人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

プールでウォーキング中に頭がガンガン

帽子のせいなのは明か

 昨日プールでいつものようにウォーキングをしていて、25分ほど経ったら、なぜだか頭がガンガンしてきた。その時私が被っていて帽子はメッシュのLLサイズのものだったが、私にはきつめだった。そのきつめの帽子に黒の輪ゴムで結んだ髪の毛を何とか押し込んで、いつもはなんとかなっていた。だが、昨日は一体全体どうしてそうなったのかわからないが、途中で帰ろうかと思うくらいの痛みに襲われた。こんなことはプールに通って1年半たつが今まで終ぞなかったことだ。そうなると、帽子が気になってしようがないが、それでもなんとか目標としている40分間は歩けた。

 痛みに堪えて歩きながら、ケガをしている左足の痛みの影響もあるのかなあと思ったが、どうやらそうではないらしい。まあ、たしかに頭の左側だけがやたら痛いのは痛いのだが、シャワー室で帽子を脱いだら、嘘のように痛みは消えた。とてもじゃないが、足の痛みだけでも十分なのに、さらに頭の痛みも加わったら、これはもう罰ゲームのようなものだ。今まで気になってはいたが、LLサイズでもきついのだからと、これはもう耐えるしかないと諦めてはいた。だが、もう我慢の限界だ。即刻お払い箱にすることにした。

 昨日被っていた帽子は白いメッシュのLLサイズで、既製のLサイズではどうしてもきついからと、オリオンのプールの売店で買ったものだった。そこで、砂漠で泉を見つけたがごとくLLサイズの帽子を見つけたときは飛び上がって喜んだが、被ってみると、たいして変わらなかった。それでもLLサイズなのだから大丈夫と自分に言い聞かせて使ってきたが、昨日の災厄でほとほと愛想が尽きた。実を言うと、私は水着によって帽子を変えていて、昨日の帽子は白いラインが入っている水着に合わせて買ったものだった。その水着にはどう考えても、帽子は白しか似合わなかったからだ。

 毎日プールに行く私は自分なりに3パターンの水着と帽子を用意している。一つ目の帽子は白いメッシュのLLサイズだが、後の二つは水着に使われているような生地でできているタイプのものだ。それらの帽子を買ったのは、プールに通う前の準備段階で買ったシリコンの帽子があまりにも小さくて、きつすぎたからだった。帽子を被った段階から既にきつくて、早々に音を上げた。別の帽子を買わなきゃ。ネットで検索して、人気ランキング1位の帽子を見つけた。その帽子は水着に使われている生地でできていて、被ってもきつくないので、人気があるらしい。試しに買ってみたら、届いた帽子を見て仰天した。なぜかと言うと、大きな声では言えないが、パッケージに入ったそれはまさに下着、いわゆるパンツかと見間違えるような商品だったからだ。帽子の周りにゴムが入れてあるせいで、余計にそう見えたのだろう。

 パッケージから取り出してみると、やはり、これは下着と言っても過言ではなかった。商品を暫し眺めながら、一瞬考え込んでしまった。変な話だが、プールにパンツを被っていくようなものだと本気で思った。実際に押入れに放り込んで封印しようとした。だが、その後よくよく考えてみると、世間ではパンツを帽子代わりにしてファッションとして楽しんでいる人たちも少なからずいるのである。その頃の新聞にもそんな人たちのことが話題になっていた。となると、下着のような帽子を被ってプールで歩いても、何の問題もない。むしろ堂々としていていいのだ。

 それで、試しに被ってみると、その楽なこと、スイムキャップのイメージからは考えられなかったくらいの心地良さに感激した。それからというもの、今までずうっとそのライトピンクとライトブルーの帽子を愛用している。

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スーパーにフリーズドライ製品が復活

海外旅行での自炊の強い味方

 昨日スーパーでとても嬉しいことがあった。それは、インスタントコーヒーを手に取り、税込みで千円を超える値段にため息をつきながら、うろうろしていたら、もう絶滅したかとばかり思っていたある物を見つけたのだ。アマノフーズのフリーズドライ製品が棚に何種類もあったから、こちらは嬉しくて堪らない。普段は味噌汁くらいしかないのに、昨日はカレーやらホワイトシチューやらトマトのリゾットまであった。凄~い、こんなに充実しているなんて、一体全体どうなっているのだろう。少しの間、売り場を離れられなかった。値段を見ると、どれも298円、しかもWAONポイントが20ポイントも付いている。もちろん、欲しい、全部買ってしまいたい。あれこれ手に取ってパッケージの裏の記載されている賞味期限を確認する。一番長いもので2027年の3月だから、欲しいのはやまやまだが、買ったとしても使えない。

 そう、私はこれを海外旅行に行く際に持って行きたいのだ。できればリュックに入るだけ、出来るだけ多くを。だが、現実問題として、今、自分が海外旅行に行く姿を想像することはできない。なぜなら、私の左足は今も痛くて、歩くのに時間がかかるし、歩きづらい。しかも良いはずの右足だって、筋肉痛のごとく少し痛みがある体たらく。普通なら、アマノフーズのフリーズドライ製品を砂漠の泉を見つけたかの如く、大歓迎するのだが、哀しいかな、涙を呑んで買わずにスーパーを後にした。どうか、もうスーパーから突然消えないで欲しいと願いながら。なぜ、こんなことを書くのかと言うと、もちろんネットでもアマノフーズの製品は買えるのだが、いかんせん、ネットは送料もあって馬鹿高いからだ。

 来年あたり、できれば来年の10月あたりに旅行を予定しているのだが、正直言って、よくなる気配が全くない。時々考える。もしもこのまま治らなかったら、この先永遠に海外旅行には行けない。いや、そうではなく、人工関節にする手術を受ければいいだけのことなのだ。外科クリニックの先生曰く、「人工関節の手術を受けた患者さんは皆さん痛みから解放されて喜んでおられます」とのことだが、自分では、「僕ならやらないなあ」と不可解なことを宣う。私が手っ取り早く人工関節にした方が良いのではと尋ねると、「いやいや、あなたの膝は手術するにはもったいない」と諭される。では、私はもうしばらくはこの足の痛みに堪えぬいて生きる運命にあるということか。

 実を言うと、あらかじめ自分で決めたことがある。それはプールでの水中ウォーキングを去年の5月に始めたので、来年の5月までは何としても毎日やり続けようと決めている。プールに通って2年くらいでどうなるかを見てみたい。自ら実験台になって、果して今やっている水中ウォーキングが自分の足に効くかどうかがどうしても知りたくて堪らない。去年の5月に始めたと書いたが、去年のカレンダーを見ると、5月、6月はたった15分しかやっていない。30分以上やるようになったのは、なんと7月からで、となると、7月まで期間を延長する必要がある。それでも、そこのところを堪えに堪えて、自棄にならず、穏やかに、何ごともなく毎日をやり過ごす必要に迫られている。なんでもいい、何かをやって、どうしようもない足のことから気をそらすことが今の私にとっては重要なことなのだ。そうやっているうちに、気づいたらいつの間にか足が嘘のように良くなっている、そんな夢みたいなことを考えている。そんなうまい具合に行かないよと揶揄されるのを承知で、それでもそう願うしか今の私には選択肢は残されてはいない。

 スーパーの棚に並んだアマノフーズのフリーズドライ製品を見ながら「お願いだから、もうしばらくはそこに居てね」と名残惜しくも、そう呟いた。買いたいのに買えない、何だろう、このやるせなさは。それでも、時々はこの棚を見に来るのは間違いない。私の強い味方がそこにあるだろうか確認するために。

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厳冬期の灯油代は月8万円

天文学的な数字に震え上がる

 先日の日経の夕刊のコラム『明日への話題』で作家の桜木紫乃さんが冬期の暖房代について嘆いていた。なんと、月8万円もかかるとのことだが、厳冬期ではそれでも足りないのだという。ひえっ、なんとも恐ろしい事態である。本州に住んでいる私などは北海道民の皆さんのことなど考えたこともなかったが、桜木さんにその高額な費用を提示されるとさすがにたじろがずにはいられない。では、どうやって生き延びるか、いやいや、他人事では済まされない。こちらも、去年とはうって変わって10月の下旬から急に寒くなって来て、慌てまくっているしだいである。だいたいが夜になると、しかも夜中に気温が下がるので、先日などは夜中の3時に寒さで飛び起きて、押し入れから羽毛布団をとりだし、カバーをつける羽目になった。普通なら夜中に起きても、また寝られるのだが、一旦覚醒してしまっているものだから、とうとう朝まで寝られなかった。寝不足だが、いつも通りに5時に起きた。

 家の暖房はホットカーペットとエアコンに頼ってはいるが、そのエアコンにしても、なかなか期待通りには効いてくれないことがある。エアコンのスイッチを入れると、最初はあろうことか冷たい空気が出てくるではないか、あれには往生する。少し我慢して待っていると、やっとこさ暖かい空気が出てきてホッとする。なんとも頼りなくはあるが、今のところはエアコンに頼るしか方法がない。実を言うと、以前は石油ファンヒーターを使っていて、エアコンよりはずうっと暖かかったのだが、いかんせん、あれは買ってから3年もするとすぐに壊れた。中に入っている基盤がすぐにダメになるらしい。それで、石油ファンヒーターに三下り半を突き付けた私は、さっさとエアコンに切り換えたというわけなのである。

 私の部屋は板の間なので、韓国ドラマのように、板の間に直接布団を敷いて寝ている。そうなると、夏はよくても、冬はどうしたって冷たくて寒い。それで出来るだけ部屋の温度を上げようと、ディスカウントショップのオリンピアに行って、断熱シートを買って来た。今、私の部屋は断熱シートを敷き詰めてあり、そこに布団を敷いて寝ている。床の下から忍び寄ってくる冷気は半端ではないので、冬の自衛手段としては当然の対策である。今私は足のケガで療養中なので、聞こえは悪いが、布団を畳まず、敷きっぱなしにしている。いわゆる万年床なのだが、ケガがさっぱり治らないので、まあいいかと半ば諦めている。今こうしてブログを書いているテーブルの下は、断熱シートの上に昔使っていたボアの敷毛布を敷いているので、暖かくて快適である。もっと寒くなったら、その時は一人用のホットカーペットの出番である。そのホットカーペットもそのまま敷いただけではダメなので、上から毛布を掛けて熱が逃げないように工夫しなければならない。このことは実家にいる義姉のミチコさんから教わった。

 またあの極寒の季節がやって来るのかと思うとぞっとする。たしか去年は12月の初旬まで嘘のように暖かかった。だが、その後、お約束のように寒い冬が突然やって来て、慌てまくった。私などはみっともないくらいジタバタし、平静を取り戻すのに時間がかかった。それでも、去年は痛い足のおかげで、いつもの年よりはそれほど寒さに翻弄されずに済んでいた。療養2年目の冬が間もなくやってくる。今年の冬は長そうだ。もっともその分、今年の夏は短くて、本音を言えば楽だった。プールに向かう道の途中にある公園でも、「今年の夏は本当にラクだね」という声が学生の人たちから漏れていたっけ。その時、私はどうしたって、楽の次に来る苦難を想像しないではいられなかった。そのことを思うと不安で身震いせずにはいられなかった。

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8年前に買ったテレビが壊れた?

現在ではテレビの寿命はたった6年

 昨日、久しぶりに実家に住んでいる義姉のミチコさんに電話を掛けた。毎年送っているお茶の話をしようとしたのだが、なんとミチコさんはテレビを新しく買ったというのだ。でも、待って、たしか実家のテレビは兄が亡くなった時に買ったはず。かれこれ8年ぐらいしか経っていない。それなのに、どうしてテレビが壊れたのだろうか、その理由を聞いてみたいが、ミチコさんにもどうしてなのかわからない。とにかく、ある日突然、テレビが映らなくなったらしい。でも、その前に前兆みたいなものはあった。それはリモコンのスイッチを入れても、テレビの画面は真っ暗なままだった。それで、テレビの製造元であるパナソニックに電話をして聞いてみた。そんなときはコンセントを抜いて、また指し込んでみるといいとアドバイスされたそうだ。その時はその方法で問題なくテレビは映った。ところが何日か経つとまた映らなくなった。そう、ミチコさんの家のテレビはどうやら寿命だったらしい。

 最初、ミチコさんは8年前に買ったテレビが壊れたことが信じられなかった。そりゃそうだ、だいたいが電化製品は買ったら10年は持つというのが私たちの常識だった。それなのに、たった8年でテレビが、それも毎日付き合っている友達のようなテレビがいなくなったことにショックは隠せない。ミチコさんは一人暮らしで、犬1匹と猫3匹と一緒に賑やかに暮らしてはいるが、家にいる時は朝から晩までテレビをつけっぱなしにしていた。なぜいつもテレビをつけているのかと尋ねると、家に音がないのがさびしいのだと言っていた。要するに家の中が静かだと落ち着かないのである。本当にそうなのかなあ、私などは全く興味のないことを機関銃のごとく垂れ流すテレビというメディアが煩くてどうしようもないときがあるのに。そう、私はあまりテレビを見ないので、テレビが壊れてもどうってことはないのだが。

 テレビがないと1日も暮せないミチコさんは、血相を変えて、地元のショッピングセンターにテレビを買いに車を走らせた。実家のテレビは42インチで、同じものを買おうとしたら、あろうことか店員に耳を疑うようなことを言われてしまって仰天した。「当店では50インチ以外のテレビは持ち帰りとなっております」。こういわれたミチコさんは頭の中で、そうなると、配線も何もかも自分でやらなくてはならないことになるなあと考えた。どうしよう、そんなことは今までやったことがない。かと言って、50インチなどどいう大きなテレビはいらない。思案したあげくミチコさんは、「そう言うことなら、近所の電気屋さんで聞いてみます」と断って帰ろうとした。すると、その瞬間、店員さんが、急に態度を変えて、「うちでも配送料と設置料をお支払いいただければ、自宅までお届します」などと信じられないようなことを言ってきた。

 しかたない、それならお願いしようかとなったのはいいのだが、配送日を聞いて頭が痛くなった。なんと1カ月先だというのだ。ええ!?そんな、今から1か月もテレビ無しで家で過ごさなければならないと思うとぞっとした。そんなの堪えられない、心底そう思った。何とかならないものかと粘ると、あちらも根負けしたのか、「ちょっと待ってくださいね」と店の奥の方に入って行った。数分後にカウンターに戻ってくると、「では、配送はあさってになります」と言ってくれたので、ミチコさんは今度こそやっと一息付けたのである。やれやれ、テレビ一つ買うのがこんなに大変だとは誰も夢にも追わないだろう。ミチコさんは自分がどんなにか、慌てまくり、ジタバタしたかを私に延々と語ってくれたが、私だってミチコさんに同情したい気持ちでいっぱいになったのである。

 さて、親友とも言えるテレビがない3日間をミチコさんはどう過ごしたのかと言うと、一日目は青天の霹靂とも言える静けさの中でおとなしくしていた。テレビが壊れて初めて、テレビ以外に何も音が出るものがないことに気が付いた。ラジオもないので、いつもはマンガとクロスワードぐらいしか見ないのに、新聞を隅から隅まで読んだ。それでも時間が経たないので、退屈して死にそうだった。なんとか地獄の3日間を耐え抜いて、やっとテレビが来る日が来た。テレビがないと1日も生きられない、そんな自分を再発見した3日間だった。

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ゴミ出しルール知らなかった

段ボールのラベルやテープは取る必要があったなんて

 先日の東京新聞の発言欄に、「ゴミ出しルール徹底しよう」とのタイトルの記事が載っていた。それを見た私は、自分はもうルールを守っているから大丈夫と高を括っていた。だが、その記事をよくよく読んでみると、テレビのニュースで知ったごみ収集員の方の痛ましい死亡事故のことが書かれていた。段ボールを回収する際に、ゴミ収集車の投入口に挟まれてなくなったのだが、私にはどうしてそんなことがと言う疑問しか浮かばなかった。その理由について知った時はまさに青天の霹靂だった。要するに、ダンボールを出す際は、折り畳んでそのまま出せばいいというわけではないのだ。段ボールに貼ってある宛名ラベルやテープを剥がして出すのがルールなのだという。なぜかというと、「宛名ラベルやテープに粘着性のある物質が付いているとリサイクル際に溶けない物質として残り、溶けた紙類と絡み合い大きな塊となって工場の機会を止めてしまうリスクもある」とのこと。

 知らなかった。そんなことになっていたとは、夢にも思わなかった。今まで私は段ボールをゴミに出す際に、自分の住所が書かれているラベルは剥がすが、テープまでには気が回らなかった。だが、今回、作業員の方は「段ボール以外の異物を発見し、とり覗こうとして挟まれた」と言う。何の気なしに自分の出したごみが収集員の方の命を奪うだなんて、想像しただけで胸が苦しくなる。ゴミ出しなんてどうってことない簡単なことだと常日ごろ思っていたが、自分の行動が相手の方の命を危険に晒すことを考えたら、恐ろしさに震えてしまう。テレビのニュースだけでは、詳しいことはわからない。その意味で、この記事、東京都江戸川区の佐藤直子さんの投稿は大いに参考になった。改めて、新聞をとっていて本当によかったと感じている。時の流れに翻弄される毎日の中で、一歩立ち止って考えることを教えてくれるから。

 それに、私はいつも、ゴミを減らしたいと考えているのだが、全くと言っていいほど減らない。何が問題なのかと言うと、台所の生ごみを本当のところは減らしたいのに、どうしてもできないからだ。例えば、私は作り置きの総菜として、大根と牛肉の煮物を作るのだが、この時に大量のだし昆布のゴミが出る。本当なら、アフロヘア―で有名な作家の稲垣えみ子さんのように、全てお腹の中に収めてしまえばいいのだが、私にはそれができない。だしを取り終わった際の昆布を細かく切り刻み、それを総菜として再利用すればいいのに、その行為自体が私には罰ゲームのように思えてくる。なので、結果的にはゴミ袋に入れることになる。ああ、ああ~、私ってだめだなあと、いつも思う。

 もちろん、大根に至っては、皮など剥いたらゴミが出てしまうので極力避けて、根っこまでもすべて食べ切る。なので、大根と牛肉の煮物を作る際は昆布以外はゴミはほとんど出ない。だが、いつも作る野菜サラダとなると、そうはいかない。いくら何でもレタスを丸ごと食べることはできない。レタスの外側についている硬い葉っぱ、あれがどうしてもごみになる。正直言って、そんなにゴミを減らしたいのなら、レタスの葉っぱも気にしないで食べるべきなのだが、それがどうしてもできない。なので、レタスの葉っぱのゴミが大量に出る。それから、キャベツも同様で、一番外側のあの硬くて食べるにはどうしても躊躇してしまう部分については頭が痛い。それとキャベツの芯も即ゴミになる候補だが、料理の達人となると、あの部分でさえもスープに使って再利用してしまえるのだから、尊敬に値する。以前、私も見習ってキャベツの本来なら捨てる部分を使ってスープを作ってみたこともあるのだが、正直あまり美味しくなかった。その時以来、作る気にはなれずにいる。要するに、ゴミを減らすには美味しさを追求するべきではないとの貴重な教訓を得たのである。

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なぜみんなプールに来ないのか

追求したくても、できない

 私は今、いつもの市民スポーツセンターのプールではなく、そこから歩いて10分のオリオンのプールに通っている。なぜかと言うと、毎年恒例のプールの水抜き清掃が始まったからだ。10月25日から1週間ほどはオリオンのプールに通わざるを得なくなった。そう言えば、去年私はその事で大騒ぎをし、周りにずいぶん迷惑?をかけたみたいだ。それも全て私の身の不徳が致すところで、何のことはない、おとなしくしていればよかったのだと今となっては思う。そりゃ、オリオンのプールは市民スポーツセンターよりは水深が深くて、歩くのに苦労する。それでも慣れてしまえば、あんなに文句を言うほどのものでもない。当時の私はいつもの水深で歩けるプールをネットで検索し、なんとか探しだそうと躍起になっていた。あの頃の私は水中ウォーキングに嵌っていて、1週間ものお休みは寂しくて堪えられなかった。

 だが、私の懸命の努力にも関わらず、結局、いつものと同じ水深でウォーキングができるプールは見つからなかった。たとえ見つかったとしても、果して足の悪い私がわざわざ電車に乗ってまでして、その場所まで通えただろうか。絶対しり込みするに決まっている。もちろん、私は1週間の間、悶々として過ごした。プールに通えないことがこんなにつらいとは夢にも思わなかった。

 そして今、私は当然のごとくオリオンのプールに通っている。先日の月曜日に久しぶりにプール友だちのユキコさんと会って、話をしたら、「みんな、全然プールに来ないのよ。先週も私一人の時が2日くらいあったのよ」と歎いていた。これには驚いた、かくいう私もプールに行く時間を朝の9時から11時に変更した一人で、ユキコさんが言う「プールに来ない人たち」なのだが。それでも、私だってユキコさんの言うことには一理あると思うのだ。なぜなら、今まで週に1度か2度は必ず来ていた人がある日ばったり来なくなったら、誰だってどうしたのだろうと思わずにはいられない。もちろん、その人たちなりに理由はあるのだろうが、こちらはその辺のところを聞きたいのだが、それは余計なお世話なので残念ながら聞くことはできない。それでも、ユキコさんならその人たちに再びあったときには、「どうしてたの?」と尋ねる勇気は持ち合わせているだろう。

 私にも、どうして来ないの?と尋ねたくなるいつも二人セットで来る人たちがいるのだが、どうしたってそんな余計なことは聞けやしない。知り合って早々に、「私は忙しいの。毎日来るほど暇じゃないわよ」と言われてしまったからだ。だから、別に来ない理由を追求するつもりはない。ただ、「私たちは1日おきにプールに来ているの」との発言からしたら、いくら何でも1週間も来ないのはおかしいのではないか。そんな自然と湧き上がってくる疑問を口元で押し殺し、毎回会ったときには当たり障りのない話題でその場をやり過ごすのが落ちである。まあ、そんなことどうでもいいのだが、いや、知りたくて堪らないのだが、ひとつはっきりしていることがある。それは彼らにとって、プールは優先順位が低いということだ。別に行っても行かなくてもいいレベルのことで、何か用事があればそちらを優先するのだ。そして、その用事をプールに行かない理由に正当化できるのである。

 その点において、私は彼らと一線を画している。つまり、プールに行くことをルーティンの中に組み込んでしまっているから、用事があるからと言って、プールを犠牲にすることはない。なので、久しぶりに会ったユキコさんの言葉には大いに頷けるのである。まあ、他人がプールにある日ばったり来なくなるのはカラスの勝手で、個人の自由で、私たちにはその事をどうこう言う権利はない。ただ、来なくなるにはそれなりの理由があるからで、そこのところを知りたいと思うのも人間なのである。

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ブラジルでは病院の診察台でも靴を脱がない

なぜそこまで固執するのか、わからない

 最近、新聞の書評欄を読んでいて気が付いたのは、ある本がどの新聞でも取り上がられていることだ。その本は井上章一著の『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか』と言うタイトルの本で、各新聞に載っている書評を呼んだだけで本の内容はだいたい想像がつく。それらの書評の中には、面白いエピソードを種明かししてくれる記事もあった。それは、著者のブラジルの病院での体験で、なんと診察台に靴を脱いで上がろうとしたら、「どうして靴を脱ぐのですか?」と怒られたという。著者はいくら何でも土足で診察台の上がるだなんてことは夢にも思わなかったのだ。そりゃ、そうでしょう、いくらなんでも日本では土足で上がるなんてことはあり得ないのだから。それで、どうしたかと言うと、おとなしく靴を履き直して診察台に上がったのだが、それでも診察台に敷いてある白いシーツが汚れるといけないと思って、靴を履いた足を浮かせるという配慮をしたのだ。いやはや、著者のこうした行動には、なるほどねえと膝を打ちたくなる。

 そんな話を書評で読んだ私は、もちろん文化の壁に震え上がると同時に、何だか笑えて来た。現実ではあり得ない話で、漫画のような話だが、それでも紛れもない事実に仰天せざるを得なかった。私たち日本人にとって、家で靴を脱ぐのは当たり前のことで、もはや自然と身体が動いてしまうことだ。その一方で、外国人はなぜ家で土足なのかについては考えようともしなかった。

 それでも、私はずうっと以前から外国人の土足についてある疑問があった。それは彼らが飛行機の中でも靴を脱ごうとしないことだったり、おそらくホテルの部屋の中でも靴を履いたままだということだ。彼らは長時間に及ぶフライトでも、絶対に靴を脱がないのである。もちろんこのことは私が目撃した範疇の事から判断しているのだが、彼らは靴を脱いで足を休めるというという考えはないようなのだ。いくら何でも9時間以上のフライトで靴を履きっぱなしと言うのは足が疲れるではないか。私などは飛行機に乗り込むとすぐに靴を脱いで、持ってきたスリッパに履き替える。こうすると、足の疲れが取れて快適だからだ。フライト中は靴は脱いだままで、飛行機を降りる時まで、足は靴から解放される。

 ホテルの部屋の中でも、足を休めるという意味でも、スリッパで過ごす。それにだいたいが、シャワーを浴びて濡れたままの足でそのまま靴を履くなんて気持ち悪すぎる。いや、もちろん、シャワーを浴びたら、足ふきでちゃんと足を拭くからびしょびしょということはありえないのだが、それでも、せっかく綺麗になった足をわざわざ汗にまみれた靴の中に入れるのには抵抗がある。このことはご清潔主義でも何でもない、とにかく気持ち悪すぎるのである。となると、外国人と言うのは、そういうことを全く気にしない人種なのだろうか。その事について、とやかく言うつもりはないが、そう言えば昔こんなことがあった。

 それはスロバキアにある山の麓にあるホテルに泊まった時のことで、たしか、バスルームは共同で使うようになっていた。ホテルの部屋の真ん中にバスルームはあって、使う時はカギをかけるようになっていた。いつだったか、私が使おうと思ってドアを開けると、あらら、向こう側の部屋の人が使っているようで、どうやらカギをかけ忘れたようだった。ふと、バスルームの入口を見ると、男女の靴がペアできちんと置かれていた。そうなのだ、やっぱり彼らはシャワーを浴びた後も、靴を履く人たちだったのだ。当時はその光景を見てもなんとも思わなかったのだが、今となってはなんだかとても興味深い。

 それで、好奇心がエスカレートした私は、ついつい彼らはベッドで寝る時も靴を脱がないのだろうかなどと思ってしまった。まさか、それはないでしょう。でも、ブラジルの病院でのことを想像すると、あり得ない話でもない。

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