人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

安楽死を扱った番組を見て

自らの意志で死を選ぶということ

 土曜日の夕方テレビ番組で、安楽死について特集しているのを偶然見てしまった。ちょうど夕飯の支度をしていたのだが、思わず手を留めて、テレビの画面に釘付けになった。取材の現場はスイスのレマン湖畔にある安楽死専門の施設で、レマン湖と言えば、ローマの休日で一躍有名になったオードリーヘップバーンが住んでいた場所でもある。以前、テレビ番組で、オランダの施設を取材していたのを見たことがあるが、そこでは、まるで死の番人でもあるかのように、職員から盃くらいの容器に入った透明な液体を差し出される。「これを飲めばあなたは数秒もかからず死にます」と言われ、安楽死を望む当人はそれを受け取り、躊躇なく飲んでいた。テレビカメラは厳粛な死の一部始終を映し出し、見ている視聴者はその場面から動けない。声も出せず、ただ画面を見つめたまま呆然とするだけだった。

 一方、今回のスイスの安楽死の施設では、点滴に薬剤を入れるという手法だった。安楽死の当日に職員が、点滴のバルブを指さし、「これを外したら、あなたに何が起きるかわかりますか」と当人に確認する。すると、その人は小さく頷き、バルブに手を伸ばした。本人の希望通り、安楽死に成功したわけだが、その施設の担当医師はできれば安楽死などしないで、与えられた生を全うできればいいに決まっていると断言する。医師は安楽死を希望して施設を訪れる人たちと面談し、何か後悔するようなことはないかと尋ねる。死を選んで後悔するようではいけない。安楽死は本当の意味で苦痛から解き放たれなければならないのだから。

 この番組で印象的だったのは、父親を伴って、施設にやって来た日本人女性が、最後の最後に迷いが生じて、安楽死をやめると決断したことだった。自分が安楽死を望んだのは、自分の苦痛よりも、周りに、父親に迷惑をかけてまで生きるのが嫌だったからだ。だから、安楽死を選んだのに、その一方では自分が死んだ後にひとり残される父親のことが心配でならない。父親のことがどうしても引っかかって、安楽死するという決断に迷いがあった。なので、彼女はどんなにつらくても生きるという選択をした。

 安楽死を希望して施設にやってきて、望み通り安楽死する人は、私には全く死を恐れていないようにも見える。パーキンソン病を患うある日本人女性は、若い頃から活発で颯爽と生きてきた人だった。40歳を過ぎて、突然病に倒れたが、もうやりたいことはすべてやり切った。もう十分生きた、幸せな人生だったと言う。その人の右手はテレビの取材中もひっきりなしに震えている。今こうして生きていること自体が辛くて堪えられないと言う姿にこちらも自然と涙目になる。彼女がこのスイスの施設を選んだのは、レマン湖を観光で何回も訪れていて、お気に入りの場所だったからだ。

 彼女は自分はとても用意周到なのだと語っている。安楽死した後で、遺骨をレマン湖に散骨してもらう手はずも整えていた。実は、彼女はフランス人の恋人がいて、婚約するはずだったのに、病気でそれがダメになった。それなら自分が安楽死するのを看取ってほしいと頼んだら引き受けてくれたのに、それなのに、彼は当日は来られないと電話してきた。「人の心は変わるものだから、どうしようもありません」と寂しそうに、インタビューに答えていた。彼女は両親や友人に手紙を残して旅立った。

 法律で安楽死を認める国はまだ世界にはそれほど多くない。日本でも認めれたらどうなるかについては、番組では一つの懸念を取り上げていた。それは日本人は他の外国人とは一線を画して、人に迷惑をかけることを負担に思う人が多いという国民性があると言うことだ。自分の苦しみよりも人に迷惑をかけるのが死ぬほど辛いと考えるとしたら、安楽死を望む人が増えるのではないだろうか、と憂慮していた。人に迷惑をかけてまで生きていいものだろうか、いや、生きる価値はあるのだろうか、という発想が浮かんだとしても無理はない。まだまだ書き足りないが、続けると、とんでもないポカをやってしまいかねないので、この辺りでやめておきたい。

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サニーレタスからバッタ?

これは凄い幸運、というしかない

 いつものように新聞の投稿欄を見ていたら、「サニーレタスから出てきた珍客」というタイトルに目が釘付けになった。はて、珍客って何?と訝しく思い、その正体を知りたくて、早速読み始めた。投稿の主の柏佑子さんはサニーレタスを近くの農家の直売所で買って、冷蔵庫に入れて置いた。翌朝、それを取りだし、お皿に取り分けようとしたとき、”異変”に気が付いた。何だかサニーレタスがこんもりとしているのに、あれ?何だろうと思ったら、バッタが飛び出してきたので仰天した。それは緑色の5㎝程のバッタで、見るからに可愛かった。まさか、冷蔵庫のような寒い場所に一晩泊まったにも関わらず、ちゃんと生きていたことに驚いた。ひ弱に見えるのに、意外に丈夫で寒さにも強いのね、とでも思われたのだろう。

 考えてみると、柏さんがバッタに出会ったのは人間が寒さに震えていた2月のことだ。なのに、どうしてバッタがいたのだろう。あ、そうか、近頃はたいていはハウス栽培だから、人間が人工的に作り出した春に生まれたのか、などと当方は考える。それにしても、バッタの生命力には舌を巻く。もし、人間が閉じ込められたなら、きっと凍死していただろうが、バッタは生きていて、静かにじっとしていた。柏さんはかろうじて生き延びたバッタを、サニーレタスから外にある鉢植えに移してあげた。2日後見ると、バッタは玄関のドアに張り付いて、じっとしたままだ。さてどうしたものだろうかと思案した結果、アロエが置いてある暖かいビニールハウスに移すことにしたそうだ。柏さんはまるで自分の子供を心配するような眼差しでバッタに向き合っていた。突然訪れた珍客に戸惑いながらも、バッタのこれからを思うと気が気ではないらしい。

 「サニーレタスからバッタ」は新聞に取り上げられるべき珍事と言っても過言ではない。そんなバカな、と言ったらそれまでで、それがどうしたの?と言われれば、返す言葉がないが、とにかくささやかな、面白い出来事には変わりはない。それに、サニーレタスの中からバッタに出会える人なんて、そんじょそこらにいるはずもない。その意味で柏さんは奇特な人で、このような珍事に出会えた幸運な人と言ってもいいだろう。実を言うと、私はバッタがまさか生きていたとは夢にも思わなかったので余計にそう思える。

 子どもの頃、家の畑で母が家で食べるために少しばかりの野菜を作っていた。お隣の畑と違って、農薬を一切使わないものだから、畑は虫の天国で、キャベツにもホウレンソウにもとんでもなく虫がいた。それに土の中にはミミズがうようよいて、閉口した。キャベツなどは外側の葉はほぼビリビリで、穴が開いていた。青虫のやりたい放題で、正直虫は嫌いで、気持ち悪かった。もちろん青虫はあの綺麗なモンシロチョウになるのは知っていたが、それとこれとは別だった。虫と関わるのはごめんだった。そんな私が都会に出て、ある日スーパーでキャベツを買った。家に帰ってそのキャベツを茹でて、冷まして切ろうとしたら、中から青虫が出て来た。もちろん、すでに昇天している青虫だが、まさかあんなところで青虫に出会うなんて夢にも思わなかった。

 おそらく農薬を使って栽培しているは間違いないのに、なぜ青虫がいるのかと疑問が沸き上がった。少し考えてみると、キャベツに青虫がいるということは、よく言われる「安全安心な」農産物だと言ってもおかしくないのではなかろうか。何しろ、青虫が住めるほどの環境で育ったキャベツだと思うと、とたんに有難みが増してくる。そう言えば、子供の頃、家の畑で採れたキャベツを市場に母と一緒にリヤカーで持って行ったことがあった。リヤカーに積めるだけ積んで持って行ったキャベツは、何と一山たったの百円で、母と私はその場に座り込んだ。周りの葉っぱは虫食いだらけでも、肝心のキャベツは綺麗そのもので、ケチをつけられる筋合いはない代物だった。母がいくらかでも家計の足しになればとの思いから、初めて市場に持って行ったが、どうやらそれは甘い考えだった。母と私は厳しい現実を突き付けられたのだ。

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想像を絶する『楽園』の世界

商売のための旅は命がけ

 以前2021年のノーベル文学賞を受賞したアブドゥルラザク・グルナの著作『楽園』をどうしたものか、困っていると書いた。主人公の少年ユスフが父親の借金の方に商売人のサイイドに売られるところから始まる物語だ。何を困っていたのかと言うと、この小説は大長編で、あの時はちょうど3分の1ほどを読んだところだったが、正直言って飽き飽きしていた。浅薄な私には、この小説がどうしてノーベル賞に値するのか理解できなかった。要するに、この小説をバッサリと読むのをやめるか、それとも、この際だから我慢して一通り読んでその真偽を確かめてみるかのどちらかだった。

 はっきり言って、どうせ図書館から借りた本なのだから、今読まなくてもまた借りればいい。それになぜだか、この本は人気がないから、いつでも貸し出しOKだ。大長編だなので、内容をよく知らなかったら、本の分厚さを見ただけで、震え上がるのは必至だ。だが、ひとたび、なんだか良さそうという理由だけで、借りてしまったらもういけない。引くに引けなくなった。返しに行くには、どうも後ろめたい。せっかくこの本を読む機会が与えられたのに、それをみすみす逃すなんて、もったいないと思ってしまった。この本との出会いも、これもひとつの縁だと思い、未知の何かを求めて読み進めた。日本から遥か遠くにあるタンザニアがどんなところで、いったいユスフはどんな経験をするのだろうか。いったん好奇心が沸き上がったら、急には止められない。ページを捲って、その時が来るのを楽しみに待っていた。

 以前のブログで、ユスフは小学校の低学年くらいの年齢と書いたが、それは間違っていて実際には12歳だった。そのユスフがおじさんと呼んで慕っていたサイイドは借金のかたに何人もの子供を連れ去り、少女を育てて、妻にしていた。優しくて、いつも冷静で自分に良くしてくれるおじさんは筋金入りの冷徹な商人だった。とは言っても、ユスフはおじさんの息子でも、使用人でもなく、奴隷であることには変わりはない。

 ユスフの日常は言いつけられた仕事をするだけで、たいして変わり映えしなかった。だが、隊商に加わり、取引のために奥地に足を踏み入れた時、想像を絶する体験をする。行商をするということがどんなに厳しいものか、命の危険に晒されるものかをまざまざと見せつけられた。まずはタンザニアの奥地には野生動物が生息し、夜中に襲われて、何人かが命を落とすこともあった。恐ろしいのは人ではなく、自然界に生きる獣だった。獣だけでなく、一番厄介なのは蚊で、新聞で見た統計によると、世界で一番人を殺しているのは戦争でも、病気でもなく、蚊なのだという事実に驚かされる。

 この小説に出てくる「死の森」と恐れられる山道で、行商人は蚊の大群に襲われる。仲間の何人かが、顔中を蚊に刺されて血だらけになり、挙句の果てに出血多量で命を落とすことも珍しくない。さらに、人を襲った蚊は血を吸うだけでなく、傷口に卵を産み付けて繁殖行為を行うというから、そら恐ろしい。こんな描写を読んだだけで、震え上がり、どうしてこんな危険を冒してまで、商売をしに行くのかという素朴な疑問に行きつく。それはとりもなおさず、商売だからで、生きるためだ。奥地に入り、希少価値のある象牙や鉱石を買い付けて、何倍もの値段で売って儲けるために他ならない。人間の欲は危険を冒すことを躊躇させないようだ。

 また、別の危険に晒されることもある。山奥の部族の村で商売をしようと立ち寄ると、折も折、部族の女性が川でワニに殺される事件が起きたばかりだった。すると、部族民はどこの馬の骨ともわからないよそ者が来たせいだと行商人に罪を擦り付ける。たちまち、悪魔だの、災いを運ぶ輩だのと、追い立てられる。誤解を解こうとしてもなす術がない。それどころか、夜中にハイエナに襲われて、何人かが命を落とす。部族民が報復として、ハイエナを商隊のキャンプに放ったのだ。

 

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つくし見つけた!

今週のお題「小さい春みつけた」

探していたら、見つかるものです

 昨日、買い物の帰りにつくしを見つけました。生えている場所は市営住宅の敷地の中ですが、立ち止まれば、誰でも見られます。ちょうど舗道に面している場所なので、写真を撮っていたとしても、怪しまれることはないでしょう。折も折、昨日はカメラも携帯も持っていませんでした。突然出会えた喜びに、ただ、ただ、感動していたんです。こんな予期せぬ場所につくしが生えていることが信じられず、自分の目を疑いました。実を言うと、その時の私は、つくしのことを考えながら、目を凝らして周りを見ながら歩いていました。もちろん、つくしに出会えるなんて、露ほども思っていません。すると、何やら、細長いものが何本も地面からピンとせり出しているではありませんか。あれは、何?と訝しく思い、まさかと思いましたが、そのまま通り過ぎることなどできません。私の好奇心は最高潮に達していました。

 そうなると、まじかに見て確かめるしかありません。そこは市営住宅の集会室の裏にある、あまり日当たりの良くない場所でした。そう、少し陰になっているので、近づかないとよく見えないのです。それに、私は日常生活にはたいして困らないのですが、遠くがあまりよく見えないのです。周りにあるツツジの樹々の隙間を抜けて、敷地に入り込み、つくしと対面しました。舗道から見ると、よくわからなかったのですが、想像以上に、つくしはあるわあるわで、どうしたの?と困惑するほどでした。

 冒頭に乗せた写真は今朝撮ってきたばかりのものです。写真からわかるように、すでにつくしの頭は茶色、いいえ、白っぽくなっています。もうつくしは老体になってしまいましたが、それでもつくしはつくしです。つくしの成長は驚くほど速いようです。できれば、もっと早く出会いたかった。そんな自分勝手なことを言っているのですが、要するに、「もっと早く気づけよ」ということなのです。毎日のように通っているのに、気づけませんでした。それというのも、そこは去年は草ぼうぼうで、やたらとスギナが群生していたことぐらいしか記憶にないのです。なので、私は自然というものを甘く見過ぎていたようです。

 今回、つくしを発見できたのも、去年の秋ごろに草が刈られて、市営住宅の敷地がやたらと綺麗になったせいです。まるで別世界のような、草むらのない殺風景な景色には最初は戸惑いましたが、そのうち慣れました。できれば、来年は生え始めの頭がグリーンのつくしを見たいものです。ただ、油断していると、その時期はあっという間に過ぎて、またまた頭が茶色のつくしにしか出会えないのです。本当に、「逃すな、チャンスを」なのです。

 つくしに夢中だなんてことは決してないのです。つくしを取って食べたいとも思っていません。それに、頭が白っぽくなったつくしは摘んで食べる気にもなりません。ただ、眺めるだけで、つくしが群生しているさまを見ているだけで、満足なのです。つくしの旬を逃したのには訳があります。それは私の視線は他の別の場所に向けられていたからです。それはまたまた市営住宅の敷地で、坂道に面した土手のような場所でした。去年そこで偶然つくしを発見して以来、私の頭の中にはその場所がインプットされていました。なので、今年もと楽しみにしていたんです。でも草刈りのせいで、どうやら無理なようです。つくしの姿はありませんでした。それどころか雑草さえ生えていません。

 私は大いに落胆し、それと同時にどこかにつくしは生えていないだろうかと目を皿のようにして探し始めたんです。たいして期待などせず、歩きながら、あちらこちらに目をやっていました。そうしたら、青天の霹靂のようなもので、つくしに出会えたんです。それにしても、去年は確かに何もなかった場所にどうしてつくしが生えているのか、不思議でなりません。考えてみると、雑草だってそうで、去年生えていたところに同じようにまた生えるかと言うとそうでもないのです。つくしは神出鬼没の植物なんでしょうか。

 

 

 

 

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LED照明器具が壊れた?

突然の出来事に呆然、だが幸いにも点灯して安堵

 昨日の朝、いつものようにICレコーダーの目覚ましで布団から起き上がって、照明器具の紐を引っ張った。カチッと音は鳴るが、肝心の電気が点かない。あれ?おかしいなあ、と思って 何度もやってみるが、電気は点かないままだ。しびれを切らして、立ち上がり、またカチッ、カチッとひもを引っ張ってみて初めて、LEDの蛍光灯が切れたのではないかという考えに行きついた。でも、ちょっと待って欲しい、LEDというのは半永久的なもので、それが切れるなんてことはあり得ないことだった。部屋の照明器具は買った時たしかペンダント型と箱に書かれていて、かれこれ10年以上も使っている。まさかそれを取り替える時期がまさに今だなんてことがあるだろうか。

 あれこれ考えてみるが、どうにも納得がいかない。こんな時はいつだって頼りになるのはネットの検索機能で、早速「LED 寿命」と入力して、結果を待った。すると、LEDにもちゃんと寿命があることが分かり、その予兆としては、普段の明るさより少し暗いと感じることがあるそうだ。考えてみると、私の場合は、何も目立った変化は感じなかった。まさにそれは突然で、降って湧いたようなアクシデントに他ならなかった。ネットの画面を見ると、LED電球の画像が幾つもでているが、肝心のLED蛍光灯は見つけられそうもない。でも多くの画像の中で一つだけ蛍光灯が出ていて、価格は1580円とあった。それで、照明器具ごと取り換えるという頭しかなかった私は、蛍光灯を取り替えるという選択肢もあるのかと気付いた。

 だが、LED照明器具の蛍光灯はいくつものネジで取り付けられているので、取り換えるのは容易ではないことは見た目で十分わかる。朝の忙しい時間なので、そんなにLEDに構ってはいられない。やるべきことを済ませて後、電気のスイッチを一応切っておかなきゃと思った。私の部屋の壁には電気のスイッチが付いているが、普段はそれを使っていなくて、いつもオンにしていて、照明器具についている金具の紐にリボンをつけて使っていた。要するに、スイッチはいつも付けっ放しの状態で、そんなことをたいして意識もせずに使っていたのだが、その時初めて、スイッチをオフにした。すると、信じられないことに、電気が一瞬点灯してすぐに消えた。あれ?と思った私は、先ほど見た現象を確かめようと、スイッチをオンにしてみた。すると、何たることか、ちゃんと電気は点くのだ。

 だが、果たして、この電気が点くという状態がいつまで続くのか甚だ不安になった。このままではとてもおちおち寝てはいられない。今でしょう!とばかりにLEDが切れるのを今か今かと楽しみに待つ気にはなれない。その日はいつか訪れるのは間違いないが、またもや朝方だったり、夜中だったとしたら、真っ暗闇でオロオロしてしまうのは間違いない。

 となると、いつでもLEDが切れてもいいように、保険を掛けなければならない。つまり、その時のために万全に準備をする必要があった。近所のディスカウントショップのオリンピアにLDEの蛍光灯を買いに走った。店内をくまなく見て回ったが、探しているLEDは見当たらない。どう見ても普通の丸い蛍光灯しかないようだ。少し躊躇したが、店内で忙しそうに梱包作業をしている店員に聞いてみた。すると、驚くべき答えが返って来た。「うちはLEDの蛍光灯は置いていないんですよ。その理由はLEDは一個、4,5千円もして、高すぎるからです。だから、器具を丸ごと変える方がお得なんですよ」

 その取り換える器具にしても、私が今使っている天井から吊り下げるペンダント型ではなくて、天井にピタリと張り付いたようなシーリング型を勧められた。勧めると言っても、どうやらもうそれしか選択肢がないようで、店の天井からは2つのペンダント型のLED照明器具が吊り下げられてはいるが、そこには両方とも「在庫切れ」のタグが付いていた。現実にはもう手に入らないと諦めた方がいいのだ。昔買ったものを何年も使っている間に世の中はどんどん進んでいた。ましてや照明器具などは壊れなければ買う機会もそうあるわけではない。シーリング型しかないとなれば、その瞬間に買うかどうか決めるのは難しかった。現状維持しかない。というわけで、点灯の際には部屋のスイッチだけを使うことにして、そのまま使い続けることに決めた。

 

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もう、つくし取ってきた?

とんでもなく早い春の訪れに困惑

 義姉のミチコさんに、「こっちは今雪が降ってるよ」とメールしたら、「大変だね。昨日つくしを取ってきたから、ちょうど煮てたところ」と返ってきた。ええ!?ちょっと待って、まだ桜も咲かないのに、つくしだなんて、嘘でしょうとこちらは困惑するしかない。そう言えば、去年はなんだかんだと忙しくして、つくしにまで気が回らなくて、気づいた時にはもうつくしの頭は真っ茶色だったと、ミチコさんは嘆いていたっけ。なので、私は3月に入ったら、「つくしに注意」とアドバイスをするつもりだった。そうか、私の心配など余計だったようで、ちゃんと頭の中に「つくし注意報」は出ていたのだ。ミチコさんはつくしの出始めのあの緑色で、食べると少し苦みのある味が大好きだと言っていた。生まれたばかりのような緑色のつややかなつくしの頭は見るからに美しい。青臭い匂いもするが、それは新鮮さの証明でもある。

 真っ先に、いいなあと思った。自分でつくしが取れて、それを料理できることが羨ましかった。とは言っても、別につくしが大好物でも何でもないが、私の近所と言うか、周りには、つくしが目を出す場所が見当たらないからだ。いや、去年の今頃何十年ぶりかで、つくしが生えている場所を偶然見つけた。それは散歩コースにある市営住宅の敷地にある土手のようになっている場所で、通りかかったときに、つくしらしきものを見かけて、思わず足を止めた。まさかと思って、凝視すると、それはまさしくつくしだった。いやはや、こんなところにつくしが!と新鮮な驚きを覚えた。今まで、何度も通り、気にもしなかったのにどうして今頃と後悔したと同時に、つくしを発見できたことが人生最良のことのように思えて、嬉しかった。

 こう書くと、何をそんなつまらない事と思われるかもしれないが、生き物、ここでは植物のつくしだが、自然のものは何と人にささやかな幸せをくれるのだろう、と心底思う。目の前につくしがこれでもかと思うくらい、のびやかに生えている景色は何とも爽快だ。もっとも私が見つけたときは、だいぶ頭の部分が茶色くなりかけていたが、それでも十分だった。まるで宝物を見つけたように心が躍った。こう書くと、今年もと期待に胸をときめかしていると、言いたいところだが、残念ながら、それは無理というものだ。なぜなら、つくしの生えていた土手は去年の夏頃に市がすべて草を刈ってしまって、草一本も見逃すことなく綺麗にしてしまったからだ。確かに草ぼうぼうより、雑草がない方がすっきりして見映えもいいだろうが、なんだか味気ない。春を告げる典型的な風物詩だったつくしが消えてしまった。

 何とか、根っこでも土に残ってはしないかと一縷の望みを抱いたが、どうやら無理なようだ。朝通りかかる度に目を凝らして、辺りを見てみるが何も生えてはいない。今年はつくしとは出会えなくなってしまったから、余計にミチコさんからのメールが心に響いた。ミチコさんがつくしを取りに行く場所は、地元にある日光川の土手で、水面にはいつもカモの大群がいて、近くにはカメもたくさんいる。帰省すると、毎日のようにお気に入りの喫茶店に行くために、この土手を車で通る。ミチコさんはいつも、「ほら、カモがいるでしょう。カメも近くにいるよ」と気にしている。近くはよく見えるが、遠くがよく見えない私にはカモはわかるが、カメはまるで岩か何かのようではっきりとはわからない。「あれが見えないの?」と呆れられるが見えないのだから仕方がない。そんな、ミチコさんだから、つくしのことを忘れるはずがないか、と今更ながら納得する。

 おそらく、ひとり暮らしのミチコさんはつくしを煮て、近所に配るつもりだろう。これからタケノコの季節だから、たけのこご飯とか、タケノコの煮物も作るに違いない。それからアユの甘露煮も得意なので、これも近所の人にお裾分けする。ミチコさんに電話して、「つくしばかり食べていたら、ずいぶん節約になるね」とからかってみようかとずうっと思っているのに未だに行動に移していない。

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ビデオデッキの復活

掃除機で埃を取るだけで、ビデオが見れた

 先日、久しぶりにビデオデッキでビデオを見ようとした。最後に見たのはいつだったか、思い出せないくらい長い間、使っていなかった。何でも使わないとその機能が衰えるのは人間も機械も同じだ。コロナ禍の最中に歩いて30分ほどのところにあるレンタルビデオ店TSUTAYAが閉店してしまった。閉店のお知らせを見て呆然とした。その頃の自分はパソコンで動画サービスのドラマを見て、レンタルビデオのことなど眼中になかったくせにである。どうでもいいかと思っていたものが、突然無くなるとたちまち慌てふためくのはお調子者のたどる運命にほかならない。まあ、いいかと気持ちを切り替えたら、今度は頼みの綱の無料動画サービスのGAOが終了してしまった。万事休すだ。

 嘆いてみてもどうしようもない。娯楽に飢えた私が向かった矛先は、図書館のサイトだった。あんなものあっても、どうせ使えない代物だと馬鹿にしていた図書館がたちまち宝箱のように見えてきた。サイトを閲覧してみると、何と芥川賞直木賞受賞作のみならず、新刊書だってゴロゴロあるという事実に目を見張った。タダで、2週間も借りられるし、気に入らなければすぐに返せばいい。基本的にどんな本でも、借り放題で読み放題だなんて、自分のためだけに図書館はあるのだと錯覚してしまいそうになる。

 図書館通いが習慣になったある日、いつもは立寄らない新刊書のコーナーに行ってみた。すると、そこにはビデオもあって、『アクトレス』というフランス映画を見つけて、借りることにした。主演はジュリエット・ビノッシュで、ベテラン俳優が、20年前に主演した映画の脇役のオファーを受けて思い悩む話だ。家に帰ってきて、早速ビデオデッキで見ようとするが、うんともすんとも言わなくて、映像も写らない。それでも、何度かやってみたら、映ったので、ほっと胸を撫でおろした。映画の舞台はスイスのサンモリッツチューリッヒとアルプスに囲まれた、風光明媚な場所で、ストーリーだけでなく、背景の素晴らしさも十分楽しめる。その日は途中まで見て終わり。

 さて、次の日も見ようとCDをビデオデッキのトレーに乗せて入れてみるが、いっこうに映像が出てこない。前日と同様に何度かやってみるが全くダメ。「映像の読み取りに失敗しました」と画面に表示まで出た。思えば、何年も放置しておいたので、その間に壊れてしまったのかもしれない。もはやこれまでと観念したその時、以前会社の同僚が言っていたことを思い出した。「ビデオなんかの、ああいう機器はたいてい埃でやられるんだよね」。彼が言いたいのは、電子機器の故障は埃が原因であることが多いということだった。彼の言葉を鵜呑みにしたわけでもなく、ふ~んと聞き流していただけだった。だが、先日は映らないビデオデッキを前にして、私の頭の中になぜか彼の言葉がフワリと浮かんできた。早速掃除機を持ってきて、ビデオデッキの埃をとることにした。チラッと見ただけでもすごい埃だ。特にいくつか穴の開いた側面の部分は穴にこれでもかと埃が詰まっている。掃除機でできるだけ埃を吸おうと躍起になる。

 ビデオデッキは見違えるように綺麗になったが、はたして肝心の機能の方はどうだろうか。本当にこんな簡単な事で、機械というものは蘇るものなのだろうかと半信半疑だった。ダメもとで、CDを入れてみる。たいして期待もしなかったが、すぐに画面に映像が出てきた。なんと見事にビデオデッキは復活していた。これはまぐれなのか、それとも必然なのかはわからないが、とにかくビデオは見られることは確かだった。『アクトレス』のことだが、ベテラン女優は戸惑いながらも、一旦は主役の相手役というオファを受けることにする。その後すぐに後悔して、断ろうとするが後の祭りだった。高額の違約金が発生するので、不可能だとプロデューサーにくぎを刺される。

 ベテラン女優とマネージャーがアルプスの山々に抱かれた美しい高原を散歩しながら、セリフの稽古をする。時には湖で泳いだりして、まるでバカンスのごとく楽しんでいる。見ているこちらも、旅行気分に浸れるのだが、何たることか、リラックスしすぎて、眠くなってしまった。

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