人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

行動制限のあるカフェ

いったい何をしたらいいのか、わからない

 薬局に行こうとして、カフェの前を通りかかった。だが、おかしなことに、窓際のカウンターに客の姿が見えないし、店内がなんだか薄暗い。はて、どうしたのだろうと、引き返すと、入口に張り紙がしてあった。その時の私は、正直言って、「もしかしたらここも閉店か」などとよからぬ考えが頭にちらついていた。だが、貼り紙をよく読んでみると、「1月28日から1月30日まで、休みます」とのことで、「なあ~んだ、驚かせないでよ」となった。別にこのカフェがどうなろうと私には関係ないが、やはり、飲食店の閉店は寂しいことには変わりない。これまでも、イタリアンの店や絶対潰れないと思ったファミレスのサイゼリアが次々と閉店していたからだ。ブルータスよお前もか、のごとくカフェの運命を嘆いてしまった。

 ひととおり貼り紙を読んで帰ろうとすると、隣にもう一つの貼り紙があるので、どれどれと興味津々になった。そこにはこう書かれてあった、「勉強、パソコン、事務作業等はご遠慮ください」。この警告を読んで、思わず心の中で叫んだ、「そこまではっきり言うなんて、何様のつもりなの!それならいったい何をすればいいの?」。私も含めて、客の大部分はそういった類のことをするために、そういう目的のためにカフェにやって来るのではないだだろうか。自分がやりたいことができない、それを禁止されたら、もうカフェに行く意味がない、いや、もう行けないのだ。

 ではいったい何をするためにカフェに行けばいいのか。ではなくて、カフェに行って、何をすればいいのか、と言った方が正しい。考えてみると、本来カフェはコーヒーを飲んでまったりしたり、気分転換をするところだ。あるいは、誰かとおしゃべりをして、楽しく過ごすコージーな空間であるべきだ。私の実家は昔から喫茶店文化が根付いている地域にあり、皆でモーニングに行くのが当たり前になっている。そこでは、誰もお勉強などしている人はいないし、むしろそういう人は目立つし、珍しい。それに、入口で人が順番を待っているのだから、よもや長居をしようだなんてことは考えない。田舎の喫茶店は、都会にあるどこそことは言わないが有名チェーン店のカフェのようにお客が入店するたびにチャイムが鳴るシステムなど導入していない。なので、皆自然と順番を待っている人のことを考えてしまうのだ。

 カフェでお勉強をするだなんて、都会に出て来るまで考えもしなかった。家でやると気が散ってできないから、仕方なくカフェでやるしかないと友達は言っていた。店内を見渡すと、あちらこちら自分と同類の仲間が居て、彼らは自分の世界に浸っていた。そんな環境に身を置いたら、いつの間にか自分も勉強に集中できていた。それで、勉強するなら、お金はかかるが、カフェが一番で、なんと、カフェでなければ勉強ができない、などと勝手に思い込んでしまうのだ。いやはや怖ろしいことだ。そう呟いている当の私もそう思い込んでいた一人だ。

 だが、幸か不幸か、コロナ禍でそれまで毎日のように通っていたカフェに行けなくなった。突然の出来事に、どうしたらいいの?と歎き悲しんだ。いや、そんなんじゃない、あれはもう絶望に近かった。自分の唯一の居場所が消えてなくなったのだから。それでも、勇気ある人?はそれまでと変わらずカフェに通っていた、カフェを応援したいからとの名目で。自分のことだけ考えるのが精いっぱいの私はそんな考えは及びもつかなかった。

 ピンチはチャンスとはよく言ったもので、信じられないことに、やがて私は家こそが最良の場所であることに気が付いた。しばらく暗闇の中で悶々としていたが、自分の部屋が意外に落ち着き、勉強に集中できることをある日発見した。そうなると、コロナ禍がひと段落して、久しぶりにカフェに行ったにも関わらず、なんだか落ち着かなくて、そそくさと帰ってきてしまった。要するに、私はもはやカフェにふさわしくない体質になってしまったようなのだ。

mikonacolon