人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

美味しいものが何もない旅

体調不良だから、耐えられたのか?

 旅行から帰ってから、ずうっと旅行中にあったことをロードムービーのように綴ってきた。牛が食べ物を反芻するがごとく、この1カ月程は旅行を追体験していた。頭の中はずうっと旅行中で、いやはや、なかなか楽しかった。当事者としてではなく、客観的に見ると、なんとも情けないことをやっている、時間の無駄、労力の浪費、お金の無駄遣いと三大悪のオンパレードだ。無駄にあくせくし、やたらと悩み、行き当たりばったりの行動が多すぎる。もっとスマートに、無理なく行動できないものか、と振り返ってみるが、いいアイデアが浮かばない。いつだって冷や汗の連続で、しかもこれ幸いと出会った人に頼りきる、変なしたたかさを身につけてしまった。自分ではにっちもさっちもいかない、どうしようもないので、もはや人の情けにすがるしかないのである。今回は本当に運を天に任せて、時間稼ぎをしたら、それが予想外に上手く行った、というのが本当のところだ。世界中、どこに行っても、救世主はいるのだと実感する。

 自分でもおかしなことに、旅行中はやたらと楽天的で、ある意味粘り強い。普段の生活では小心者で、やたらと気にするのに、そんな弱い自分は影を潜め、やたらと希望に満ちた別人になる。ちょっとした勘違いも、そんなの気にせず、サラッと流して、平常心に戻れてしまう。となると、これからどうしよう、などという心許ない弱い自分では一人で旅行なんてできないと言うことか。だが、ある意味、ひとりは気楽で、青い空のごとく、気分がスッキリして気持がいい。なにしろ、他人に気を遣う手間が省けるのだから。この先が天国だろうが、地獄だろうが、自分ひとりで味わえばいいのだから。こんなことになって申しわけないとか、めんどくさい説明など一切いらないのだから。

 今回の旅行で、一番打撃だったのは、”おいしいもの”が何もなかったことだ。ここで私が言う美味しいものとは、値段があまり高くなくて、躊躇なく誰でも食べられるもののことだ。もちろん、パリやロンドンで美味しいものを食べようだなんて、ハナから期待などしてはいない。どちらの都市も見て楽しむ場所であって、私のような庶民が食を楽しむ場所ではない。ホテル代も高く、うかうかしてなどいられない、緊張感を強いられる場所である。それでも、ルーブルやオルセー、ブーランジェリーなどの美術館に足を踏み入れると、暫し時間を忘れ、自分が今どこにいるのかさえもわからなくなる。すべての憂いを綺麗さっぱり忘れて、無の状態になれる。至福のひとときだ。

 自分に与えられた時間をフルに活用し、パリやロンドンを楽しんだ後、それからは食のお楽しみのはずだった。パリから入って、スペインから帰る、それが私の旅のお決まりのコースだった。スペインに行けば、美味しいものが食べられて、少しゆっくりできる。いつものように今回もそう考えたが、そうは問屋は降ろさなかった。大好きなタパスは、あるにはあっても、以前とは全く別物で、「こんなんじゃない、私が求めているものは違う」と内心憤った。値段も馬鹿高く、質も悪ければ、味もなっていない。「スペインは美味しい」と以前ブログに書いたことがあるが、もはやこれまでだ。ここで今は違うのだと訂正しなければならない。かの有名なサンセバスティアンにも、安くておいしいタパスはもはや存在しないことが寂しくて、悲しい限りだ。そんな訳で、私はサンセバスティアンに行く目的を見失い、これからどうしようと頭を抱えてしまった。

 旅には美味しいものが必須で、美味しいものが何もない旅なんて、行く気がしない、とつくづく思う。だが、今回は蓋を開けてみたら、そうなってしまったが、実際のところは行ったら行ったで意外にも面白かった。それはたぶん私が体調不良で、いつもの半分も食べられず、それなのにトラブル続きで、退屈のカケラも感じる余裕がなかったせいかもしれない。考えてみると、旅行中、現地で私が食べたものと言えば、値段は最高だが、味はイマイチのパンと、見た目はおしゃれだがたいして美味しくもないサラダ、この二つぐらいのものだろう。ではいったいどうやって生き延びたのか。その答えは日本から持って行ったお米を炊飯器で炊いて食べていたから、何とかなったのである。それにしても、ふと思ったのだが、現地の人はいったい家でどんなものを食べているのだろうか。飲食店を覗いてみると、メニューに汁物と言うか、スープがないことに気がついた。11月とは言え、外は肌寒いのに、身体を温める食べ物が、まさかコーヒーぐらいしかないのだろうか。今まで考えてみたこともない素朴な疑問が頭を掠めて通りすぎた。

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