人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

つらい時に人にやさしくできるだろうか

 

そんなこと考えたこともなかった

 精神科医香山リカさんが、東京新聞の『ふわっとライフ』というエッセイに書いていた。自分がつらいのに人にやさしくすることほど、難しいことはあるだろうか、と。香山さんは運動のし過ぎで、肩を痛めていた時は、「自分がこの世で一番気の毒な人になった気がする」と思い、目の前の患者さんから「最近腰が痛くて」などと言われても、心の中では「私の方がもっと痛いかも」などと自分のことばかり考えていたという。私は香山さんのこの赤裸々な、嘘偽りのない発言を読んで、クスッと笑ってしまった。へえ~、お医者さんって、何ごともなかったような顔をして、心の中ではこんなことを思っているんだあ、と新発見をした気分になった。その点で、香山さんはとても正直な人だなあと、好感が持てた。

 考えてみると、そもそも、医者も人間なのだから、私たち患者と同様に口には出さなくてもあれやこれやと常に何かを感じている。機械ではないのだから、感情の起伏はあって当然で、表に出さないだけなのだ。さて、香山さんは痛みを訴える患者さんを前にして、自分自身の痛みのことだけを考えている自分を、「情けない」と歎いていた。そんな折、あるちょっとした出来事があって、「辛い時の優しさ」について考えさせられた。それは、香山さんが住んでいる北海道、穂別でのことで、高熱がある患者さんに検査をした時のことだった。インフルエンザかコロナか判断するために、診療所ではなく、裏にある駐車場で検査をするのだが、検査キットやらなにやら両手に抱えていて、雨が降っているのに、傘がさせずいつのまにかずぶ濡れになっていた。

 もちろん自分ではそんなことには構っていられなかったが、車の中から、患者さんに「先生、ずいぶん濡れちゃってるじゃない、大丈夫?」と声をかけられた。普通なら何でもない言葉だが、この時のその人は高熱で十分苦しいはずで、人のことなど心配している場合ではない、いやそんな余裕はないはずなのに。香山さんは自分が苦しい時に他人に優しくできるなんて、なかなかできることではないと感激した。と同時に、自分の自分勝手な心を大いに反省した。「本当の優しさとはおそらく、たとえ、自分が辛い時でも弱っている人や困っている人などに対して、『大変だね、大丈夫?』と気持ちを向けることなのだろう」と綴っている。そして、「私もそういう人になりたい。でもやっぱり、その後も自分のことばかり考えてしまう」と心情を吐露している。

 いやはや、何と正直な人だろう。そりゃそうだ、こればっかりは努力して何とかなるものでもないだろう。それにそこまで立派な人にならなくてもいいのですよ、と香山さんに言ってあげたい気がする。まあ、私などが言っても慰めにもならないだろうが。自分が強烈な痛みで苦しんでいる時に、他人を思いやることなど考えもしなかった。自分の近くにいる他人が、「腰が痛くて、どうしようもなくて」とか「足が痛くて、歩くのが辛いの」などと歎くのを「また、言ってるな」ぐらいにしか思わなかった私だから。いつも、他人の悲鳴を無視し、ただ薄笑いを浮かべてやり過ごすしかなかった。私が無反応だから、何も言わないから、相手はその話題をすぐにひっこめるしかない。そう言う暗い話題は御免と言わんばかりの態度だから、今では相手も諦めたようだった。

 そんなことを話題にして、どうするの?と思っていた。はっきりしていることは、個人の痛みは他人にはわかるはずもないということ。もちろん、わかったふうなことを言うことできるが、そんなことをして何になるの、何の役に立つのというやるせない気持ちがじわじわと込み上げてくるだけだ。虚しいのだ。

 だが、そんな私も昨年はいろいろな痛みを経験した。右足の膝の痛みから始まって、目の炎症による顔の痛み、胃の痛みとまさにオンパレードのようだった。あなたの昨年を表現する漢字一文字は何ですかと問われたら、迷うことなく、「痛」と答えるだろう。それでも私は医者以外に他人に自分の痛みについて弱音を吐かなかった。それは、おそらく他人にはどうでもいいことだし、そんなことを言っても困惑するだろうと思ったから。私の痛みは自分ひとりで抱えるべきものであり、私にしか自分の痛みはわからないだろうから。ただ、一つだけ分かったことがある、それは医者に駆け込んだとしても、すぐにはどうもして貰えないということ、要するに、すぐには痛みを取り除いてもらえるわけでもないということだ。痛みが消えるまでには、相当な忍耐と時間が必要なのだということを学んだ。

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