人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

王女が伴侶に選んだのはピエロ

意外な結末に唖然!

 活字に疲れると、絵本が読みたくなる。細かい字を目で追わなくていいし、絵があるから目の保養になって、気楽に読めるからだ。絵本は何も子供のためにだけあるのではないと言ったのは、名前は忘れてしまったが、有名な教育評論家だった。でも、大人が絵本を読むだなんて、大きな声では言えない雰囲気がある。昔もう立派な大人なのに、新刊書の棚にあった絵本に嵌り、子供の本のコーナーに通い詰めていたことがあった。そのときはもちろん、自分の子供のために本を探している母親のようなふりをしていた。まさか自分が自分のために絵本を探すだなんてことは、周りから何か咎められるような気がして予防線を張っていた。たぶん、大人は子供向けの絵本なんて読まないという既成観念にがんじがらめになっていたからだろう。

 そんな時、新聞で読んだ「大人こそ、絵本を読んで、汚れた魂を浄化をしよう」というある知識人の呼びかけに励まされた。絵本を読んで日々の疲れを癒したら、またすぐに活字の世界に戻っていく、という生活を繰り返している。今もまさにその時で、絵本の世界を堪能しているところだ。最近読んだ絵本は、『冬のコートをつくりに』という石井睦美さんと布川愛子さん著の作品で、主人公はうさぎのさきちゃんだ。さきちゃんがお母さんが昔着ていたコートを、自分用に作り直してもらう話になっている。さきちゃんはお母さんのコートを自分が受け継ぐことに喜びを感じている。母親のお古を着ることに何の疑問も不満も抱いていないところに、母親への愛情をひしひしと感じる。

 森の仕立て屋さんのミコさんは、腕がいいと評判で、センスもいい。ミコさんはさきちゃんがどんなコートがいいのか、と次々と質問していく。その質問がまたとてもいい。例えば、「さきちゃんにとって、冬はどんな色?」とか、「冬は何が楽しみ?」とか「コートを着て何がしたいの?」などなど、さきちゃんの反応を見ながら、頭の中でこれから作るコートのイメージを決めていく。そうやって出来上がったコートはまさにさきちゃんが望んだ理想の一着だった。絵本を見ると一目瞭然なのだが、なるほどと、大人の私が納得して、なんども見返してしまうほど可愛い。

 さきちゃんの絵本に味を占めた私は、また他の作品も読んでみたくなった。今度は同じシリーズの『春のワンピースをつくりに』を借りたが、ついでに別の作者の絵本も借りることにした。ついついそのタイトルに惹かれるままに『王国のない王女のおはなし』を読んでみることにした。なんだか面白そうと読み始めたが、最後に「こんなのありえない」と大人の見解が出てしまった。要するに、もしもこの絵本を子供が読んだとしたら、めでたしめでたしとなっただろう。何しろ、王国のない王女が荷物運びのバイトをし、ピエロが道化をして生計を立てると言うのだから、何とも荒唐無稽な話だ。

 そもそも主人公の「王国のない王女」はどこかの国の王女でも何でもなく、ただ名前がプリンセスなだけだった。王女の所有物はちいさな馬車とプリティという仔馬だけだ。それでも、王女は自分の王国を探して旅をつづけていた。生活費は馬車で小さな荷物を運んで稼ぐ。王女は自分の国もお金もないが、誰をも惹きつけずにはおかない美貌の持ち主だった。当然かの地の王様や王子に求婚されるのだが、嫌気がさして逃げ出してしまう。どうやら、王女が探す王国とは、国の所有者である王族との結婚ではないらしいと分かる。では、王女はいったい何を求めて、旅を続けているのだろうかという疑問が自然と浮かんでくる。

 それにしても、ただ優しいからとか、楽しいからというだけの理由で、ピエロを伴侶に選んでいいのだろうかと首をかしげずにはいられない。絵本では、その後二人には子供が生まれて家族もできた。仔馬のプリティにもまた家族ができた。そうやって、私の心配をよそに、二人は幸せに暮らしていく。ただ、一つ分かったことは、王女は自分が探していた王国をやっと見つけたのではないかということだ。

 

 

 

 

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老齢基礎年金の加算金って何?

 

配偶者の年金が増えるということ

 7月に実家の法事で帰省する予定があるので、駅に切符を買いに行ったことは既に書いた。昨日はその帰りの切符を券売機で買おうとしたのに、上手くいかなかった。あろうことか、戸惑ってしまった。行きの切符はスムーズに買えたのに、なぜ帰りの切符で問題が起こったかというと、それは駅の券売機の画面が一向に変わらないことだった。いや、そうではなく、画面の一部が変わっていたのに、それに全く気付かなかっただけのことだった。例えば、列車選択で、「新幹線」を選択すると、画面が変わり、「お乗りになる駅を選択してください」という表示が出るので、京都とか名古屋とか東京と言った選択肢の中から自分が乗る駅を選ぶ。そして次は目的地を選びたいのだが、画面が変わらない。何度やっても画面が変わらないので、きっと券売機が故障しているのだろうと、隣の機械に移動した。

 そうやって、私はようやく状況を理解した。ようく画面を見てみると、「お乗りになる駅」がいつの間にか「お降りになる駅」に 変わっていた。すでに行きの切符を買えた私は、少し油断していたようで、こんなの簡単だとばかりに高を括っていた節がある。調子に乗っていたせいで、少しの言葉の変化を見逃していた。なんとも冷や汗ものの勘違いである。これも、普段からパソコンやスマホの画面がどんどん変わっていくことに慣れてしまっているせいだ。これからは券売機の画面には注意を怠らないようにしよう。

 それはさておき、最近私は知人の桐原さんから、ある事実を聞いて驚かされた。それはネット上で常に話題になっている年金のことで、桐原さんの年金受取額がどうやら増えそうだと言うことだった。桐原さんは現在68歳で年金を受給していて、今度桐原さんの夫が65歳の誕生日を迎えることになった。夫も年金を受け取れるようになったが、それに伴いに配偶者の桐原さんも年金が加算されるようになるのだと言う。それを聞いて私はそんなうれしい話がこの世にあるのかと仰天した。桐原さんも、そんなうまい話がこの世の中にあるのかとまだ実感がわかない様子だ。

 先日年金機構から夫と桐原さんに封書と葉書が届いた。年金に関する書類が夫に届くのは当たり前のことだが、桐原さん宛の葉書については何のお知らせかは何も書いていないのでわからなかった。ただ、「大切なお知らせ」としか記載がないので、気にしなければ、開けてみる事さえしないのではないか。だが、桐原さんはネットで「年金機構から届く郵便物を無視したら大変なことになる」との情報を得ていた。それで、いったい何なのだろうと訝しく思いながら、葉書を開けてみた。すると、そこには、「老齢基礎年金への加算に関するお知らせ」という文字が書かれていた。

 要するに、今度から年金を受給する夫の配偶者である桐原さんには加算金を受け取る権利があるのだ。もちろん、何もしなければ、それは不可能だが、「国民年金老齢基礎年金額加算加算開始事由該当書」というやたら長い名前の届を出せばいい。その該当届には各種の必要な書類を添付しなければならない。例えば、戸籍謄本とか、世帯全体の住民票とか、配偶者の課税証明書、それに、夫の年金証明書等が必要になる。それらの書類をすべて用意した上で、年金事務所で手続きをするようにと葉書には書かれていた。

 実を言うと、近くにあった年金事務所は、いつの間にか遠くに移転していた。その移転先が何処かは知らなかったので、ネットで調べると、桐原さんの家からは電車でも、バスでも不便な場所にあった。とにかく、電話で手続きのことを詳しく尋ねてみることにした。いつものことだが、年金事務所の電話はなかなか繋がらない。それでも幸運なことに20分ほど待つと、係員の応答があった。年金加算に関する手続きについて聞いてみると、桐原さんの夫のマイナンバーと本人の基礎年金番号があれば、提出する書類を省略できることがわかった。必要な書類は戸籍謄本と、配偶者(桐原さんの夫)の年金証書のコピーだけでいいと言う。「該当書」を自宅に送るので、必要な書類を添付して郵送で提出するように言われる。なんと、信じられないことに、年金事務所に足を運ばなくても、郵送で手続きが完了してしまうのだ。

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半身で倍身を要求される社会

本が読めるためのあるべき社会とは

 以前のブログで『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本について書いた。恐れ多くも、一読すらすることなく、勝手に想像して好き勝手に書き散らかした。昨日、夕刊を読んでいたら、こんな記述に出会って仰天した。「全身全霊で働くのをやめて、半身(はんみ)で関わる働き方をしよう」。いやはや、半身とは何ぞやと疑問が噴出したが、ちゃんと説明がされていた。「半身」で関わるとは、社会学者の上野千鶴子氏が生んだ名文句で、人生の文脈を仕事に一本化せず、子育てや地域交流など、いくつもの文脈を並行して等価に生きること。そうすれば、きっと本が読めると言いたいらしい。

 だが、私のような平凡な人間は仕事の好き嫌いに関わらず、ついつい熱中してしまう。そうしなければ、仕事なんてやってられないと思っている。仕事は本来楽しいものではなく、目に前にあるからやる、いや、やらなければならないのである。要するに、「半身」とは目の前の仕事にそう向きにならず、力まずに自然体でこなし、本を読む余力を残しておく働き方なのだろう。効率的かつ、集中力を必要とするスタンスでもって、毎日を乗り切り、読書で心のエネルギをチャージする賢いやり方だ。果たして、そんな理想的な働き方ができるだろうかと考えると、甚だ疑問だ。

 第一に読書ってそんなに人間にとって必要なものですか、という根本的な問いにたどり着く。別に本を読まなくても、ちゃんと生きていけると反論されれば、沈黙するしかない。世の中には読書とは無縁の人が五万といるらしい。私の周りにも、活字が嫌いで、できれば本なんて読みたくないと言う人が確かにいる。なぜ、読書が大切かというと、わたしにとっては、本を読まないと心が空虚で仕方がないと強く感じてしまうからだ。生きていくためだけなら、食べ物がありさえすればいいが、それだけではやはり寂しい。精神世界が豊かでなければ、本当の意味での幸福は成り立たないとさえ思う。

 そうは言っても、私は本の虫ではなく、ときどき本の愛好家に変身するだけの移ろいやすい心の持ち主だ。寝る前に本を読まないと落ち着かない訳でもないが、常に新聞の新刊書の広告や、書評のページを気にしている。そして、良さそうな、なんだか気になる本を見つけると、すぐに公立図書館サイトで検索するのが習慣になっている。驚くべきことに、大抵の本は図書館のサイトで見つけられる。本を買わないで読むことに時々罪悪感を抱いてしまうほどサービスは充実している。こんな狡いことをしているから、余計に本の値段は上がってしまうのだが、それでも読みたい本は自腹で買っている。

 実を言うと、何年も本をまともに読まないで過ごした時期があった。その間はたぶん韓国ドラマに夢中になっていて、本に見向きもしなかった時代だった。図書館のインターネット予約の存在を知らず、図書館なんて役立たずだとハナから馬鹿にしていた。なので、ひたすら、本屋の棚の間を彷徨い、良さそうな本を探すのだが、いまいち心惹かれる本がなかった。なにか本を読みたいと渇望しているのに、それに該当する本がないので落胆する日々だった。立読みでお茶を濁し、本屋に長時間滞在しながらも、何も買わない日々が続いた。

 そんなある日、都心に大型書店ができたと聞いて、早速飛んで行った。本屋全体が無料の図書館で、まさに本の読み放題天国だった。だが、悲しいことにそんな幸福も長くは続かず、数年後その大型書店は閉店した。今でも、私がその本屋を潰したという罪悪感からは逃れられない。要注意人物(私のこと)を取り締まる警備員と追っかけっこをしたことを今でも覚えている。それほど、その大型書店は本読みにとっては最高の空間だったのだ。

 さて、タイトルの「倍身」という言葉に触れておくと、「今の倍、効率的に働く」という意味らしい。要するに、本が読める社会にするためには半身で、かつ、倍身で働かざるを得ないのである。

 

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何も問題ないでしょう

知人は困惑するばかり

 市営団地に住んで2年経った知人の桐原さんは、今年の4月から理事になった。理事と言っても、主な仕事は自治会費を集めることと、回覧板を回すことだった。桐原さんは最初の理事会には出席しなかったので、地域で活動する役員になるのを免れた。初めは理事だなんて、面倒だなあと思っていたが、蓋を開けてみれば、たいして負担にはならないとホッとしていた。自治会費については、隣の部屋の男性が留守がちで、大丈夫だろうかと訝しく思っていたが、ちゃんと期日までに納めてくれた。男性のところにはいつも回覧板が何日もそのまま掛かっていたので、それで疑心暗鬼になってしまったのだ。このことは、桐原さんにとってはうれしい驚きだった。自治会費は毎月末日までに理事の玄関ポストに入れることになっていたが、いつまでたっても、一軒だけは集まらなかった。月が替わっても、変化はなく、2,3日の過ぎたところで、仕方なく前任者の石川さんに相談に行った。

 「請求しに行った方がいいでしょうか」と尋ねると、石川さんは「私はそんなことはしないわ。玄関ポストにその旨を書いたメモをいれるだけよ」と慣れているかのような言い方をした。「何回かメモを入れたけど、ちゃんと払ってもらえるから大丈夫。それなら何の問題もないでしょう」とこともなげに言う。。桐原さんは、「それって、いつも期日を過ぎてから払ってもらえるってことですか」と深く追求したかったが、それはできなかった。石川さんは何でもはっきり言う人なので、そんな発言をしたら、「それのどこが悪いの?」と逆に人間性を疑われそうで怖かった。

 つまり石川さんは団地内でのトラブルをできるだけ避けたいのだ。些細な事で、いや、お金の問題だから、些細な事でもないのだが、たとえ、ルールを守らない人がいたとしても、大目に見ようと言うことなのだ。トラブルに発展するようなことは絶対にあってはならないと、そこのところは見ないふりをして、今まで理事を続けてきたのだろう。しかもルールを守ってくれない部屋の住人は外国人の家族だった。

 石川さんのアドバイスに従って、夫が書いてくれた自治会費請求の旨を書いたメモを玄関ポストに入れてみた。すると、あろうことかすぐに、ガタンと音がして、何かと思ったら、玄関ポストに自治会費の封筒が入っていた。どうやら、相手は悪い人ではなさそうだ。たまたま忘れていただけなのだと解釈することにした。ただ、問題なのは、石川さんのメモが点いていて、「うちのポストに入ってました」と書かれていたことだ。要するに、外国人のその人は理事が変わったことさえ知らなかったのだ。日本人なら、自治会費の封筒に書かれた文面を見れば、暗黙の了解で、理事が変わったことを理解するだろう。それが、外国人には通用しなかっただけのことだ。ちゃんと面と向かって、「4月から理事が変わりました」と説明する必要があった。

 桐原さんは自治会費の封筒を返す時、「これからはうちの玄関ポストに入れてください」とのメモを付けた。さあ、これで大丈夫と思ったら、今度は5月の集金の時に、末日になっても、いっこうに自治会費の封筒は来なかった。どうしたのだろうと思ったら、月が替わったあくる日にまたもや石川さんのメモが付いた封筒を玄関ポストに発見した。「理事が変わったことをちゃんと伝えた方がいい」と明らかに迷惑だと書いてあった。誤解があってはいけないので、言っておくが、石川さんは感情を表に出すような人ではない。だが、桐原さんが想像するには、やはり「何度も何度も、いい加減にしてほしい」というメッセージをひしひしと感じてしまうのだ。

 石川さんのメモを読んだ桐原さんは、文面で知らせるのはもうまどろっこしいと思った。直接お宅訪問をして、相手は自分のことを知らないのだから、挨拶も兼ねて自分のことを知ってもらおうと思った。言いたいことは山とあった。自治会費の期日のこと、理事が変わったこと、順番から言えば、来年は理事をやることになること等を文書にして持って行った。インターホンを押すと、すぐに反応があった。玄関から顔を出したのはどうやら奥さんのようだった。石川さんの話では旦那さんは日本語が堪能らしいが、奥さんはあまりわからないようだった。それでも、自治会費のことは理解してくれたらしいので、お菓子と文書を渡して帰ってきた。

 それから、石川さんのお宅に立ち寄った。外国人のお宅のことを一応は伝えておこうと思ったのだが、そこで意外なことを聞かされた。あのあと、「間違えちゃった」と旦那さんが石川さんに伝えに来たと言うのだ。つまり、桐原さんのメモで理事が変わったことを理解してくれていたのだ。そんなこととは知らない桐原さんは文書で延々と理事が変わったこと説明していたのだから、間抜けである。内心、「そういうことなら、早く言ってよ」と言いたいのを押し殺し、平静を装って帰ってきた。

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お酒が飲めない

どうしてもお酒が好きになれない

 朝日新聞のエッセイ『オトナになった女子たちへ』で益田ミリさんが嘆いていた。何をかというと,お酒が飲めないことで、ミリさんの場合は体質的に受け付けないらしい。お酒に弱く、「ビール一杯くらいは飲めるが、飲むペースが早いと心臓がパクパク。すぐ顔が真っ赤に」なるから、「時間の調整が必要になってくる」らしい。最初からウーロン茶を頼めばいいのに、なんとなく乾杯くらいはビールでやりたいという考えからなのだという。お酒が飲めたら、楽しいだろうなあと思うが、体質的に無理なので、こればかりは努力しても仕方がない。ところが、幸運なことに、近頃は多くの店で、ノンアルコールビールを置くようになった。それで、少しは”お酒が飲める派”の仲間入りができたと喜んでいる。

 ミリさんはノンアルコールビールに大歓迎だが、飲める派からしたら、そんな清涼飲料水みたいなものを飲んでまでして、お酒を飲んだ気分になりたいの、という疑問が噴出する。私の周りの人たちはほとんどがそう言う意見だ。本来、ビールというものはアルコールで、ノンアルって何なのと言いたいのだ。アルコールが入っていないのだから、もはやビールとは言えないが、「ノンアルコールビール」という名称だから、ビールなのだ。この名称は、ビールを飲めない人への思いやり、あるいはサービスとしか受け取れない。ただ、飲めない派に喜ばれれば、それで商売は成功したと言えるだろう。

 ミリさんにしても、その場の雰囲気に溶け込みたいと無理をして、最初から飲めないビールを飲んでいる。飲める自分への憧れもあるだろうが、悲しいかな、自分の体質が許してくれない。これはもはや諦めるしかないので、2杯目はもちろんウーロン茶を注文する。実を言うと、私はこのウーロン茶というものがあまり好きではない。なぜ好きではないかというと、あの味、一口飲むと、オエッと来るような独特の味がダメなのだ。気持ちが悪くなって、思わず吐き出したくなるが、そんなことはできないので、我慢して飲み込む。

 私は基本的にお酒は好きではないので、周りの飲めない女子と同様にウーロン茶を注文してみた。その時の私はまだウーロン茶というものの正体を知らず、周りに釣られ、皆がそんなにいいと言うのならと大丈夫と判断した。だが、初めてウーロン茶を一口飲んだ時、失敗だったと悟った。ウーロン茶を飲むと言うことは,私にとっては罰ゲームに等しかった。それ以来居酒屋で、飲めない女子の真似をするのをやめて、ビールを注文することにしている。周りからは「ワア~ッ、ミコナさん飲めるんだ」などと冷やかされても、いっこうに気にしなくなった。幸運なことに、私はビールを飲んでも、たいして顔に出る方ではなく、その場の雰囲気に合わせて飲むことができた。

 ただ、ビールが好きかというと、甚だ疑問で、たいして美味しいとは思わない。未だに仕事の後のビールが美味しいと悦に入る同僚の気持ちがわからない。居酒屋では、ウーロン茶以外の選択肢が他にないから、仕方なくビールを注文せざるを得ないだけのことだ。そう言えば、ここ何年も居酒屋に行っていない。コロナ禍で怖くなって、自然と足が遠退いて以来、全くアルコールとは無縁になった。飲めないのではないが、たいしてアルコールを美味しいと思えない身体なので、何の差しさわりもない。よくドラマなどで、風呂上りにビールを飲んで至福の時を堪能している女子を見かけるが、私には想像できない。あるいは、何か嫌なことが起きて心の中は迷走状態、それを払拭しようとアルコールの力を借りる、みたいなことはまさにありえないことだ。

 それに、だいたいが、私は飲み会が嫌いなのだ。皆お酒の力を借りて、仕事の愚痴や上司の悪口を言いたい放題だからだ。それくらいならまだいい、その場にいない同僚の悪口まで言うのは本当に許せない。その人についてのあること、無い事、言いたい放題。その場にいるのが辛くなって、自分の耳が、心が汚れるような気がして耐えられなくなる。いつも帰りは心に何か重い塊を抱えながら、暗くて惨めな気持ちで家路につく羽目になる。

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離婚しない理由

突然の発言に唖然とする私

 それは本当に偶然かつ、突然の出来事だった。聞き耳を立てていたわけでもなく、気他人に興味を抱いたわけでもないのに、私の目の前で発せられた言葉だった。事の発端は、昨日の夕方帰宅途中の私は、ガードを潜ろうとしていた。すると、そこに自転車をひいた男女がやってきて、私の行く手を阻んだ。内心、自転車に乗ってさっさと行ってくれればいいのにと思いながら、後をついて行った。ガードを潜り終えると、坂道が待っていて、そこでも私は彼らと一緒だった。彼らのうちの男性の方が先に行き、女性は男性の後からついて行った。女性が何やら男性に話し掛けているが、その日本語がよく聞き取れない。そう、女性の方は明かに外国人のようで、日本語があまり上手ではなさそうだ。男性の方はどうなのかは分からなかったが、その後すぐに判明した。

 女性の方が、「私、困る」と何回も言っている。どのような事で困っているのかは、彼女の拙い言葉からはわからないが、男性はちゃんと彼女の言うことを理解していた。男性は、よく見ると髪の毛に白髪が混じっていて、50代ぐらいだろうか。おそらく、二人の関係は夫婦ではなく、職場かなにかの知り合いだと思われた。その時、急に男性が立ち止って、彼女にこういった。「俺が離婚しない理由がわかる?俺は20年間別居していても、離婚しないのは、離れているから、ストレスがないからなんだ」

 突然の発言に驚かされたが、私は立ち止ることなく、彼らの横を通り過ぎた。少し歩いて振り返ってみると、彼らはまだ元の場所に留まっていた。あれから、またどんな話の展開になったのかは、私には知る由もない。どうでもよかった。ただ、あんな道の真ん中で、他人に聞こえるように堂々と発言する人を見るのを初めてだった。男性の発言にはまだ続きがあった。「社長夫婦は仕事もプライベートも一緒でしょう。だからその気持ちがわかる」と女性に同情していた。おそらく、彼女が今直面している「困る」は職場の社長夫婦のことで、どうしたらいいかわからないのだ。

 それにしても、男性の離婚しない理由には驚かされた。別居すれば、離れて暮らせば、それで、結婚はうまくいくものなのだろうか。勝手に想像すると、毎日お互い顔を突き合わせていると、亀裂が生じるから、離れていた方が楽ということなのか。ストレスフリーというのは、全く関わらないと言うことで、相手がいないのも同然で、紙きれ一枚で繋がっている関係ということなのだろうか。ストレスがないなら、離婚しなくてもいいと言う考え方なのだ。そんな形で結婚生活を続けている人がいることに仰天した。それはよくある別居結婚というものとも一線を画している。

 私が偶然出会った男性はやたらと”結婚”に固執していたようだが、私の友人の両親の場合は違った。彼女と知り合った時、彼女は父親とは名字が違っていて、「私は山田だけど、お父さんは木村さんなの」と言った。それを聞いた私は、「ええ~!?いったいどういうこと?」と彼女を問い詰めた。つまり、彼女の両親は法律的に結婚していなくて、それでも、母親は愛人なんかではなくて、正真正銘の正妻なのだ。彼女の話によると、父親はあまり家に帰ってはこないそうで、普段は建設現場の事務所で寝起きしている。クレーンや、ショベルカーなどの重機を操作する仕事をしているのだと自慢していた。学校に入って、皆と自分の家庭が少し違うことに気が付いたが、たいして気にはならなかった。親にどうしてなのと尋ねてみようと思ったこともない。うちはうちで、それが当たり前で、親と名字が違っていても、何ら支障がなかったらしい。

 そんな話を聞いて、そうか、別にそれでもいいんだ、と初めて気づいた。世間でよく言われ、新聞など見かけることが多い“内縁”という夫婦関係は真っ当なものだった。当事者同士がそれでよければ、他人がどうこう言う筋合いなどない。最初はなんだかスキャンダラスだと感じた関係が至極当たり前のように見え始めた。

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みどりの窓口もうない

唯一頼りになるのは、駅員と話せる電話付きの券売機

 昨日、新幹線の切符を買いにJRのみどりの窓口に行こうとした。だが、みどりの窓口があったはずの入口のドアは閉まったままだった。何も貼り紙などないが、みどりの窓口はもうなくなったのだとすぐに合点がいった。そう言えば、2,3か月前にスマートEXのことで、列車が計画運休や運行停止になったときの対処法を聞きに行った。その時も閑古鳥が鳴いていて、二人いる職員も暇そうだった。それなのに、応対があまりにも事務的だったので、これでは何の役にも立たないじゃないかと憤慨した。ネットで買ったチケットはすべてネットで何とかするのが決まりで、窓口では一切受け付けないとのことだった。

 それで、私は今回紙のチケットを窓口で購入しようとした。窓口で買えないことに、少し戸惑ったが、残る手段は自動券売機で買うしかないようだ。早速券売機のところに行くと機械が3台並んでいた。一番右端の券売機には電話が付いている。どうやら職員と話をしながら、切符が買えるようで、これがいいと喜んだ。だが、よくみてみると、券売機の前には誰もいないにも関わらず、画面に待ち人3人とでていた。3人もいるなら、こりゃダメだと諦めて、普通の券売機のところに移った。真ん中の券売機には先ほどから高齢の女性がメモを見ながら、操作をしていた。私は空いている左端の券売機を操作して、切符を買おうとした。まず、画面から新幹線を選び、日付や時間帯を指定する。すると、列車の候補が表示され、列車を選ぶと、次は座席を指定できる。難しいことは何もなく、スムーズに切符が買えた。

 私が切符を買い終えても、隣の女性はまだ何やら考え込んでいるようだ。どうしたのだろうと、訝しく思ったら、突然「お待ちのお客様はいらっしゃいますか」という女性の声が聞こえた。それは右端の自動券売機からの音声で、それを聞いた瞬間、隣にいた女性は素早く移動した。渡りに船とばかりに、その音声は高齢の女性にとっての救世主だったのだろう。聞き耳を立てていたのでは決してないが、「友人が12のEの席を取っているので、その隣の席を取りたいんですけど」などと言っている。ああ、これで万事うまく事が運ぶのかと思ったら、「暗証番号がないと買えません」と音声が応答するので、女性はがっかりしている様子。

 もしこれが窓口だったら、対面でいくらでも相談できただろう。だが、世の中はそれを許してくれず、すべて効率優先で動いていく。サービスという言葉はもはや死語になりつつあり、ネットで切符を買うのに慣れている私でさえも戸惑っている。切符は買うことができたとしても、それ以外のことでいくらでも相談したいことはある。ネットではまどろっこしくて、埒が明かないから、窓口に聞きに行ってしまうのに、それさえももうできなくなる。券売機で7月初旬の切符を買って、少し驚いた。もうすでに私が乗る列車の6,7,8号車は満席だった。やはり、昨今は皆スマートEXかなんかを利用して早めに買うのだろう。その事を分かってはいたが、これほどとは予想だにしなかった。仕方がないので、比較的空いている11号車の座席を買った。今回敢えて紙の切符にしたのは、不測の事態に備えて、窓口に並べるようにしたかったからだ。

 昨年のお盆は大雨で線路が水没したために、突然の運休や計画運休などに翻弄されたてしまった。昨今はまさかの事態が頻発する世の中で、もう今までとは別世界なのだと思うしかない。予約した列車をあと少しのところで逃し、新幹線で満員電車のごとく、立って行く羽目になった。2時間余り立ちっぱなしだったが、不思議と平常心でいられた。目的地について、列車を降りたら、ホームで何人かの外国人がいるのを発見した。あの人たちはせっかく観光で日本を訪れたのに、えらい災難に遭ったものだと気の毒に思う。私にしても、後にも先にも、こんな事態に遭遇したのは初めてだが、これからはいつ起こってもおかしくない。そう認識することにした。

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