最初はただの雑草、今では立派なひまわり
私の今の最大の関心事、と言ったら言いすぎかもしれないが、それは冒頭の写真のこのひまわりの群生である。毎朝散歩で通る道なりに市営住宅があって、そこの坂道にある岩で作られた壁のようなところに、ひまわりが咲いている。最初はただの雑草かと思い、ハルジョオンやヒメジョオンのような圧倒的な逞しさに驚いていた。他の草に比べると、凛とした風情で、いったいこれは何なのだろうと不思議でならなかった。散歩で通る度に、すくすく成長し、最初はふにゃふにゃした細い茎も、だんだんと太くなり、どう見ても草というよりは植木としか言えなくなった。
以前書いたかもしれないが、この場所は春につくしの群生を見つけたところで、あれっきり忘れていたが、今またヒマワリが出現したことで、再び注目の的になった。今では写真のように、背の高さが2メートルにもなり、つっかいぼうが無くても倒れる心配がないくらいどっしりとした木になった。この得体のしれない生命力を放っている植物がどうしてひまわりだと分かったのかというと、ある朝、偶然に黄色いひまわりの花が咲いているのを発見したからだ。ああ、そうかこの木はひまわりだったんだとわかって、仰天した。まさか、まさかの出来事で、どうしてこんな場所にヒマワリが咲くのか、全く理解できない。だいたいが、ひまわりは種を蒔かないことには発芽しないものなのに、どうして何もないところに出現したのかが謎である。
果たして、何処からかひまわりの種が飛んできて、着地し、発芽したのだろうか。それともまさか誰かが、ヒマワリの種をわざと蒔いたのだろうか。そんなことをあれこれと考えるが、元々はこの場所はつくしが生えるくらいだから、日当たりが悪い。それを良いことに、ひまわりは昨今の強烈な夏の日差しをまともに受けて枯れることもなく、すくすくと成長している。よく見ると、次から次へとひまわりはつぼみを付けて、今にも花を咲かせようという勢いだ。人間で言えば、八頭身とも言えるモデル体型のひまわりは頭が小さくて、立ち姿が美しい。でもひとつだけ注文を付けるとしたら、ヒマワリの花はもっと大きいのが私の好みである。ただの雑草でやたら堂々としていると、やっかんでいたら、実はひまわりとわかった途端、態度を変えるくらいだから私は節操と言うものがない。ただ、正直に言えば、今の私はこの立派なひまわりたちの生命力と言うか、たくましさにある意味大いに救われている。
なぜかと言うと、できることならひまわりから元気を貰いたいくらい、今の私は異常な暑さで心も身体も疲弊し、ヘロヘロでヨレヨレの状態だからだ。私が今一番しなければならないことは、10月初めに行く旅行のための準備なのだが、どうしても身体に力が入らない。えいやっ!と自分に号令をかけて、エアコンの効いた部屋で旅行のシュミレーションをしようと試みるが、心ここにあらずだ。何ということなのだろう、いつものあのワクワク感が微塵もないとは、いったい私はどうしちゃったのだろうと呆然とする。どうやら旅行の計画を立てた頃の自分と、暑さに喘いでいる今の自分とは全く別の人間なのかもしれないと馬鹿なことを考える。いっそもうやめちゃおうかなどという、とんでもない考えが頭をよぎるが、そんなことをすれば、後悔することは必至なので、そんな大それたことは出来そうもない。となると、このまま一気に突き進むしかないのが私に課せられたミッションなのかもしれない。
人生、なるようにしかならないとは先人の言葉だが、抗ってみたところでどうなるかは決まっているらしい。それなら運命の赴くままに突き進むしか術がない。幸運なことに、嫌々ながら始めて、休み休みながらも旅行ノートを作る段階にまで作業を進めることができた。最初は目の前が靄に包まれていたが、今では視界が開けてきたことでささやかな希望が生まれた。
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