人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

つくしの異変

どうして今頃、生えてくるの?

 昨日いつものように散歩をしていて、面食らった。なぜなら、ありえない場所につくしが生えているのを見つけたからだ。それは去年ゾロゾロとつくしが群生していた場所で、坂道に面して建っている市営住宅の敷地にある石垣のようなところだった。3月に入ってから、もうそろそろと楽しみにしていたが、何も生えてはいなかった。それもそのはず、冬が来る前にすべての雑草を草刈り機で根こそぎ取り去ったからだ。普通なら雑草が繁茂し、これでもかと伸び放題になっているはずだが、草刈り機の威力には抗いきれないらしい。つくしどころが、雑草一本だって生えてはしない有様だった。うまい具合に土の中に雑草の種子でも隠れてはいないだろうか、あるいはわずかなつくしの生命の一滴でも残ってはしないかと淡い希望を抱いてみたが、無理な注文だった。

 去年つくしが生えていたその場所を見上げると桜が綺麗に咲いている。桜の木は太陽の光を全身で浴びているが、つくしの居場所は日当たりが悪い。まあ、つくしはそんな日陰の場所に生えているものだが、桜とつくしのコンビネーションが信じられなくて、新鮮な驚きを私に与えてくれた。もちろん、坂道を急ぎ足で通り過ぎる人は私などには目もくれない。いったい何をしているのですか、何か探しものですか、などと声をかけてくれる人などいやしない。皆自分のことで忙しく、他人のささやかな言動を気にかける暇などないようだ。いや、別にそんなことはどうでもいい。それに、私が、「ちょっと見てください。こんな時期なのにつくしがどんどん生えてきているんですよ」と自然の生命の不思議を強調したところで、「それがどうしたのですか?」と呆れられるにきまっているだろうから。

 それを良いことに、私は朝っぱらから、「凄い、凄いねえ」とひとりごとを言いながら悦に入っている。たまに人が通り過ぎても、気にしなくていいので気が楽だ。桜が満開の季節につくしと出会えたことに、今年は無理かと諦めかけた矢先につくしを発見できたことにとても満足している。たかが、つくし、でも季節外れのこの時期に出会えたからこそ、余計に気になってしまう。それどころかつくしは今が成長期らしく、地面からニョキニョキと顔をいや、頭を出してぐんぐん伸びているところなのだ。ふと周りを見ると、スギナもちらほら姿を見せて、少ないながらも他の雑草も生え始めてきている。もしかしたら、この日当たりが悪い石垣は今がちょうど春の目覚めを経験しているところなのかもしれない。

 最近の目まぐるしく変わる天候を考えると、植物が勘違いしてもおかしくはない。近所の桜は今が満開だが、もうすでにツツジも開花している。あれ、桜の次がツツジではないのかと私などは二つの花の同時進行の開花に戸惑っている。そうなると、次に咲くのはアジサイかと気の早いことを言いたくなる。今気になっているのはハナカイドウの花で、ピンクの小さな可憐な花が美しい。そう言えば、岸本葉子さんが日経に連載しているコラムの中で、自宅マンションの猫の額のような庭にハナカイドウを植えたと書いていた。岸本さんの部屋は一階だが、家にいても桜が見たいと思った。自宅の窓から何か心が華やぐようなピンクの花が見たいと知り合いの庭師さんに相談したら、桜は無理だが、ハナカイドウならと勧められた。岸本さんの狭い庭では桜は根っこが広がりすぎて向かないようだ。最初は残念に思った岸本さんだが、今ではハナカイドウにとても満足しているそうだ。

 花見に行かなくても、いつでも桜が見られるのは限られた人だけに与えられた特権だと言っても過言ではない。岸本さんのコラムを読んで、これもひとつの贅沢かもしれないと実感した。思えば、コロナ禍のおかげで、それまでないがしろにしていた自然との交流が始まった。そんなことに構っていられなかった、お金や時間のコスパにばかり気を取られていた自分を省みる時間を与えられたのだ。

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