人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

叔母のガン宣告に動揺して落涙

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何気ないメールの返事に仰天して

 昨日の朝何気なくスマホを見たら、田舎に住む84歳の叔母からメッセージが届いていました。前夜に送った、「ワクチンもう打ったの?」のメールの返信だと思いました。そしたら、その文面は「今病院に入院してる。でもコロナ禍だから誰にも会えない」でした。あの元気でビンビンしている叔母と病院はどう考えても結びつきません。頭の中を疑問が駆け巡り、いったい何がどうなっているのか見当もつきません。こんな時はすぐに真相解明するしかないと実家に電話をかけました。でも兄が亡くなって一人で住んでいる義姉は「何も聞いていない」と言うのでした。それで、叔母の息子に直接聞いてみるしかないので電話をするしかありません。叔母は息子夫婦とは別に離れに住んでいて、夕食だけは共にする生活をしていました。離れと言っても、亡くなった夫と一緒に経営していた会社の事務所の2階です。外階段を昇らなければならないので、高齢者にとっては苦行なのではと思っていました。ところが叔母はたいして気にもせず、トントンと昇っていきます。私が「ねえ、雨が降ったら大変じゃない?」と指摘すると、「雨が降ったら傘を差せばいいじゃない」と相手にされませんでした。

 そんな叔母にいったい何が起こったのか。叔母の息子に電話をしてすべてを知りました。彼の話によると、叔母は5月に入ってから食が細くなりました。いつも食欲旺盛なのに何か変だとすぐに気が付いて、親戚がやっているクリニックで診てもらいました。血液検査に異常もなくて、そこでは異常なしと言われたのですが、食欲は戻らないままでした。まるでダイエットをしている人みたいに叔母はやせ細っていきました。そこで、家から遠くにある都心の病院で診てもらうことにして、3日間検査入院しました。その結果、叔母の病気は食道がんだとわかったのですが、ガンが散らばっているために手術は無理なのでした。医者から自分の病気を知らされて、本人はさぞかし落胆しているかと思ったら、叔母は物凄く冷静に受け止めていました。まるで他人ごとのように納得して頷いていました。どうやら、薄々気が付いていたようで、もう自分なりに覚悟はできているのでした。

 普通の人間のようにメソメソやウジウジはなく、カラッと乾いて、サバサバしているのでした。思えば、叔母は「お金もあって、ひとりで自由にできて、80過ぎまで生きられて幸せ」と私に言ったことがありました。だから「もうやりたいことはすべてやってしまったから思い残すことはない」と言いながらも、それでも「できることならあと一回くらいは旅行に行きたい」と望んでいたのでした。そのためにはワクチン接種は必須事項です。だから、早くどうしても早くワクチンが打ちたいと切望していたのです。コロナでいくつかの趣味の集まりが中止になっていたのが、再開されて「嬉しい」と喜んでいました。楽しくやっているとばかり思っていた矢先にガン宣告を聞いてしまいました。

 以前、台湾への旅行を計画していた時に、叔母から「ごめん、行けなくなった」と突然電話がかかってきたことがありました。あと1週間で出発だというのに、親戚の80歳の女性が食道がんだと診断されて、入院してしまったからでした。その人がこの先どうなるかもわからない、もしかしたら自分が旅行中に亡くなってしまうしまうかもしれません。そうなったら、周りが自分のことを非難するのではと恐れたのです。ところが、高齢だから手術は無理だと言われた女性は名医のおかげで生き延びました。このままでは死を待つだけと誰もが諦めていたのに、幸運にも手術が可能になったのでした。叔母が命が危ないばかり思っていた人は、ぴんぴんして病院から帰宅しました。その時叔母は「人間というのは、そんなに簡単に死ねないものらしい」と悟ったのでした。人間はしぶとく、しつこいくらいに生きるということにしがみつく生き物なのでした。

 現在の叔母は、放射線治療をするために6月に入ってから2か月の予定で病院に入院しています。幸い経過は順調で元気に過ごしているようですが、食欲は戻らないままです。点滴で栄養を補っているのが現状のようです。そんな叔母に私は「退院したら、お盆に会おうね」とメッセージを送りました。そしたら、すぐに「楽しみにしてるね」とピースサイン付きの返事が返ってきました。

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カード詐欺にあった話

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 カード会社からメールが来て、慌てまくって

 昨日は久しぶりに冷や汗が出ました。午前中にパソコンのメールをチェツクしていたら、カード会社からのお知らせが届いていました。「何かなあ?」と不思議に思って読んでみると、「あなたのカードが不正使用された恐れがあります」と書いてありました。そして、「あなた自身が使われたのなら、このメールは無視してくださって構いません。でももしも身に覚えがないのなら、24時間以内に下記の電話番号に連絡してください。そうでないと決済されてしまいます」との警告文が付け加えられていました。正直言って、こんな文面を読んでいるのに、まだ何が起きているのかわかりませんでした。おめでたいというか、お気楽というか、我ながら笑ってしまいます。

 メールに載っている電話番号に電話して初めて、自分のカードが第三者に前日の夜から明け方にかけて勝手に使われたことを知りました。気軽に電話したのに、事実を知った途端、心臓がどきどきして「またやらかしてしまった!」と苦い思いで胸がいっぱいになりました。オロオロしながら担当者の話を聞くと、見知らぬ誰かは私が眠っている間に4回もカードで買い物をしたそうです。合計金額、なんと11万円です。思わず、「それって、私の行動に何か問題があるのでしょうか?」などと聞いてしまいました。担当者はそれには答えず、これから先のことは専門の者が話をしますのでと電話を切りました。それから数分後に別の担当者から折り返し電話が掛かってきて、今使っているカードは破棄して新しいカードを使うように言われました。第三者によって使われた金額は7月分の明細書には載ってしまうのですが、8月分で相殺されるので負担はないそうです。ただ、新しいカードが届くまでには1週間ほどかかり、利用しているサービスに登録しなおす必要があるので手間がかかります。

 ホッとした途端、2~3日前に届いたアマゾンからのメールに反応してしまったことを思いだしました。以前新聞で「アマゾンを装ったメールに注意」と警告した記事を見ていたので、何度かそれとわかるメールが来ても無視していたのです。ところが、今回は「お客様のクレジットカードの登録が無効になっています」とかなんとか、そういった内容のメールでした。普通だったら、そんなメールは気にせず無視なのですが、買い物をするとき面倒だなんて思ってしまったのです。めったにネットショッピングなんてしないのに、なぜか真面目に反応してしまって、表示されているサイトをクリックしてしまいました。すると、そこにはアマゾンの会員の登録をする画面があって、指示に従ってカードの登録までしてしまいました。最後にカードのIDとパスワードを入力する認証画面まで出てきて、おまけに生年月日などの個人的な質問までありました。まったく本物と見分けがつきませんでした。その時は騙されているなどとは知る由もありませんでした。

 考えてみれば、そんなにアマゾンを利用するわけでもないのになぜあんなにこだわってしまったのか。クレジットカードなんて無効になっていても全く問題ありません。支払い方法なんてその場で決めればいい事なのです。こだわる理由はアマゾンがあまりにも身近で便利だからです。サイトに登録しておけば、住所などの個人情報をいちいち入力しないで画面をクリックするだけで済むからです。第三者はその隙をついてくるのですが、今回の罠はあまりにも巧妙にしかけられていました。だから、アマゾンを装った支払いのカードに関するメールには要注意なのです。

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古本屋でベストセラーの衝撃

今週のお題「575」

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トットちゃん 師に導かれ 救われる

 先日久しぶりに町の古本屋に行きました。偶然通りかかって、店頭に並べてある本を見ていてたら、誰でも知っている昔ベストセラ―になった本を見つけました。私の中では、古本屋というのは誰かが自分にとってもういらなくなった本を持ってくるところでした。だからたいしていい本はあるはずがない、どうせ暇つぶしになるくらいの本しかないだろうくらいにしか、思っていませんでした。ところが、そこで、外山滋比古さんの『思考の整理学』と黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』を見つけて仰天しました。二つとも40年くらい前に出版されたもので、当時はベストセラーになった本です。何度読んでも飽きないと思うのに、手元に置かないで簡単に手放してしまう人もいることに驚きました。

 そう言えば、私も昔新刊本を本屋で買って、読んだらすぐに古本屋に売り飛ばしてしまったことがありました。でもそれはミステリーで真相がわかったら、そこで興味がなくなって「もういいや」となったからでした。それにあの頃は家の目と鼻の先に古本屋があったからでした。私が本を持って行くと、店のおじさんが「あとはもうないの?」とよく聞きました。つまり、新刊本がもっと欲しいとアピールしていたわけです。それでも、やっぱり自分にとってどうしても手放したくない本が私にだってあるのです。

 『思考の整理学』は薄い本ですが、中身は濃くて深いので、なかなかページが進みません。でも、冒頭のエッセイの「グライダー」には目から鱗でした。グライダーというのは風がなければ飛べないし、自力では飛べません。だから学校の生徒はグライダーで先生に引っ張られて、やっとのことで飛べているのです。つまり、学校というところはグライダー人間を養成しているようなもので、受け身の人間しかそこにはいないのです。まあ、学校というところは元来そういうところで、先生の言うことに逆らわなければ、無事に一日が過ぎていくのです。そんなところで、飛行機人間、つまり自分の意志を持ち、自分で考える人間が育つはずもないと著者は嘆いています。そして、学校も変わらなければならない、これからは飛行機人間でなければ生きていけない時代が来るはずだと予測しているのです。

 もう一冊の『窓際のトットちゃん』はもちろんタイトルは有名なので知っていましたが、読んだことはありませんでした。なぜかというと「内容がだいたい想像できるからつまらない」などと知ってるつもりになっていたからです。でも、実際読んでみると、想像を絶する内容で、椅子から転げ落ちるくらいの衝撃を受けました。問題児と一口に言っても程度というものがありますが、トットちゃんはスケールの大きな愛すべき困ったちゃんでした。授業中に普通の子のように大人しく座っていられなかったりするのはよくあることです。子供は不思議で面白いと思うものを見つけると無心にそれをやりたがります。トットちゃんは学校の机が引き出しではなくて、開け閉めできる仕掛けになっているのが面白くて、先生の苦情によるとそれを100回も繰り返すので甚だ迷惑なのだとか。また、それに飽きると窓際に行ってチンドン屋さんを呼び込んでしまう、そうなると他の子も釣られてしまい、授業にならなくなってしまうのです。

 最近は見かけることは無くなりましたが、まだ自動ドアが珍しかった頃に子供はよくドアの前を行ったり来たりして遊んでいました。大人が「危ないからやめなさい」と言っても言うことを聞きません。慌てて大人が止めに行ったら不幸にも挟まれて痛い目に合うのを目撃したこともありました。私が一番驚いたのは、トットちゃんの洋服はいつもビリビリだったと書かれていたことで、なぜ洋服が破れるのだろうと不思議でした。それはトットちゃんが普通の道を通らずに秘密の通路を通って学校に行くからでした。よその家の庭を通り、垣根を越えて、鉄条網をくぐって道なき道を進んで行くからでした。ちゃんとした道があるのにそこを通らないのは、きっと「ひどくつまらない」と子供心に思えたからなのです。

 そんな野生児のようなトットちゃんですが、心はライオンのように広くて大きいのです。小児まひで足が悪い友達がいじめられたと聞くと、居ても立っても居られず仕返しに行ってしまいます。あるいは「足が悪いから無理」と友達が断るのに、自分のお気に入りの場所である木の上に友達を連れてきてしまうのです。木の上からの眺めをどうしても見せたくて、普通ならやらないことでもやってしまいます。何よりも気持ちが勝って、考えるより先に行動してしまうのです。汗びっしょりになって二人で木の上に居たら、気持ちのいい風が吹いてきました。その時ふと「○○ちゃん(友達の名前)は今の気持ちを忘れないでいてくれるはず」と思ったら嬉しくなりました。

 担任の先生から「みんなの迷惑になりますから、他所へいらしてください」とトットちゃんは言われてしまいました。学校を追い出されたわけですが、ちゃんと受け入れてくれる学校が見つかりました。それはトモエ学園でそこで小林先生という校長先生に出会いました。面白いことに電車の車両が校舎になっていて、トットちゃんはこの学校がひと目で気に入り、やっと安心できる居場所ができたのでした。そこで、一句詠みます、トットちゃん 師に導かれ 救われる

 入学してみると、普通の学校とは違って時間割はありませんでした。何でも自分の好きな教科を勉強していいので、みんなそれぞれ自分のすることに熱中しています。算数の問題を解いている子の隣で、大きな声で歌を歌っている子もいます。でも誰も「うるさいからやめて!」とか「気が散るから静かにして!」などとは言いません。どんな環境の中でも自分のしたいことができる子になるようにとの校長先生の教育方針なのでした。

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思い出す友の告白

今週のお題「575」

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知らぬ間に 落としたお金 友のもの

 先日の新聞によると、今年は通常通り運動会を行う学校が多いそうです。その際、問題になるのがダンスなどの練習で子供たちが裸足になることです。「足の裏が痛くて、歩くのがつらい」と訴えたある生徒が皮膚科を受診すると、「低温やけど」と診断されたのです。これには仰天しました。以前犬の散歩を夏でも昼間する人に「ワンちゃんたちは何も言えなくて我慢しているのですよ」と注意を呼び掛ける記事を読んだことがありました。ふわふわいていて、衝撃から守ってくれるように見える、犬の肉球もやけどをするのだと知って目から鱗でした。人間の子ならなんだかんだと煩いことを言うので、わかりやすいのですが、動物は声をあげようとはしないので人間が気づいてあげることが大事なのです。

 子供たちがやけどをするのは校庭がコンクリートでできているせいなのかと思ったら、そうではなくて土でもたいして変わらないのだと知りました。ある建設会社の研究によると、気温が32度のとき、土の校庭の地表面の温度は52度にも達するとの信じられないような結果が出たそうです。熱中症に注意することは誰でも知っていますが、やけどにまでは考えが及びませんでした。思えば、都会に出てきて、何気なく覗いた小学校の校庭がコンクリートだったことに衝撃を受けました。田舎の小学校の校庭はもちろん土だったので、運動会の前日に雨が降ると校庭は田んぼのようにぐちゃぐちゃになりました。それで、全校生徒で協力して、水たまりに砂を蒔いたりして何とか無事に運動会ができたこともありました。その点から言うと、校庭がコンクリートだと何の心配も手間もいらなくて便利です。朝礼の時には皆で地面に落ちている石ころやごみを拾うのが習慣になっていました。

 当時通っていた田舎の小学校の近くに2つの文房具屋がありました。一つは正門の前にあって明治屋という名前でとても繁盛していました。もう一つは裏門にある弘文堂でこちらは子供の目から見ても普通でした。この店のおばさんはいつも着物姿で穏やかな人でした。あの頃の文房具屋は勉強のための物だけでなく子供が欲しがるものがたくさん売っていました。ぬり絵やら着せ替えやらゴム飛びのゴム等、それに香水の匂いのする消しゴムを集めるのが好きでした。家から歩いて30分ほどの学校に田畑を眺めながら、草木が生い茂る道を集団登校していました。私たちの通学路は裏門に通じていました。それで学校で使うノートや鉛筆、折り紙などは親からお金を貰って弘文堂で買っていました。自分の家の近くには店がないので、朝登校するついでに買うのです。朝出かけるときに母から「お金を落とさないように」と注意されて、スカートのポケットにちゃんと入れます。でも、いざ店に行って、お金を出そうとするとお金は消えていました。どうやら、歩いているうちにどこかで落としたようです。お金が無くなって家に泣いて帰ると、母は呆れた顔をしましたが、次の日にまたお金をくれました。当時はそんなことの繰り返しで、なぜあんなにもお金を落としてばかりいたのか、不思議で仕方がありません。

 ある日、同級生の男の子が私に向かってこう呟いたのです、「ずうっと前に道でお金を拾ったことがある。それはたぶんお前のものだとわかっていたけど、見つけたのは俺だから」つまり、彼はお金には名前が書いていないから、誰のものかはわかるはずがないと言いたいのです。だからそのお金は自分が貰う権利があると堂々と主張したのでした。落とす者がいれば拾う者がいるのは当たり前です。ポカーンとしている私に彼は「お前にひとことお礼を言っとかないと気持ち悪いから」と「あの時はありがとな」と感謝するのでした。どうやら落としたお金は彼の役に立ったようですが、そんなこと今更言わなくてもいいのにと正直思ったのでした。ここで、一句詠みます、知らぬ間に 落としたお金 友のもの

 

 

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気になるピーマン

今週のお題「575」

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 つやつやの ピーマン眺め 買い物に

 家の近くに小学校があって、偶然覗いてみたら、校門の脇に植木鉢が一斉に並べられていました。よく見てみると、それはミニトマトとピーマンでした。二つの数は半々でどちらかに人気が偏ると言うこともないようでした。でもどう見ても、ミニトマトの方は背も小さくて弱弱しいのです。青くて小さな実が2,3個ついている鉢もあるのですが、最近では葉っぱが少し黄色になってきている鉢もあります。もしかしたら、このまま行ったら枯れてしまうのかもなどと余計な心配をしてしまいます。そんな元気のないミニトマトと比べて、勢いがあるのがピーマンの鉢です。どの鉢も立派なピーマンが1~2個は生っていて、スーパーで見かけるくらいの大きさです。中にはすでに大きくなりすぎているのもあって、私などは「早くちぎって食べなきゃ、このまま放っておいたら腐ってしまう!」とおせっかいを焼きたくなってしまいます。そして、自分で育てたピーマンをどうやって食べたら一番美味しいだろうかと、勝手に想像して、妄想にふけったりします。やはり、ピーマンの肉詰めがいいだろうか、いやいやシンプルにナスと炒めて味噌で味付けした方が美味しいはず、などと切りがありません。そこで、一句詠みます、つやつやの ピーマン眺め 買い物に

 考えてみると、「早く取って食べたほうがいい」などど決めつけるのは大人の判断でした。子供が大切に育てているピーマンをそんなに簡単にちぎるはずがないのです。ほんの豆粒ほどの緑の塊を見つけたときはワクワクし、次第に大きくなるのを見守ってきたのです。だから、スーパーで売られているものと比べると、だいぶ背が伸びてしまっても構わないのです。こうなったら、どこまで伸びるか楽しみにしているのかもしれません。このまま放っておいたら、精一杯大きくなるのは間違いありませんが、いつかは必ず色が変わって腐ってしまう、それがわかっていても見守りたいのです。私が子供の頃は朝顔が定番で、じょうろで水やりをしていました、でも今は植木鉢の下に受け皿が付いていて、ペットボトルが置けるようになっていて給水してくれるのです。

 今朝雷が鳴り、雨がザアザア降りしきる中、見つけたのは青い実がたわわに生っているミニトマトの木でした。それは道の曲がり角にあるお宅の軒先に置いてありました。以前道行く人が珍しそうに見ていたのは植木鉢ではなく、ビニールに土を詰めた中に何かわからない植木が入っているものでした。彼らが「そんな簡単でいいんですね」とそのお宅の人と話をしているのを見かけたのです。どうやらわざわざプランターを買わなくてもガーデニングはできるだとわかって目から鱗だったのかもしれません。でも私にはその木が何の木なのかまでは特に興味が湧かなくて忘れていたのですが、今日やっとそれがミニトマトの木だということに気づいたのです。学校のミニトマトの木が可哀そうなくらいなのに、こちらの木には勢いがあり生命力を感じました。たくさんの青い実のなかに色づいている物も何個かあるので、もうすぐ食べごろになるはずです。

 実は何年か前はこのお宅には老婦人がいて、クリーニングの取次店をしていたのです。声が大きく、元気でいつも笑顔を絶やさない人でした。店に来るお客さんは常連さんが多いので、当然おしゃべりに花が咲きます。その人は自分の家の空いている場所を使って商売をし、自分のペースで働いていました。私は理想的な働く高齢者だと思っていて、それがずうっと続くものと錯覚していたのです。ある日突然店の前に「本日休業」の紙が貼られました。それ以来その人の姿を見ることはありませんでした。その人の身に何かあったのには間違いありませんが、あまりにも突然の出来事に呆然としてしまいました。今でもクリーニングの店はそのままになっていて、当時の光景を思い出します。

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リアル書店の明日

今週のお題「575」

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忘れてた 本屋は本を 買うところ

 先日の朝日新聞の「声」欄の投書を読んで、大手の某出版社が自社の文庫本をすべてビニール掛けすることにしたと知りました。 投書の主はその決断に非常に残念だと嘆き、と同時に「これではネット書店とたいして変わりない」ではないかと憤慨しているのです。つまり、本屋に行くという一つの楽しみを奪われてしまったと言いたいのです。本好きにとって、いいえ、たいして好きでもない人にとっても、本屋は楽しい所で時間を潰せるところです。普通、「本屋に行く」というと、本を買いに行くのはなくて、立ち読みをしに行くという意味です。少なくとも、私にとってはそうなのですが、たまに気が向くと2~3冊買ってしまいます。好き勝手に店の本を手に取って、ペラペラと触りまくっても何も言われない、なんと自由なところなのでしょう。本を読んでいて、つい熱中するとあっという間に時間が経ってしまいます。そうなると、店員さんが棚を整理整頓する振りをして近づいてきて、「いい加減にしてください」と言う態度で私の暴走を止めてくれます。もっと続きを読みたいのですが、きっぱり諦めてその場を去るか、あるいは本を買うかの選択を迫られます。そんなときは大抵は後ろめたさもあって、いつだって、さっとその場から逃げ出してしまうのでした。

 投書の主の方は「ビニールで本に封をしたら、内容がわからない」ので本が選べないので困ってしまうと言いたいのです。本屋は本を買うだけでなく、あれやこれやと手に取って内容を確認して、自分の好みの本を選べる場所であったはずです。それなのに、本のタイトルだけで、本の内容を想像するだけで選ばなければならないのです。自分の判断が当たりなのか、あるいは、はずれなのかは後は家に帰ってからのお楽しみ?です。すべて自己責任なので、財布の中身とも相談しなければなりません。でも一番痛いのは「この本を買うんじゃなかった!」と後悔してしまうことです。いずれにしても、本を自由に選ぶこともできなくなった不自由な世の中、というか、これで本屋の存在する意味があるのか、といったことを考えさせられます。

 私はというと、どちらかというと立ち読み派で投書を読んで真面目な方だなあと感心してしまいました。そこで、一句詠みます、忘れてた 本屋は本を 買うところ

 以前通っていた大型書店が閉店してしまったのは、絶対自分のせいだと疑わないほどに、立ち読み魔だった私にも本は買って読むものと思っていた時期がありました。毎月2万円ほど地元の書店に注文していました。本を選ぶ際には新聞の広告だけが頼りでした。タイトルや宣伝文句から自分勝手に想像して、本の内容をああだこうだと決めつけていました。ところが、実際に実物を読んでみると自分の思っていた内容とは天と地ほどかけ離れていたのです。ひとりよがりで浅はかで思慮が足りないと言えば、それまでですが、明らかに失敗ばかりでした。それ以来、タイトルや宣伝文句に釣られて本を買うことは無くなりました。本を買う際には、必ず中身を確かめるようになりました。

 それがきっかけで自然と立ち読みをするようになりました。千円以内で買える新書などはページの字数がたいしてないので、その場で読めてしまいます。長編の小説などは無理なので、どうしても続きが気になるのなら迷うことなく買っていました。たまに、書店で読んだのに、どうしても自分の手元に置いておきたい本に巡り合うことがあります。何度読んでも飽きなくて、読むたびに発見がある、そんな本に出会えたことは幸福というしかありません。ところが、休みの日は本の森を彷徨って過ごしていた私の生活にも変化が起こりました。コロナウイルスによる感染症が流行して、街中をふらふらしているわけにもいかなくなったのです。そうなると、読む本を選ぶのにもそれなりの工夫が必要になります。それで、新聞の書評や『目利きが選ぶ一冊』と言ったコラムを熱心に読むことになります。特に★の数で評価されているとわかりやすくて助かります。でも注意しなければならないのは選者の人の嗜好が自分と同じがどうかということです。それでも、新聞2紙で高い評価の本はたいてい買って正解で、満足のいくものでした。やはり、どう考えてもリアル書店は必要で、ネット書店しかない世界はまるでSF小説のようで現実味が感じられません。

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町で遭遇した気になる風景

今週のお題「575」

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マスク越し 井戸端会議 花盛り

 最近、いいえ、もうずうっと前から気になっていることがあるのです。それはいつも買い物に行くときに通る公園でのことです。小さな公園なのですが、他のところにはない滑り台があって子供たちに人気がありました。それでもコロナが流行ってからはめったに子供は遊んでいませんでした。ところが今年に入ってから公園が親子連れで賑わうようになったのです。よく見ると、子供たちは近くにある幼稚園の制服を着ていて、その傍らで母親たちは立ち話をしています。どうやら幼稚園に子供を迎えに行った帰りに子供を公園で遊ばせているのでした。普通なら子供は誰かと遊ぶ約束をして、それぞれの家に行くはずです。家に帰らずに公園に立ち寄るなんてことは考えもしないはずです。おそらく今は誰かの家で遊ぶことはできないので、屋外なら大丈夫という考えから公園で遊ばせているのです。

 でも第三者から見れば、密になっていることは間違いありません。特に気になるのは子供よりも母親たちの行動です。現実を忘れたかのようにくっついて喋りあう、マスク越しなら喋っても大丈夫と錯覚しているみたいです。マスクは絶対でも最強でもないのに。さらに、公園の桜が咲き誇る季節には、シートを敷いて堂々と花見をしていました。「あれ~?町会の花見は中止のはずだけど」と道行く誰もが思ったはずです。だんだんと母親たちの行動がエスカレートしていきました。そこで、一句、詠みます。マスク越し 井戸端会議 花盛り

 コロナ禍にあっては、もはや「井戸端会議」という言葉は死語になりつつあると思っていました。でも現実はさすがに母は強しでちゃんと存在していたのです。それともう一つ絶滅の危機にあるのが、「立ち話」という言葉です。先日久しぶりに他人の立ち話を盗み聞きしてしまいました。その日私はスーパーでレジの順番を待っていました。そしたら、私のすぐ後ろにいる人のところにひとりの中年の女性が近づいてきたのです。その人は「今でもあそこに行ってる?」と話しかけました。どうやら何か趣味の集まりのとを言っているのです。相手が「コロナだからもう行っていない」と答えると、「そうだよね。それが普通だよね」と納得したようでした。でもその後すぐに、「あの人は今でもやってるよね、本当はダメなのにね」と不平不満を口にしたのです。つまり、自分たちはやりたくても我慢しているのに、そんなことを気にせずに自由にしている人が許せなくもあり、また少しは羨ましい気持ちもあるのです。その人は「ずるいよね」とため息をついてその場を立ち去りました。久しぶりに人の本音を聞いた気がしました。近頃ではスーパーのアナウンスで、人との距離に気を付けるのはもちろん、お客様同士の会話はご遠慮くださいと親切に教えてくれます。だから会話をする人は皆無です。他人がいったい何を考えているのかわかりづらいのです。玉ねぎやじゃがいもが高くなっても、「どうしてこんなに高いの?」と愚痴る人さえいなくなったのですから。

 私の住んでいる地域には私立の中学・高校があるのですが、コロナ前は下校時間になると校門前は学生の人だかりができていました。どうしてすぐに家に帰らないのか知る由もないのですが、彼らは友達同士でおしゃべりに花を咲かせていました。隣がディスカウントショップなので、コンビニよりも飲み物や食べ物が安く手に入ります。だからか、皆買い食いをして放課後を楽しんでいるのでした。でも、コロナ禍になってもたいして彼らに変化はないのです。ただ、隣の店が閉店して、フィットネスクラブに変わりました。それで、ペットボトルの飲み物を飲んだり、アイスを食べる学生は居なくなりました。ですが、友だちとのコミュニケーションは依然として続いていて、校門の前はたまり場になっています。

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