人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

スーパーで久々に総菜を買ったら

まさか、ではなく、やはり失敗した

 昨日の夕方、近所にあるスーパーに立ち寄った。すると、店に入ってすぐのところに本日の特売の総菜のパックが置いてあった。いつもなら、一応見るには見るが、一瞥して終わりのはずが、昨日は違った。数種類並べられている総菜のパックの中に、中華春巻きを発見し、まさかとは思ったが、食指をくすぐられてしまった。そうなると、「これでも、買ってみるか」となり、よせばいいのに、ほんとにそんな気まぐれを起こしたら、ロクなことがないのを重々承知で、総菜を手に取り、かごの中に入れた。春巻きがきつね色にこんがりと美味しそうに揚げられているその姿が、何とも魅力的に思えた。一口パクついたら、サクッ、パリっと、いい音を立て、口の中はたちまち春巻きの餡のトロッとした感触でいっぱいになるだろう。と、自分勝手に想像し、夢を見ていた。

 家に帰って、その時を待ちきれず、どれどれと、とるものもとりあえずパクついた。だが、はて、春巻きって、こんなに皮が厚かったっけ?というのが正直な感想だった。それに、春巻きの餡ってこんなに少なかったっけ?という疑問が沸き起こって止まなかった。そう、昨日私が買ってしまった春巻きはほとんど皮だけと言っていいくらいの代物だった。餡が少なめの皮だけの春巻きだから、とても最後までは食べられない。最初は欲望に駆られて、食べる気満々だったが、そのうち飽きてきたのも無理はない。それとも4つで、298円は妥当な値段と言えるのだろうか。

 別のスーパーでは、以前は春巻き1個は80円で買えたが、今では100円になった。もちろん、その春巻きはちゃんとした餡が入っているが、あまり美味しいと思えないので買わない。私だけでなく、皆買わないので、売れ残ると20%ぐらいの値引きされることになる。ただ、私の経験上言えることは、値引きされるまで売れ残っているものにはロクなものがないということだ。ごく少ない確率でアタリもあるが、たいていはハズレである。

 元はと言えば、昨日春巻を買ったスーパーは見るからに客が減っていて、並べてある総菜はどれも「なんだかなあ」という代物だった。だが、総菜はその店で手作りしているものではないのだから、総菜の質の責任を追及しても始まらないのだが。要するに、冷凍やらチルドやらで納入された惣菜を従業員が調理し、パックに詰めているだけなのだから。その点において、もはや、そう思うのは私だけなのかも知れないが、スーパーの総菜は今の段階において、全くなっていなくて、買うべきものではない気がする。

 今更昔のことを持ち出してもどうしようもないが、スーパーの総菜は今よりはずうっとマシで美味しいまでとはいかないが、十分食べられた。正直言って、私はそう思っている。例えば、魚のフライにしても、以前はまともに食べられた。だが、現在は「なんじゃこりゃ」と言いたいくらいの、魚だか何だかわからないくらいの怪しいものが中に入っている。べちゃべちゃした感じで、すこし苦みもある魚の切り身を食べていたら、気持ちが悪くなった。

 そんな質の悪い魚の切り身はいったいどこから来るのだろうか。それに関しては以前、新聞の記事で読んだことがある。日本から遠く離れたアフリカ沖で操業している漁船の船底には多くの奴隷の人たちが閉じ込められて労働させられている。彼らは一体何をしているかというと、安価な魚の切り身の製造を夜も寝ないで続けているというのだ。なるほど、彼らの犠牲の上に安価な魚の切り身は存在していたのだ。そんな想像すらできない過酷な実態を知ってしまうと、手放しで「安いことはいいことだ」と喜べない。なんとも複雑な思いがするが、それを知ったからと言って一体全体どうすればいいのか見当もつかない。何もできない、無力なのだ。

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