人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

さんまがジュージュー

今週のお題「秋の歌」

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▲スペインのタラゴナ近郊にあるシウラナの断崖絶壁。NHKまいにちスペイン語テキストから。

秋の定番のはずなのに、最近はなぜかご無沙汰

 秋も終盤に差し掛かった感がする今日この頃ですが、ふと何か物足りない気がしました。そう思った場所はスーパーの中で、そういえば、今年は一度もさんまを食べていないのでした。さんまと言ったら、普通は秋の代名詞で定番とも言える食べ物ではありませんか。それなのに、毎日買い物に行くスーパーでも、さんまは全然目立たないのです。もしかして、と思って鮮魚売り場に覗きに行ったら、ちゃんと2尾と1尾のパック詰めの物がひっそりとありました。秋の主役なのにまるで脇役のようで、肩身の狭い思いをしているようです。値段が高いからなのかとラベルを見てみたら、1尾、198円でした。まあ、安くもなく、高くもない、ちょうどいい値段ではありませんか。それなのになぜなのか。このままではサンマはひよっとしたら忘れ去られてしまうのではないか。そんな心配をしている私なのに、パックを手に取って買おうと言う気にはならないのです。

 思えば、コロナが流行る前は秋になるとサンマはスーパーの目立つ場所に置かれていました。大きな発砲スチロールの箱に山と積まれているサンマはまだ氷の中に入っていました。1尾が100円などというお買い得の時は誰もがトングでサンマをビニール袋に入れていました。人が買っている姿を見ると、それに釣られて自分も買おうと思ってしまうのですから、人の心は不思議です。きっと晩御飯のおかずを何にしようかと迷っていて、皆が買うからとりあえず、さんまでいいかとなるのです。秋だからサンマ、旬だからさんまを食べなきゃとなるのです。

 私の場合、さんまは塩焼きにするのが一番で、あのジュージュー言っている、黄金色に焼き上がった姿を見ると惚れ惚れします。何と言っても皮がカリカリで、口に入れた触感が堪らなく美味しいのです。白くとろけるような身に至っては、脂が乗っていてささやかな幸せを感じてしまうのです。アツアツで、安くて美味しい、その点においてはさんまは庶民の味方でした。一時、さんまが不漁で1尾300円もするような時もありましたが、ちゃんと元通りの値段に落ち着いているようです。ただ、さんまに関して残念なことが一つあります。それはものによっては、美味しく感じられない場合があることです。外見は同じなのに、食べて見ると全く違うのです。例えば、身が硬くてぼそぼそしていたり、なんだか脂が気持ち悪く感じてしまったりすると、途中で食べるのをやめてしまうのです。

 そんな時は自分に透視能力でもあったらいいのになどと、ありえないことを本気で思ってしまいます。さんまは太っていて脂が乗っているものに限るのですが、なかなか外見だけでは判断できないのです。以前人から高そうな梨を頂いて、ラッキーと喜んで食べようとしました。でも予想外にそれが二つとも腐っていた時は仰天しました。ぬか喜びとはまさにこのことです。要するに、こう考えればいいのです、その日に買って来たさんまが美味しかったらそれは幸運以外の何物でもないのだと。

 田舎に住んでいた子供の頃、秋になるとさんまをよく食べました。でも時々さんまが忽然と消えることもありました。その頃の家は土間とかがあって、猫がどこからでも入ってこられるのでした。そのネコはいわゆる泥棒猫で、すばしっこくて獲物をあっという間にさらっていきました。漫画のサザエさんの歌のように「お魚食くわえたドラ猫を追っかけて」いたのです。「コラッ!」と睨みつけ怖い声で脅すのですが、あちらも生きるのに必死です。だからその頃近所をうろついていたのは、ただの野良猫ではなくて、泥棒猫なのでした。人を見るとすぐ逃げるのは当然でした。当時は家の庭に鶏小屋があって、兄が鳩を飼っていてとても大事にしていました。猫たちは彼らの本能なのか家のニワトリや鳩をたびたび襲うことがありました。兄が犬は好きなのに猫が大嫌いなのはその時のトラウマがあるからなのでしょうか。飼い猫と泥棒猫とは全く違う生き物で、よく考えてみればわかることなのですが。

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