人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

祝日に出勤で予想外の出会いが

今週のお題「祝日なのに……」

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祝日なのになぜか会社に憧れの人がいて

 祝日なのに出勤して、ほとんど諦め半分で仕事をしていたのに、思わぬ幸運に巡り合った経験があります。あれは上司と同僚の3人で午前中仕事をして、昼休みになったので上司がお昼をご馳走してくれると言ってくれました。でも私は出勤途中にパン屋によってパンを買って来たのでその申し出を断ったのです。あの頃会社には休憩室にテラスがあって、その場所から街を眺めるのが好きでした。少し歩けば緑あふれる公園だってあるのですが、そんなことをしていたらあっという間に貴重な昼休みが終わってしまうのです。いつもなら仲のいい同僚とおしゃべりをして楽しい時間を過ごすはずなのですが、たまには一人でぼんやりするのも悪くないなあと思いました。テラスのベンチから見下ろす街は人影もまばらでひっそりしている。いつもの賑わいが噓のように静まりかえっていて、自分の知らない一面を発見した気がして新鮮だったのです。

 一人でベンチに座ってパンを食べながら、ぼんやりしていたら、誰かの声が聞こえたのです。「あれ~?祝日なのにどうしたの?」その声の持ち主は国際部のやり手の営業マンの矢田さんでした。背が高くカッコよくて、物腰も穏やかで女子社員の憧れの人でした。彼は相手に気を使わせない人なので、自分から誰にでも話しかけてくれます。だから、気まずい雰囲気になることはないので、一緒に居るととても楽しい人でした。そして、その態度は女性に対しても変わることはなく、躊躇せずに食事に誘うのです。いわゆる、プレイボーイと言ってもいいかもしれません。私の同期の磯貝さんは新入社員の時にすぐに矢田さんにドライブに誘われました。トヨタカローラで通勤していた彼は会社の帰りに3人で食事に行こうと私に言ってくれたことがありました。もちろん、私は気を使って断りました。

 磯貝さんは同期の中で断トツの美人で、そのことは誰もが思っていたのです。でも女性と言うのは嫉妬深くて残酷です。新人の泊りがけの研修の時に聞いてしまったのです、同期の何人かが磯貝さんの悪口を言っているのを。あの時私がトイレに入っていたら、何やら話し声が聞こえて、「ねえ、見た?磯貝さんのすっぴんの顔!朝の洗顔の時見ちゃたわよ、あの人まるで別人よねえ」。この発言にはさすがに衝撃を受けてしまいましたが、その真偽は私にはどうでもいいことでした。なぜなら、彼女は私の知る限りとても優しくて親切な人でしたから。それに短大の学費は全部自分で稼いだと言うほど頑張り屋だったからです。

 突然現れた矢田さんに驚いていた私に、彼は「僕は休みの日でも会社で仕事をすることがある」のだと説明してくれました。それから昼休みが終わるまで私たちは話をして盛り上がったのです。あの時何を話したのか、内容はもうよく覚えていないのですが、私が買って来たパン屋の袋を見つけた矢田さんが実は自分もこのパン屋のドーナツが気に入っているとか、そんなどうでもいい話題からいつの間にか楽しい時間が始まったらいのです。コミュニケーション能力抜群の彼だったからこそ、気まずい沈黙を免れたのだと今だからこそ思えるのです。普通の人なら、「休みの日は何をしてるの?」などという下世話な質問をしてしまいそうです。これじゃあまるで身辺調査みたいで、答えるる方は軽く受け流したくなるのも無理はありません。あまりにもストレート過ぎるため、短くて適当な言葉を返されてしまったら、到底話の糸口は見つかるわけもありません。その結果、何を話していいのやらしどろもどろになり、何かの理由をつけて早々と退散するしかないのです。

 祝日なのに出勤と聞くと、そりゃついてないとか、仕方がないねなどと友達や家族から慰めの言葉をかけられしまいます。でも不幸中の幸いとも言える経験をすることだってあるのです。今まですっかり忘れていたのですが、記憶の底から引っ張り出してきました。それが私にとっては憧れの人とのひとときの思い出なのです。

mikonacolon

祝日なのに出勤したら

今週のお題「祝日なのに……」

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 諦め半分で出勤したら電車が意外に

 世の中の人のほとんどが休みなのに働かなくてはいけない、そんな状況になったらどうしたらいいのか。何で私だけが?と嘆いてみても始まらないので、そこは覚悟を決めるしかないのです。まだ若い頃、祝日なのに出勤をしなければならなくなったことがあります。それは期限までにやるべき仕事が思いのほか進まず、どう見ても終わりそうになかったからです。だから翌日は祝日なのに会社で働くことになりました。納得がいかず、暗い気持ちで家に帰ったら、家族の面々は皆リラックスムード。羨ましい反面、そんな彼らの態度が少し気に障りました。父と兄はリビングのソファでくつろぎ、映画を見ていてそれに夢中のようでした。いつもなら声をかけて、冗談の一つも言いたいところですが、その時はそんな気にもなりませんでした。きっと彼らは夜更かしをして、祝日の前夜の至福の時を過ごすつもりなのです。もういい、放っておこうと思いました。

 祝日、いいえ、大抵の休日の朝は「もうこれでいいや」と言うほど睡眠をむさぼりつくす私。でも翌日は祝日だけど、休みじゃないぞと自分に言い聞かせなきゃダメなのです。毎朝、私を起こしてくれるのは目覚ましではなく、家の中の雑音で、生活音と言われるものです。炊飯器が炊きあがりを知らせてくれるピイーピイーという音、洗濯機がゴウーゴウーと仕事をしてくれる音、食器がカチャカチャ鳴る音などで、このハーモニーが「朝ですよ」と私を目覚めさせてくれるのでした。でもその日は翌日のために目覚ましをかけなければ、起きれそうもないので不安でしかありませんでした。

 さて、次の日の朝、あまり寝た気がしませんでしたが何とか起きれました。予想通り、家族は誰も起きてはいないので、家の中は嘘のような静けさでした。家族を起こさないように気を使って身支度をして家を飛び出しました。駅に行く道を歩きながら、きっと電車は空いていて、座れるからまあいいかと思っていました。ところが車内は意外に込み合っているのです。こんな朝早くから、どうしてと辺りを見てみると、カップルや家族連れが乗っているのです。つまりどこかへ遊びに出かけるらしいのです。忘れていました、積極的に人生を楽しもうとする人たちにとっては休日は家でゆっくりする日ではないようです。

 アグレッシブな人は疲れを知らない人なのか、それとも休むという選択肢はないのかもしれない、などとふと考えてしまいました。そしたら友人の嘆きを思い出しました。彼女の夫は休みの日でも平日と同じ時間に起きる。そして必ずどこかに出かけようと言い出すのだそうです。それで、毎回外食だったら大変じゃないのとからかってみたら、驚くべきことに休日の朝なのに家族の弁当を作らなければならない羽目になってしまうのだという。それに子供たちも早く起きてきてしまうので、もう諦めているのだった。たしかに子供と言うのは普段はたたき起こさなければ起きないくせに、休みの日に限って早く起きるものらしい。そのことは自分でも経験済みでなぜか休みだと思うと楽しくて仕方がなかった。なぜなのか、たぶんそれは休みの日の朝はテレビで大好きな漫画や外国のファミリードラマが見れるからだった。だから自然と目が覚めてしまって、テレビのある部屋に行くとまだ大人は誰も起きていなかったりするのでした。

 いずれにしても、休日に出勤、それも貴重ともいうべき祝日に出勤してみたら、予想外の光景に出くわしたのです。私のように人生をダラダラと送っている人間は、カレンダーを予定で埋めつくすような人達を凄いなあとしか思えないのです。でも休日の過ごし方は人それぞれ、一番楽しいと思えることをやればいいのです。そして一瞬でも仕事を忘れさせてくれて、気分転換させてくれる。おまけに翌日からの活力を貰えたとしたら、そんなふうに過ごせたなら最高ではありませんか。

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ダイエットからの卒業

今週のお題「〇〇からの卒業」

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 ダイエット、その悩ましい問題から自由になれた訳は

 私は毎朝6時45分から始まるNHKのラジオ英会話を聞いています。ある日、番組の冒頭で講師の大西先生が「ここ6カ月の間プールに通っているのに、全然やせない」と嘆いておられました。するとすかさずパートナーのローザさんが「そのあといっぱい食べるからだよ、先生」と鋭いツッコミを入れたので、思わず笑いこけてしまいました。このようにして、番組はいつも先生のどうでもいいけど、ユーモアあふれる話題から始まるのですが、やはりダイエットネタが多いのです。体重を気にしていることを隠さないせいか、周りからもキツイ一言を浴びることになります。「これ以上太らない方がいいよ、先生」とか「この頃、顔がまるくなってきたね」などという歯に衣着せぬ、ストレートな指摘を受けることになるのです。こんな漫才のようなやり取りを毎朝聞いているおかげで、笑顔で1日を始めることができます。

 でも、今でこそ体重のことについてはタダの笑い話にしか感じないのですが、昔は相当悩んでいたのです。学生の頃は、嫌なことや辛いことがあったときに、自分を慰めてくれるのは食べ物しかなかったのです。要するに、今でいうストレス発散のための手段が食べること以外なかった。厳密に言えば、他の方法を思いつかなかった、あるいは気づこうとしなかっただけなのです。だから、大好きな甘いものを好きなだけ食べてしまう。するとその瞬間は不思議なことになんかだかホッとしたような気分になれた。そしてそれに味を占めていつの間にか習慣になってしまうのです。でもふと我に帰って自分の身体を鏡に写してみたら、そこにいたのはどう見ても醜く太っている女でしかありませんでした。そうなると、周りからの「あの太っている子」という声が誰のことを言っているのかわかるようになりました。以前思っていた「私ってそんなに太っているわけでもない」という都合の良い言い訳がもう通用しなくなってきたのです。

 だから「痩せなきゃ」と一発奮起して、ダイエットを始めたのです。最初は辛いのは嫌なので、楽に痩せようとしてチョコレート味のダイエットドリンクを買って飲んでいました。ところがこれが美味しすぎるので、あっという間に飲んでしまうのです。それに食事の量だって変わらないのですから無理なのです。食事を減らさずに楽しく減量するなどという甘い考えは捨てなければならないのです。それで、甘いものはもちろん、大好きなご飯などの炭水化物を食べないと決めました。食べられるのは野菜のみで、レタスやキュウリ、トマトのサラダ、あるいはキャベツ炒めなんかをひたすら食べていた気がします。そしたら、60キロはあった体重が55キロにまで減ったのです。

 そこで、ひとまずダイエットは終わりにすることにしたのです、我慢が限界に達していたので。野菜以外の食べ物が食べたくてしかたがなかった。普通の食事に戻ることにしたのですが、意外なことに食べても食べても満腹感が得られないのです。これは想像以上に辛いことでした。胃は食べ物で満たされても、脳は満足しないままのようです。どうやらダイエットのせいで正常な感覚が狂ってしまったらしいのです。そのころは常に欲求不満でイライラしていた気がします。普通の感覚を取り戻すのにはある程度の時間が必要であり、また苦痛を伴いました。その時思ったのです、もう二度とこんな目に会いたくないと。だから本を読んで調べてみたのです、どうしたら太らないでいられるのか。痩せるのは難しくても、太らないでいることは工夫次第でできるのです。まず、1日の中で一番太りやすい時間がわかれば、容易に対処できます。運動で痩せるということが、どんなに難しいかはダイエットの本を読めば明らかです。ダイエットの成功の秘訣はシンプルです、食べないこと。つまり必要以上に食べないことなのです。

 でも私はもうダイエットはしないと決めているのです。早めに歯磨きをし、夜更かしをしなくなったので、何とか外見を保てています。今持っている服が着られる程度に、太ったとしても50キロぐらいに抑えられているのです。ダイエットのせいで、人生における食べる楽しみを台無しにされるのは嫌なのです、ただそれだけなのです。

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白髪染めからの卒業

今週のお題「〇〇からの卒業」

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白髪染めをやめてみたら自由になれた

 先日の朝日新聞の声欄のお題『失って得たもの』の記事の中に67歳の村上ちえ子さんの投書を見つけました。そのタイトルは「白髪染めやめ 心と時間に余裕」です。還暦を過ぎて仕事を辞めたのがきっかけで、それまで習慣にしていた白髪染めをやめたというのです。でもそんなに突然に、思いきりよくやめることができるものなのか。そんな考えが一瞬頭をよぎったのですが、どうもこの方は今までずうっと疑問を抱いていたらしいのです、髪を染めることに。髪が白くなるのは年を取れば当たり前で、ごく自然なことのはず。それなのに、素のままの自分の髪を自分でみっともないと思うなんて悲しすぎる。世間は見た目を重視するのはわかっている。誰でも白髪が目立つようになると、周りから染めた方がいいよと指摘されてしまう。白髪は目障りとでも言わんばかりに煩く言われてしまうのだ。だから、他人から自分の髪のことをとやかく言われないためにも白髪染めをしてきた。つまり身だしなみとして、人に不快感を与えないように、化粧と同じような感覚で毛染めをしてきたのだ。そうすることによって、自分が嫌な思いをすることから逃れてきたことも事実なのだった。

 だが、村上さんにとって月1回の白髪染めは面倒で時間がかかるので、かなりの負担になっていた。それで、やめることにしたと宣言したら、周りの親しい友達や美容師さんには大反対された。老けて見えるからやめたほうがいいとみんな口をそろえて言うのだ。年齢に不釣り合いな見た目の若さがそんなに大事なのかと疑問に思った。自然で自分らしくありたいという気持ちが猛烈に湧いてきた。そんな中で、毛染めを辞めるのに背中を押してくれたのは母親の存在でした。自分の母親が美しい白髪なので、もしかしたら自分もと期待したら、幸運なことにピタリと当たった。先日も『髪がきれいですね。ずうっと染めていないのですか』などと同年代の知らない人に声をかけられた。その人も『染めるのをやめたいのだけれど思い切れなくて』と本音を漏らしていた。それからは思ってもみなかった白髪に関しての井戸端会議が始まって、アッという間に時間が過ぎて楽しかった。本当はコロナ禍にあっては立ち話はNGなのだけど、ついつい盛り上がってしまった。村上さんは言う、『確かに見た目の若さは失ったかもしれませんが、髪はむしろ元気になった気がします。服の色もずうっと自由に選べるようになりました。得たものは数えきれません』。

 一方で、白髪染めを続ける人にはそれなりの確固とした理由があります。私の84歳になる叔母は年金生活ではない、金銭的に余裕がある人なので月1回必ず美容院に行くのです。叔母の髪は黒々として綺麗にカールもしてあって、とてもいい感じに見えます。それに動作がとてもきびきびしていて、私なんかよりもスタスタ歩けるので感心してしまいます。もし自分が叔母の年齢になって、同じことができるかと想像すると甚だ疑問です。その叔母が外見を若く見せたい理由の一つは、年寄だと思って、自分を馬鹿にする人達がいるからだそうです。どうやら、年寄りだと損をするような目に会ったようなのです。その経験から嫌な思いをしないように、予防策としての若作りをしているのです。それでも惨めな思いをすることは避けられないようなのです。例えば、叔母はよく海外旅行のツアーに参加するのですが、そんな時、添乗員の態度に憤ることがあったそうです。その添乗員が、「その年でよく外国に行くね」と言わんばかりの蔑むような眼で自分を凝視したとか。その話を聞いた私は「まさか、考えすぎだよ」と笑ってしまったのですが、当の叔母は真剣そのものでした。

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アイドルの卒業に想うこと

今週のお題「〇〇からの卒業」

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アイドルの卒業は彼女たちの目標でもある

 テレビの報道番組でアイドルの卒業の話題になると、いつも最初に想うのは、これから本当にやっていけるのどうかということでした。所属しているグループを卒業するというのは、普通の社会では会社を辞めて独立するということです。その場合は入念な準備もしているだろうし、また勝算もあってのことなのですが、それは挑戦に他なりません。正直言って、私は若い頃はともかく今はアイドルにはほとんど興味がないのです。だから、全く他人事で、近所のおばさんのように無責任でどうでもいいぐらいの気持ちでいたのです。つまり、芸能界において俳優や歌手といわれる人たちを見る目よりも、アイドルをはるかに軽く見ていたのです。

 ところが、最近はそんな目で見ていたことを反省しなければいけない場面に出くわすことが多いのです。例えば、テレビのクイズ番組のQさまを見ていると、ジャニーズや女性のアイドルグループの人たちが出ていて、見事に正解を連発しています。それも私たち視聴者が回答に悩んでしまうような問題をスラスラ解いて、頭の回転がいいのです。彼らは芸能活動を続けながら、大学にも通っているらしく、それだからか集中力が凄いのかもしれません。番組に出る出演者も世代交代というか明らかに若くなってきているのです。だから初めは戸惑うのですが、何度も見ているといつの間にか慣れてしまうのですから不思議です。時代の流れなのか、まさにアイドル恐るべしで、彼らを色眼鏡で見ることはやめにしなければなりません。

 それに、最近では新聞の夕刊にも、アイドルグループのメンバーの人たちに関する小さい記事が載っているのです。もちろん私などは聞いたことも見たこともないのですが、その人の名前と顔写真と一緒に自己紹介や抱負が書かれています。歌って踊れるミュージカル俳優になりたいとか映画やドラマに出たいとか、あるいは声優になりたいとかという、それぞれ目標があるようです。つまり、アイドルグループに入る動機は自分の夢へのなんらかの足掛かりにしたいからなのです。いずれはみんな独立を目指していて、ずうっとグループとしてやっていけないと最初からわかっているのです。その点において、今居る場所にそのまま留まってもいい会社員とは立場が違いすぎます。だから、アイドルの卒業は夢への第一歩と言えるのです。むしろ、不安と言うよりワクワク感の方が勝っているのと思うのです。

 卒業してから個性を爆発させればいいのかと考えていたら、どうもそうでもないようなのです。それはコロナ禍でコンサートやファンとの交流ができなくなったことで、ある変化が起きているからです。その変化とは、グループのメンバーが積極的に個人として活動を始めたことです。メンバーでいながら大好きなものに関する個性を売りにするのです。例えば、サッカーに夢中になって、Jリーグの魅力を紹介する記事をブログに書いていたら、幸運にもサッカー番組に呼ばれることになった。それをきっかけにサッカーアイドルの地位を確立してしまったとか。また、ゲームに嵌っていたあるアイドルはテレビ東京のゲーム番組にたびたび出演して話題になった。でもそれに飽き足らず、自らゲームの実況動画を編集して公開してしまった。決して緻密な戦略などあったわけでもないのに、自分の好きなこと、熱中できることを突き詰めて行ったら、目の前にもう一つの道ができていたわけなのです。もう一つの道とは本業ではない別の仕事を手にしたことです、それも自分の大好きな分野での仕事を。まさにこれ以上幸せなことはありません。そうなるにはほどほどの好きじゃダメなんです、とことんやってこその結果なのです。だから、新聞の記事では、『ファンに会えないコロナ禍を生き抜くには』とのタイトルでアイドルたちの奮闘ぶりを讃えているのです。それと、困難な時代だからこそ、彼女たちの個性がクローズアップされ、それがグループにとっても恩恵になって希望の光となりうると言いたいようです。

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コロナで卒業式はひっそりと

今週のお題「〇〇からの卒業」

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それでも卒業式は静かに行われて

 また季節は巡り、3月も半ばを過ぎて桜の季節になりました。桜と言えば、卒業式になくてはならないもののひとつで、友達と桜の木の下で写真を撮ったものです。残念ながら、今も依然としてコロナウイルスは終息の兆しが見えないままです。去年に続いてまたもや、卒業式の装いで華やいだ街を見ることはできないのです。この季節の楽しみは何と言っても女子学生の袴姿で目の保養になります。綺麗に着飾った彼女たちを、いいえ、彩も鮮やかな着物をうっとりと眺めるのが楽しみでした。冬の殺風景すぎる街がその時だけはパアッと明るくなって色づき、もうすぐ暖かい春が来ますよと教えてくれます。袴姿にも人それぞれ個性があって、派手な色を好む人もいれば、落ち着いた地味な色を着ていて、こちらが若いのにどうしてと驚かされる人もいます。

 驚かされたといえば、まだコロナが流行る前の3月のある日、小学校の近くでお団子頭に袴姿の人を見かけたのです。その時私はてっきり女子学生だとばかり思ったのです。ところが、よく見てみると背が小さくてどう見ても小学生にしか見えません。まるで七五三の時のようにちゃんとお化粧し、赤い口紅もつけているので、思わず「可愛い!」という言葉が口から出てしまいました。大人ではない小学生の女の子の袴姿を見るのは初めてだったので新鮮でした。もちろん母親と一緒なのですが、私の頭の中にある公立小学校の卒業式のイメージには女の子の着物姿はありませんでした。でも、考えてみると、確かに服装は自由でいいことになっているので文句のつけようがないと思うのですが、あまり華美になりすぎても問題です。だから今まではみんなそれなりに、今話題の言葉で言うと、「わきまえていた」わけです。しかし、当の子供が「どうしても袴姿で行きたい」と望んだら、親としてはどうするべきか。当然目立ってしまうのですが、それでも構わないと本人が言うのならその子の意志を尊重すればいいとも思うのです。正直言って、目撃した時の感想は「今の世の中は着物もありなのか?!」だったのですが、自分の石頭をガツンとやられた気もしたのです。

 残念ながら、私自身は小学校の事情に詳しくないので、本当のことはよくわからないのです。もしかしたら、私が見た女の子の他にも袴姿の子がいたかもしれない。今の小学校の卒業式は昔とは違うのかも、などと勝手なことを考えていたら、想定外の出来事が起こりました。そう、コロナウイルス感染症が流行り、校門前に堂々と「卒業式」と立派な文字で書いた看板が出せなくなったのです。ある日、いつものように小学校の前を通ったら、何人かの人達、たぶん親たちが子供を待っていました。最初何事かと思ったのですが、彼らの話からするとその日はどうやら卒業式のようでした。密になってはいけないので、親は抜きで子供だけで卒業式が行われているのでした。従来のような卒業式らしい式はできなくても、卒業する子供たちにとっては卒業式の中止はありえません。きっと彼らにとっては忘れられない出来事になるのはまちがいないでしょう。

 そう言えば、近所の美容院もこの時期は毎年忙しそうなのにひっそりとしています。気軽にふらっと行きたいのに事前予約が必要になり、敷居が高くなってしまいました。こんな状況でも、私の知っている若い人たちは卒業を人生の大イベントとして捉えています。彼らは着物をレンタルし、袴姿で記念写真を撮って自分たちなりに楽しんでいます。どんなに制限された世の中でも、楽しむことを忘れない姿勢を見習いたいものです。

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厄介な人間関係からの卒業

今週のお題「〇〇からの卒業」

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 苦手な人と仕事をすることはストレス

 人間関係に悩む人は世の中に大勢いるらしく、転職の理由はそれしかないのが現実です。知人があるとき、行きつけの店で飲んでいて仕事の愚痴を言ったのです。そしたら「仕事はお芝居でしょう」などと指摘されてしまった。なるほど、俳優が自分の役を演じるように会社では演技すればいいのかと目から鱗だった。その役をひたすら演じるのに徹すれば悩んでいる暇などない、あるいは他人事と思えて悩む必要もないのかとも思えたとか。でも現実はそれを実践するのは困難なことだらけです。なぜなら、人間は感情という厄介な生き物を抱えて生きているからです。人間関係というの一筋縄ではいかなくて、もつれて、よじれて複雑に絡み合うものだからです。かくいう私なども、仕事のことしか話題がなく、いつも不機嫌そうな、苦手な相手と格闘してきたわけです。一番嫌なのが、その相手とエレベーターを待つのが一緒になったり、あるいはその中で二人きりになってしまうことで、沈黙が気まずいのです。ほんの僅かな時間が長く感じられて、こんな時はちょっとした会話でもしたら何とかしのげるのではと思いました。

 それで、自己啓発本の『誰とでも15分話せる本』などを本屋で読み漁り、その時に備えたりしました。それらの本によると、まずは天気の話題が一番当たり障りのない話題だそうで、さっそく試してみたものです。うまく行くかと思ったら、こちらが一方的に話しかけるだけで、当の相手は乗ってこないのです。会話のキャッチボールができないので、自然と会話は途切れて、避けたかったはずの沈黙が訪れるのです。相手が何か言ってくれないかとも思うのですが、そんなことを期待するだけ無駄なのでした。いつも思っていました、こんな時ちょっとした世間話、ビジネス英語ではスモールトークと言うそうですが、そんなスキルがあれば生きるのが楽しくなるのではと。本には簡単なように書いてありますが、”ローマは1日にしてならず”でうまくはいきませんでした。仕事を楽しくするのは、まず相手との関係をよくする必要があるからで、それにはコミュニケーションが大事です。だからスモールトークを利用して、相手と1ミリでも距離を縮めようと努力してきたのです。すこし近づいたかと思ってもそれは錯覚だったりして。

 そんなことを時間の無駄かもと思いながら、悩んできたきたのに、それが今では苦手な人と会わなくてもいいのです。コロナウイルス感染症によって、仕事が在宅勤務になったからです。それは確かに幸運なことなのですが、やはり寂しくて物足りなくて、自分の世界が狭まった気がするのはどうしようもないのです。会社の仲間と昼休みにおしゃべりしたり、仕事の帰りに飲みに行ったりすることができないのですから。変な話ですが、人が恋しくて堪らなくなるときがあります。生きていくということは、こちらに向かってくる障害物を避けたり、うまく除けたりしながら道を歩くようなものだと誰かから聞いたことがあります。常に四方注意なのですが、その中でいろいろ学んでいき、楽しく思えてきたら大成功なのだと言いたいのです。いずれにしろ、今の私は苦手な人と実際に会う必要がなくなったからと言って、ストレスが消えたわけではありません。厄介な人間関係から卒業したいのはやまやまですが、それはまだ先になりそうです。

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