人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

カレーパーティー

あれとあれよという間に、世界は広がる

 昨日、NHKの夜ドラ『作りたい女と食べたい女』を見ていて、思いがけない展開に面食らった。なんと、野本さんがSNSで知り合った女性とホームパーティをしようと春日さんに提案したからだ。春日さんも「それはいいですね」と大いに乗り気で、律儀な春日さんらしく、お隣の南雲さんも誘うことになった。正直言って、南雲さんはあまり関係ないと思うのだが、それでも春日さんは「野本さんとこうなったのは、元はと言えば、南雲さんのおかげですから」と譲らない。南雲さんが「私なんかが、参加していいのですかねえ」と躊躇すると、「そんなことないですよ」と強く勧めて来る。それでも「そうなると、食事することになって、どうすればいいのですかねえ」とまだ不安な様子だった。春日さんは相手の方に事情を話せば済むことですからと説得し、また、どうやら南雲さんも行きたい気持ちの方が強かったようだ。

 今まで、絶対に笑顔を見せることがなく、感情が表に出なかった春日さんが今回から時折笑顔を見せるようになった。初回からずうっとドラマを見てきて、春日さんが野本さんと一緒に居て、果たして楽しいのかどうかも分からなかった。春日さんは野本さんに誘われるままに、野本さんが作った料理をそれはそれは気持ちいい程に平らげる。「ご馳走様でした。美味しかったです」と満足そうに言うだけだった。なので、野本さんは自分の片思いに違いないとずうっとそう思っていた。

 おそらく、南雲さんの「お二人は付き合っているんですか」の一言がなかったら、果たして二人はこんなに早くカップルになっていただろうか。どう考えても、否である。ただ、意外だったのは、人づきあいが苦手だとばかり思っていた、春日さんが社交的な性格だったことだ。ふつう、引越してきたばかりで、2,3回しか話したことがない相手に、いくらなんでもプライベートなことを相談できるものだろうか。まずはそのとんでもない行動力にびっくりしたが、よく考えてみると、春日さんの軽いフットワークが二人を結び付けたことも確かだ。

 南雲さんが今どんな心理状態なのか、ドラマでは明かされないが、とにかく暗い洞穴から抜け出すための一筋の光は見えているはずだ。それは言うまでもなく、春日さんのおかげなのだ。ホームパーティの帰りに、「不安だったけど、来てよかった。とても楽しかった」と南雲さんは春日さんに感謝する。

 さて、ホームパーティーSNSで知り合った女性の家で行われた。3人それぞれ各自お土産を持っていく。野本さんはなんと発酵させたナンの生地を大きなボールごと持ってきた。ええ~!?それをどうするかって?その生地を薄くのばして、形を整え、フライパンで焼くだけで、ナンが出来上がる。そもそも、ナンって、自分の家で焼けるものなのか、という疑問がたちまち吹っ飛んだ。あれはどこの街角にでもあるナンの店で食べる物ではなかったのかと、私などはステレオタイプの考えしか思い浮かばない。自分で作れるのだ、ということを初めて知った。とは言っても、「では、早速作ってみよう」と一発奮起するまでの距離には隔たりがありすぎるが。

 それから、ラッシー、これは南雲さんが、スーパーで、材料を買ってきてくれた。ラッシーと言えば、あの甘酸っぱさが何とも言えない飲み物だが、これも簡単に作れるということが分かった。牛乳とヨーグルトを1対1の割合で混ぜて、レモン汁を垂らすだけで出来上がる。もちろん甘味は砂糖で好みの味に調節できる。

 肝心のカレーは、SNSで知り合った女性が、何種類ものレトルトカレーを用意してくれていた。普段から、食べ比べをしたいとずうっと思っていたらしい。そのカレーを焼き立てのナンに乗せて、口に頬ばると皆口々に「美味しいね」と言い合う。そんな楽しそうな様子を見ていると、皆で何かを作って食べるという行為がどれだけ人を幸せな気持ちにするかということに気付かされる。別にそれが特別なものでなくていい、材料が豪華でなくても構わないということに。

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理想のカップル

お互いに求めるものが一致した、奇跡のような出会い

 早朝の散歩の際、いつになくまごついてしまった。私は毎日自動販売機でBOSSのカフェオレを買うのを日課としているのだが、今朝は小銭がなかった。手元にあるのは500円玉と千円札のみなので、仕方がないので、まずは500円玉を入れた。すると、コロンと返却される。あれ?と思って、今度はゆっくり入れてみるが、またもや返される。ああ、このことか、と同僚が言っていたことを思い出す。「新しい500円玉は自動販売機は受け付けてくれないんだよね」とかなんとか。となると、最後の頼みの綱は千円の野口さんに託すしかない。実を言うと、ここ何年か、千円札を自動販売機で使ったことはなかったが、それくらい簡単だろうと思っていた。

 まず、千円札の絵柄のマークの矢印のところに、札を入れようとするが、何たることか、入らない。何度もやってみるが、ダメなので、この販売機に見切りをつけて、別の場所にある機械で買おうと横断歩道を渡った。ところが、わかりきったことだが、またもや受け付けてもらえない。それで、私はしばし考えた。もしかしたら、絵柄の矢印は単なる説明であって、札の入口は別のところにあるのではないか、と。よく見ると、緑色がちかちかしている場所があるではないか。おそらく、この緑色には何かの意味があるはずだから、そうなると・・・と、そこが千円札の差込口に違いない。早速、千円札を差し込もうとすると、有難いことに、今度はスルスルと中に吸い込まれていく。なるほど、こういうことだったのか、と感心する。後から考えれば、当然のことで、今更感心することでもないのだが。それよりも、それくらい、早く気づけよ、ということなのだ。

 それはさておき、感心すると言えば、NHKの夜ドラ『作りたい女と食べたい女』のストーリー展開がなんとも無理がなくて、自然なことに感心する。野本さんと春日さんの二人の隣に越してきた南雲さんの一言が、春日さんの勇気ある行動を促す起爆剤になった。「お二人は付き合っているんですか」。かつては女性たちに投げかけるのに不適切と思われるような質問が堂々と市民権を得た感がある。南雲さんのその言葉に春日さんは一瞬驚かされるのだが、そのおかげで野本さんに対する自分の想いに気づいた。そうなると、もう春日さんを止めるものは何一つなかった。春日さんはこうと思ったら、一途に突き進むタイプのようで、「一緒に住むアパートを探してもいい」などと、とんでもなく飛躍したことまで口にして、野本さんを思考不能の状態に追い込む。

 一見、自分勝手とも思える春日さんの告白だが、もちろん勘違いなどではなかった。一方の野本さんは自分の片思いだとばかり思って悩んでいたので、嬉しい驚きで涙まで流している。翌朝目覚めた野本さんは、自分の頬っぺたをつねって、「昨日の出来事が夢でなかったこと」を確かめて安堵し、喜びを噛みしめる。考えてみると、二人の関係はまさに自分が望んで止まなかった片割れをそれぞれ手に入れたような理想的ともいえる関係だ。野本さんは、春日さんのために大量の料理を作り、春日さんはそれを気持ちいいほどの食べっぷりで平らげてくれる。そして、その後必ず、「ご馳走様でした。美味しかったです」と言ってくれる。毎回毎回、その度毎に春日さんの食べる姿を見ているだけで、野本さんはうっとりしてしまうのだ。幸せを感じずにはいられない、つまり、その人といると幸せを感じるということは、”好き”ということに他ならない。

 春日さんはお腹いっぱい食べたい人だから、料理好きで大量の料理を作って、食べさせてくれる野本さんはまさに理想の人以外の何ものでもない。ドラマの最初では確かに、作って食べるだけの関係だったが、次第に打ち解けてくると、プライベートの話題も話すようになった。まあ、それもほんの少しだけで、このドラマの本当の主役はあくまでも料理なので、現実的なことはどうでもいい。作ったり、食べたりしている場面の雰囲気をゆっくり味わいたい、そう思えるドラマだ。

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外食での席取り、何を置いておけばいい?

とりあえず置いておいていいもの、にクスッ

 朝日新聞に連載されている4コマ漫画『ののちゃん』は正直言って、さあッと目を通す程度で、その間、1,2分で済んでいた。ところが、先日の回はう~ん?となって、二度見してしまった。それはおばあさんと母親のマツコさんとののちゃんが3人で、ショッピングセンターのフードコートにでもいる場面だった。3人はテーブルに座って何やら話し込んでいる。おばあさんが「何を置いとこう」と尋ねると、マツコさんが「とりあえず、置いといてもよくて、断固として、場所を取っているもの」と答える。となると、何がいいだろう、とあれこれと提案するのだが、ティシュも、ペットボトルも、競輪新聞も却下される。「だから、とりあえず置いといてもいいもの」とマツコさんがどれも違うとダメ出しをする。

 それで、当方はこのマンガを見て、しばし考えてしまった。「とりあえず置いといてもいいもの」とはいったい何なのだろうと。確かに、ティシュやペットボトルや競輪新聞では存在自体が弱すぎないだろうか。それが置いてあるのを見て、もしかしたら、「忘れたんだ」と思う人もいるだろう。その場合、忘れて行ったのだから、ということはもうこの席は空いているのだと、判断してもおかしくはない。そうなると、「断固として場所を取っている」とは言い難く、誠に頼りない存在なのだ。もしかしたら、食べ物を買っている間に誰かに席を取られるのではないだろうかという不安に苛まれるのが落ちだ。なので、その辺のところは十分に考慮する必要がある、とマツコさんはその点においては抜け目がない。

 漫画の4コマ目を見た途端、クスッとなった。なんと、ののちゃんがテーブル席でひとり「フン、とりあえずいいんだ」と拗ねていた。要するに、マツコさんが考える「とりあえず置いといてもよくて、断固として場所を取っているもの」に当たる理想的なものはののちゃん!だったのだ。まあ、確かにこの選択は間違いがない。誰だって、人間がそこに座っていれば、それが子供だったとしても、「ここは私の席です」と立派に主張しているのだから、「塞がっているな」と判断するに決まっている。ティシュやペットボトルや競輪新聞では思わぬ誤解を招くことがあるが、人間なら安全安心である。ののちゃんには気の毒だが、マツコさんはなかなか鋭い判断力の持ち主だと感心する。まあ、マツコさんはこんな時だからこそ、内に秘めた潜在能力と言うか、ある種の感を働かせるのが得意なのだろう。

 考えてみると、その場所が混んでいる時の席取りは、たいていは荷物を置いておくのがいいように思う。もちろん、貴重品が入っていなくて、どうでもいいようなものが入っているものに限る。あるいは、読みかけの本とか、冬ならコート類とかをわざと無造作に置いておく。そうやって、「ここはすでに私が取っています」とアピールしなければならない。生半可で、中途半端な見かけでは、到底サバイバルするのは難しい局面なのだ。もっとも、こんなふうにやりたい放題に自由にできるのは日本だけで、外国ではとてもできない。それに、皆の様子を観察していると、荷物を席に置いたまま、注文しに行ったり、あるいはトイレに行く人は誰一人いないことがわかる。危険情報を嫌と言うほど聞かされているので、当然大荷物を抱えてはいても、一緒にトイレに入る。空港のトイレはスペースが広めなので、何の問題もないが、街中の店のトイレとなると狭くて閉口することが多い。

 席取りの話に戻ると、「ここは私の席です」という目印のつもりで、赤い手袋を置いて行ったことがある。そこは大きなセルフサービスのフードコートで、モスクワのグム百貨店の中にあった。数種類の料理と飲み物が乗ったトレーを持って戻って来たら、なんと、お気に入りの赤い手袋が消えてた。どこの誰が、なぜ、あんなものを持って行ったのか、今でも不思議でならない。

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ボタンの穴が小さすぎて、コートが着られない

ネットでの通信販売には注意が必要

 私はいつも、新聞を読む際に、ついでに法務の相談コーナーにも目を通す。もちろん、ざっと目を通す程度なのだが、先日はとんでもない話に開いた口がふさがらなかった。なんと、ネットで買ったコートの穴が小さくて、着られないので、交換を申し込んだら販売元から送料を要求された、というのだ。はて、これはいったいどういうこと!?と首を傾げた。まずは、送られてきたコートのボタンの穴が小さすぎる、だなんてことが本当にあるのだろうか。だいたいが既製品なのだから、ボタンホールの大きさは決まっているはず、まさか相談者に送られてきた商品だけが穴が小さすぎる、だなんてことは魔訶不思議で、とても信じられない。それに、そんなことが実際にあったとしても、そんなとんでもない不良品のコートをやむなく交換してもらうのに、送料を負担させるという、厚かましさに驚きを隠せない。

 相談者としては、不良品を送りつけられた挙句の果てに、送料を負担するのはどうしても納得がいかない。当然のことなので、こういう場合には、法律的にはどうなのかということを聞きたかったようだ。回答者の弁護士によると、「実費を送り主に請求可能だ」ということだった。さらに、ネット通販の場合は返品・交換の注意事項を確認するようにとの忠告を付け加えていた。だいたいが、私も含めて、商品を買う時は買うことばかりに気を取られて、返品とか交換のことまでには考えが及ばない。その場所まで行って買うのが面倒臭いから、ネットで買うのを選択するわけだが、一つ間違えば、一番避けたかった“面倒臭さ”が倍になって跳ね返ってくるのだ。

 実際に私も、そんな面倒臭い思いを嫌というほどしたことがある。ネットで商品を買うということが、どれだけ鬱陶しくて、イライラさせられるものなのかを身をもって経験した。それはまだ記憶が新しい昨年のことで、家電販売店で買えばいいのに、ネットで電子レンジを注文した。すぐに送られてきて、「こんなに簡単に手に入るなら、別に店に行かなくてもいいんだ」と得意満面だった。安心しきって、商品を試して、確かめてみようなどという警戒心などさらさらなかった。一カ月程経って、そろそろ使って見なきゃとふと思った。電源を入れて、電子レンジの温めのボタンを押したが、うんともすんとも言わない。パネルに「エラー」の文字が表示され、何も起こらず、そのままの状態が続くだけだった。これは、まさか、まさかの故障、いや、不良品なのかもしれない。そう思った瞬間、目の前が真っ暗になった。折も折、そのときは何とも不都合な、三連休の初日で、この惨事を報告し、助けを求めようにも販売元は休みで連絡が取れやしない。万事休すだ。

 それでも、慌てまくった私は、電子レンジの発売元である日立家電のお客様相談室に電話をかけて聞いてみる。すると、いずれにしても、現物をこちらまで送っていただかないと、何とも対処のしようがないといわれてしまう。そう言われて初めて、人が自分の家に見に来てくれるとばかり思っていた私は、これはかなり面倒臭いことになったとようやく気が付いた。もちろん、この状況では、相談するべきなのは、日立家電ではなく商品を買った販売元なのだが。電子レンジを送るとなると、かなり大きな箱がいる。とっくの昔に電子レンジが入っていた箱は捨ててしまっていたので、薬局にでも行って、大きめの箱を貰って来る必要がある。急に忙しくなるが、休み明けまでに何とかしなければと奮闘し、ようやく梱包できた時はホッとした。大変まどろっこしいことだが、ネットで注文したのだから、その後の連絡もメールでのやり取りが続く。

 電話でのやり取りができないので、諦めるしかないのだが、自分で言うのも何だが、私はこのことをあまり深刻には受け止めていなかった。要するに、私にとっては、この事態は”大事の前の小事”に過ぎなかった。当時私は海外旅行を目前に控えていて、そちらにしか関心がなかった。なので、先方ののらりくらりとしたはっきりしない対応にも、”果報は寝て待て”と言わんばかりに思っていた。海外旅行から帰って、交換品が届いた時は驚愕した。なぜなら、それは以前のものとは似ても似つかぬ立派な正規品だったからだ。つまり、先方が最初に送ってきたのは日立の製品のコピーだったのだ。

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愚痴をこぼしますか?

愚痴はストレス解消になる?

 朝日新聞の土曜版Be に「愚痴をこぼしますか?」というアンケートが載っていた。結果は「はい」が60%で、40%の「いいえ」を圧倒していた。その理由を見て、気になったのは、「ストレス解消」とか、「気持ちを整理できる」と考える人が多数いたことだ。本当にそうなのだろうか、いや、たとえ、自分はそうだとしても、延々と聞かされる方にとっては迷惑千万の何ものでもないだろう。最初から最後まで、垂れ流しのように愚痴のオンパレード、何度も同じような話が続き、終わる気配がまったくない。暗くて、気の滅入るようなダラダラ話が、聞く側の心を執拗なまでに侵食し、不快感が高まるのを止められない。もういい加減にしてくれ、もうその程度でいいではないかと、口を挟みたくなるのをぐっと抑える。

 そんなときはだいたいがランチなんかを食べながらのことが多いが、正直言って、食べ物の味がしないくらい、こちらはメンタルをやられてしまう。なぜランチ代を払ってまで、いや、たとえ、奢りであっても、御免被りたい。だが、職場の同僚なのだから、付き合いなのだから仕方がないと覚悟して行く。当然、帰りはぼろ雑巾のようにくたびれて、口の中が苦い液体でいっぱいになる。どうしてあんなに愚痴を吐き出されるものかと、呆れ果て、ついつい誘いに乗ってしまったことを後悔する。だが、相手の顔を盗み見ると、意外なことにスッキリしているではないか、そうなると、なんだかこちらは損をしたような気になって、自己嫌悪の極致に陥る。

 なので、私は自分なりに予防線を張ることにした。同僚の誘いは3回に一回、いや、なるべく断るようにしている。その代わり昼休みには最大限にコミュニケーションをとろうと努力を欠かさない。それでも、面と向かって「話があるのだけれど、今晩空いてる?」などと言われたら、断れない。ああだ、こうだと、非建設的な愚痴を聞かされ、相槌を打ちながら、じっと耐えなければならない。どうしてこうも人は愚痴を言うのが好きなのだろう。そんなことをいつも思っていたら、今回のアンケートに遭遇した。一番驚いたのは、愚痴を言う理由に、「自然と口から出る」をあげる人が大半を占めていたことだ。あれは、自分の意志とは関係なく、ポロポロとこぼれるものらしい。抗おうとしても、涙のごとく、止めようとしても出てしまうものなのか。そんなに自然なことなのか、と当方は困惑せざるを得ない。

 考えてみると、愚痴を言うことは、自然な行為だからこそ、気持ちがスッキリするのかもしれない。気分が悪い時に、とりあえず、お腹に溜まったあれやこれやを一気に吐き出せば、気分がよくなる、と言うことだろうか。誰かに愚痴を聞いてもらって、すっきりしたいという気持ちはわからないでもないが、聞き手はたまったものはない。だから、私は人に愚痴を聞いてもらいたいなどとは思わないし、人の愚痴はなおさら聞くのは嫌だ。

 一方、愚痴をこぼさない派の人にその理由を聞いてみると、「根本的な解決にならない」をあげる人が多かった。なるほど、その通りだ。それに、「後味が悪い」し、「周りに告げ口をする人がいる」こともあって、ロクなことがないらしい。どうやら、愚痴をこぼす行為は悪いことだらけで、何一つ良いことがないようだ。なので、愚痴は言わない方がいいということで、「ストレス発散は別の事でもできる」という意見もあった。私も同意見で、愚痴を言い合っているうちに、それはやがて、その場にいない人の悪口に繋がっていく。そうなると、いつの間にか「あの人が誰々さんのことをこう言ってたわよ」という噂が広まる。そうなると、収拾がつかなくなって、職場がぎくしゃくしてしまうのだ。愚痴は言ってしまったら、もう取り返しがつかないから、面倒で怖いものだ。愚痴でストレス発散なんて、できやしないのだ。特筆すべきは、『毎日毎日愚痴を聞かされるのは、毒を飲まされているようなもの』だと、ある4コマ漫画で読んだことがある、との投稿を寄せてくれた人がいたことだ。

 

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水を大量に使う生活に疑問が

 

こんなに水を使っていいものかと悩む

 作家の津村記久子さんが、朝日新聞の夕刊のエッセイで、「風呂の水を残しておくために二年前にバケツを買った」と書いていた。その理由は「大量に使う風呂の水を流してしまうことにずっと罪悪感があった」からだという。近頃は浴槽に浸かるのは水道代がかかるので、シャワーで済ませる方々が多いと聞くが、津村さんは私と同じ”浸かる派”らしい。もっとも私の場合は、あんな大量の水を一日で捨ててしまうのはもったいないので、2日おきに水を取り替えることにしている。もちろん、毎朝のトイレ掃除や台所の床の拭き掃除に利用しているが、それぐらいでは全部使い切ることは難しい。津村さんによると、自宅の洗濯機は外から水を入れると、排水してしまうタイプなので、洗濯に利用したくてもできないらしい。

 私もできればそうしたいと考えて、浴槽の水を洗濯機に移すのに使うポンプを買って来た。だが、”洗濯王子”で有名な中村祐一さんのアドバイスは「浴槽の残り湯を使うのはやめておいた方がいい」だった。なぜなら、残り湯で洗濯するのは構わないが、その後水ですすぐことになると、せっかく落ちた汚れが繊維に残ってしまうというのだ。要するに、全てお湯でやれば問題はないそうだ。どう考えても、そんなことは現実には難しい、そう考えた私は残り湯を洗濯に使うのを諦めた。

 さて、津村さんが風呂の残り湯をバケツにためて置いて、何に使っているかと言うと、手を洗う際にハンドソープの泡を落とすのに使っているそうだ。特にコロナ禍の時は念入りに手を洗って、手が泡のお化けのようになり、とんでもない量の泡を落とすのにかなりの水を必要とした。津村さんは水をじゃあじゃあ流しっ放しにすることに嫌悪感を通りすぎて、怒りさえ感じていた。なので、バケツを買って、風呂水を二次利用することで、怒りの矛先は収まったというわけだ。

 私は津村さんほど潔癖症ではないが、水道の蛇口から水が否応なく流れることにいつもストレスを感じる。それなら、ボールに水をためて、食器を洗えばいいのだが、それも面倒臭くてできない。結局、かなりの水をだだくさにしていて、何とかしなければといつも思う。そんなとき、元旦早々の地震で避難生活を余儀なくされている家族の生活がどんなものかを取材した記事を新聞で読んだ。毎朝20Lのタンク3つを抱えて、近所にある井戸まで水を汲みに行くので、腰が痛い。できるだけ水を使わない調理を心がけ、食器はペットボトルの水ですすぐ。洗濯物は一週間分をコインランドリーで済ます。「洗濯と入浴が一番大変。水が出ないとお金もかかる」と歎く声にため息が出た。

 水がどれだけ大事なものか思い知らされるが、何処か現実味がない。当たり前のことで、当事者になってみなければわからない。水道の蛇口から水が出るのは当たり前になっているのだから。津村さんのバケツに風呂水をためておくという話で、ふと思ったのは、プラ容器の水洗いのことだ。肉や魚のパックは水でさっとすすげばいい。味付け肉などの脂も使用済みのラップやテイッシュで表面を拭けば水で洗うよりずうっと簡単に取れる。ただ、問題なのはマヨネーズやドレッシングなどのプラ容器で、水で何回すすいだら、綺麗になるんだとやけになるほど手間がかかる、いや、水が必要になる。自分でも、バカバカしくなるほど水を使っている。そのまま捨てた方が地球の環境のためになるのではと、嫌気がさすほどだ。私がしているその行為は本当にSDGsになるのだろうかと悩んでしまう。

 だから、せめて、プラ容器をすすぐのに、ふろの残り湯を使ったらどうだろうか、もちろん最後は水道の水ですすぐのだが。何かの本で読んだことがあるが、日常生活において、日本人ほど水を大量に使う国民はいないとか。例えば、ひと風呂浴びるとか、うち水とか、かけ流しとか、湯水のごとく、などという、水を使った表現が豊富にある。世界でも稀有なことだと気付かされるが、現実はそう簡単に今の生活をやめられはしない。それならせめて、これからは水を大切に使うという意識だけは持ちたいものだ。

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ロウバイ

見ごろは過ぎたが、独特の光沢は残っていた

 昨日、飛鳥山記念公園にロウバイを見に行った。園内には、紅梅があでやかに咲いていて、人々をくぎ付けにしていたが、私の関心はロウバイだけだった。そもそも、私がロウバイ、つまり、蝋梅のことを知ったのは、テレビのクイズ番組だった。シャクヤクやら、金木犀ライラック山茶花などのいくつもの写真が映し出され、それらの名前をゲストが当てていくという形式だった。その時に、何やら黄色くて、可憐な花だが、これまで生きて来て、まだ見たことがない花が登場した。それが、ロウバイで、蠟燭の蝋に、ウメと書いてロウバイと読み、いわゆる、黄色い梅の花のことを言うのだと知った。だが、この花はタダの黄色い花などではなくて、花の名に「蝋」とある由縁は、花が蝋細工のような光沢を持ち、まるで人工的に作り出された美術品でもあるかのように感じられるからだろう。もちろん、テレビに映し出された写真からは、そんなことは分かるはずもなかった。その時は「へえ~、そんな花があるのか」ぐらいに思い、頭の中を通過しただけで、ずうっと忘れていた。ましてや、何処かに見に行って見たいなどとは露ほども思わなかった。 

 だが、最近私の周りでは、どういうわけかロウバイの話題に溢れている。例えば、先月の朝日新聞に連載されていた益田ミリさんのエッセイでは、ロウバイの話題になった。ミリさんは花屋でロウバイの小枝を買ってきて、花瓶に差して、その甘い香りを楽しんでいた。ふ~ん、いいなあ。できればそんな幸せを分けてもらいたいのに、近所の花屋ではそんないいものを見かけたことなどない。ああ、そうだ、ウメや桃の花ならたまに花屋の店先で、道行く人の目を惹いていたこともあったっけ。テレビで画面越しに見ただけでは、いったいどんな香りなのか、どんな花びらなのか、想像もつかない。となると、ロウバイを直に見たいという思いは募った。でも、今まで通りにすぐ忘れた。

 そんな折、中日新聞で、『ロウバイの光沢に感嘆』という千葉県柏市の江島興造さんの投稿に出会った。江島さんは羨ましいことに、散歩の途中の駐車場の奥にロウバイがあって、毎日その麗しい姿と香りを堪能できているという。残念なことに、私ときたら、いくら近所を捜し回ったところで、とんとロウバイには行きあたらない。縁がないのか、毎日殺風景で無彩色の世界を飽きもせず歩いている。私は色に飢えていた。いや、何も明るい華やかな色でなくてもいい、ロウバイのような、控えめでも気品のある黄色い花でいいのに、それが叶えられない。

 なので、運命のごとく、偶然出会うことを期待するのをやめた私は、自らロウバイに会いに行くことにした。園内の入口で、マップを貰い、どれどれとロウバイを探すと、ロウバイには2種類あって、ソシンロウバイロウバイが園内の2か所に咲いていた。冒頭の写真はソシンロウバイで、よく見ると花びらの周りが少し茶色っぽくなっている。人間で言えば、娘盛りを過ぎていて、どうやら私は絶世の美女の全盛期を見逃したようだった。私がスマホで写真を撮っていると、誰もが皆口々に「ロウバイはもう終わりだね」と言っては通りすぎていく。たまに、私と同様に、じっとロウバイの花を見つめている人たちもいて、「ソシンロウバイよりもロウバイの方が好き」と言い放つ人もいる。その人はそう言いながら「花びらがタコの足みたいにビラビラになっているの」と少し離れた場所にあるロウバイの木を指さした。なるほど、「タコの足」とはなかなか的を射た表現だと、心の中で拍手する。

 その「タコの足」も少し茶色くて、すすけた色になって、やがて枯れていく運命だ。それにしても、もっと早くここに来れていたら、と思うと悔しい気持ちでいっぱいだ。それでも、ロウバイの花びらを凝視してみると、先の江島さんの指摘どおりで、他の花にはない、精巧な工芸品であるかのような雰囲気を醸し出していた。来年は是非とも、”ロウバイの旬”を見届けたい。

 

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