってしまうことだ。たとえば、ユーロの場合、2ユーロ、1ユーロまではすぐ取り出せて、使いやすい。だが、50セント、20セント、10セント、5セント、2セント、1セントと多くの種類があるおかげで、こちらは混乱してしまう。正直言って50セントは硬貨の縁にギザギザがついているので、解りやすいので私でも使える。あとの硬貨は形の大小はあるにはあるが、どれも同じような赤銅色をしているので識別が難しく、パッと見ただけではわからない。

 なので、スーパーや個人の商店では、できるだけ小銭は使わずに大きなお金で払おうとするのだが、ときどき小銭がないか聞かれる時がある。おそらくその方があちらもきりがよくてお釣りが出しやすいのだろう。そんなことを言われてもこちらは財布を覗いたまま、途方に暮れるばかりだ。一体全体、どうやってすべて同じ色をしているセント硬貨の中から探せばいいのか。とっさに「無い」と答えるしかなく、そうなるとたちまち相手は渋い顔して、しょうがないなあと不満な顔をしながらお釣りをくれるのだ。

 それで私は自分なりに考えた、一番いいのは小銭を相手に勝手に取って貰えばいいのだと。つまり、お金を札と小銭に分けて、財布を2つ持つようにした。一つの財布にはユーロ札と2ユーロ、1ユーロまでを入れ、もう一つの財布にはセント硬貨のみを入れた。財布と言っても、セント硬貨を入れた財布は100円ショップで売っている透明なビニールのポーチだ。横が20センチ、縦15センチくらいの大きめのポーチなので、外から見ても一目瞭然で、パッと見てお金の種類がわかりやすい。これなら、お店の人に嫌な顔をされることもないだろうと思って、早速試してみた。小銭は無いの?と聞かれたので、すぐさまポーチを差し出したら、予想通りポーチの中から小銭をとってくれたので、とても楽だった。それ以来、ずうっとこの方法で支払いを済ませている。

 今まで考えもしなかったが、あんなにセント硬貨の種類が多いのに、混乱せずに支払いができるなんて凄いことだ。これもやはり慣れの問題なのだろうか。いずれにせよ私たち外国人、いや私だけかもしれないが、現地の人に大目に見てもらって、助けてもらっているなあと感じる。

mikonacolon

 

 

 

漢字で書く、理由は?

堂々と自己主張する文に、目を疑った

 子供は大人の予想をはるかに超えたことを考えるものなのだなあ、そう感じたのは朝日新聞の「いる?いらない?」という記事を読んだからだ。大人は知る由もないが、子供だってちゃんと感じていることに気づかされた。自分たちが生活する中で、「これはあったほうがいいけど、あれは要らないんじゃないか」と嘘偽りのない意見を寄せてくれている。吹田市立千里第二小学校の5年生の5人の生徒さんの中で、私が一番驚かされたのは、玉川新さんの「かんじでかく りゆうは?」だった。

 なぜかというと、玉川さんが、冒頭から「最近、宿題のプリントで、漢字で書くところをひらがなで書いて、33個ペケを貰いました。なぜ、漢字で書かないといけないといけないのですか」と堂々と書いているからだ。もちろん、玉川さんの文章はすべてひらがなで書かれていて、他の4人は普通に漢字を使って書いているのでなんだか異様に感じてしまう。玉川さんが言いたいのは、「ひらがなだと、もじがおおきくてよみやすく、ユニバーサルデザインにあたいする」と思うし、漢字は画数が多いので、ひらがなの方が効率がいいということだ。また、「ひらがなのほうがよみやすいし、ちっちゃいこでもよめます」とひらがなの効用をずばり指摘している。「おなじおもいのこどももいっぱいいるでしょう」と慮り、「おとなはわかっていないのです」と一刀両断しているところに衝撃を受けてしまった。

 正直言って、玉川さんの主張には一理あるし、別に漢字を覚えるのが面倒だし、覚えられないからという下世話な理由からではない。ただ、どうしても「漢字で書く」納得のいく理由が見つからないだけなのだ。文章の最後で「ほんとうにかんじでかかなければいけないのか、かんがえてほしいです」と私たち大人に厳しい質問をぶつけている。そんな鋭い、究極の質問を問いかけられても、「漢字の方が、パッと見てすぐわかるから便利でしょう」などという気の抜けたビールのような答えしか思いつかない。私たちはなぜ覚えるのかなんて考えることなどなく、ただ言われるままにやってきた。皆がそうしているから、同じことを文句も言わずにやることが当たり前だった。

 玉川さんのように臆することなく主張する小学生もいるのだとわかって、時代の流れをひしひしと感じてしまった。とてつもなく勇気がいることだ。自分で何も考えることなくやらされるのに慣れてしまった私などには、玉川さんの存在は青天の霹靂ともいうべきものだ。玉川さんの文章から察すると、どうやら玉川さんは漢字が書けないのでもなく、また読めないのでもないらしい。それとは関係なく、自分の主義に反することはしたくない、ただそれだけなのだ。玉川さんはどう見てもなかなか賢い子供であることは間違いない。

 考えてみると、韓国のハングル文字は日本のひらがなに相当する文字で、世宗大王が庶民のために考案したとされている。そのハングル文字が今では普通に使われているのに、日本ではなぜ漢字を使うのかは考えたことなどなかったが、言われてみれば不思議だ。今までは当たりまえすぎて、考える余地などなかったことだが、玉川さんの指摘は素直でありながら、いい所を点いている。そんなものだと思って生活してきた私のようなおばさんにとっては、漢字は必要不可欠なもので物凄く便利なものだ。以前、街なかで何かの看板がひらがなで書かれていたことがあって、それが何度読んでも意味が分からなかったことがある。ようやく意味が分かったとき気付いた、漢字の有難みに。

 子供の頃は漢字の書き順を覚えるのが嫌だった。ノートに漢字を何度も何度も書かされる宿題は退屈で死にそうになった。だが、そのおかげで大人になって恩恵を受けているのも事実なのだ。一度目にすれば、一瞬にしてその言葉の意味が理解できてしまうのが「漢字」という書式の持つ効用なのだから。以前韓流ブームの最中にハングル文字でそれをやろうと試みたことがあったが、文字を読むことなしには意味はつかめなかった。

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バスでパリの街を満喫

不安な地下鉄よりもバスが好き

 まだはっきりした旅行計画すら頭の中に描けていないのに、パリのガイドブックを買ってしまった。どうせ必要になるからとの軽い気持ちだったが、なんだかそわそわしてしてきて気になる。何気なくガイドブックを手に取ってペラペラめくると、いつの間にか熱中し、現地に行ったつもりで頭の中で自分の行動をシュミレーションしてしまう。以前とは違って空港からのロワシーバスはモンパルナスまで行かない。オペラガルニエまでしか行かないから、そこからホテルまではバスに乗るか、あるいはタクシーを利用するかのいずれかの選択肢しかない。

 数年前オペラガルニエのほど近くにホテルを予約し、自力で行こうとしたが道がわからず迷子になって、大勢の人で賑わうプランタン通りで泣きそうになった。交差点で信号待ちをしている、楽しそうな日本人観光客のおしゃべりを聞いていたら、ついつい話し掛けそうになってしまった。もうひとりの冷静になった自分が、「この人たちに助けを求めても埒が明かないでしょう」と囁くので、今自分が頼るべき相手は彼らではないと気付いた。そしたら交差点の向こうに”TAXI”の文字が見えた。知らなかった、パリの街では大きな交差点には必ずタクシー乗り場があることを。一番確実にホテルにたどり着く方法は、TAXIに乗るしかしかなかった。運転手さんに嫌な顔をされても、「こんなに近くなのだから、歩いて行けるでしょう」と呆れられても、平気の平左を決め込んで押し通して乗せてもらった。こちらにとっては絶体絶命の危機なのだから、申し訳ないが許してもらうしかない。

 考えてみると、昔は外国でひとりでTAXIに乗るだなんてことは怖くてできなかった。でもある時、確か夜遅くバルセロナの空港から市内に行こうとしたら、TAXIに乗るしか選択肢がなかった。なので、私としては清水の舞台から飛び降りる?つもりで仕方なく利用した。そうしたら、予想外に快適で、特に怖い思いもしなかったので、まあ当たり前のことなのだが、それ以来TAXIに乗るのは平気になった。特に日本のように駅の近くや街中に交番という便利なものがない外国においては、TAXIは唯一の頼れる味方なので、大いに利用したい。だが、私がこれから行こうとしているパリでは街中ではなかなかタクシーは拾えなかった。だから、TAXIを捕まえるのには大通りのタクシー乗り場が一番確実なスポットと言える。

 最近毎日のように以前よく利用していた宿泊予約サイトのbooking.comからメールが届く。「そろそろ予約しませんか。あなたはレベル3の会員なので、20%から30%の割引が効いてお得に泊まれます」との誘い文句に心は揺れる。言われなくてもそのつもりだが、パリでの宿泊先をどの地区にするかはまだ思案中で、具体的なことは頭の中にも浮かんでこない。ただ、はっきりしているのは、ロワシーバスに乗って、終点のオペラガルニエで降りる、それからタクシーでホテルに向かうだろうことだ。

 それともう一つの選択肢はバスを利用することだが、これには少し問題がある。果たしてそんなにうまくバスの停留所を見つけられるだろうかということだ。もちろん、旅行準備の段階でネットでバス路線図を調べて把握しておけばいいのだが、現地では戸惑うことばかりでそううまくはいかない。実を言うと、私はパリの街をバスで巡るのが大好きだ。スペインへ行く列車が発着するモンパルナス駅に行くときもバスを利用し、用もないのにサンジェルマン界隈をバスの中から見学して楽しんでいる。興味津々だが、歩き回るのは迷子になりそうで不安なので、バスの中からパリの街を眺めて大いに楽しんでいる。

 ガイドブックには「初心者にはバスはハードルが高い」と書いてあったが、そんな警告も好奇心の前には何の役にも立たない。そもそもなぜバスを利用するかと言うと、何のことはない、地下鉄が怖くて乗れないからだ。昔初めてパリに行こうとしたとき、危険情報のガイドブックを読みすぎて、どうしてもパリの地下鉄には乗れなくなった。もちろん地下鉄が便利なのはわかってはいるが、あの見るからにどん底に突き落とされるような、細くて暗い階段を降りていく気にはならない。それに別に地下鉄に乗れなくても困ることは何もないからだ。おかげで、少しだけバスに詳しくなって、バスでどこにでも行けるのだとわかったし、バスの窓から街の様子を眺めて、人々の暮らしを観察するのが楽しい。おそらく、ロンドンに行く列車が発着しているパリ北駅にもバスを利用して行くだろう。

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