人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

退屈のやり過ごし方

退屈と無縁でいるためにできることは

 毎週金曜日の日経新聞の夕刊には『シネマ万華鏡』というタイトルの映画の批評が載っている。今最も話題になっていて、見るべき、お勧めの映画を紹介してくれるコーナーでもあるのだが、先日は『逆転のトライアングル』という映画だった。カンヌで前年もパルムドールを獲得したスウェーデンリューベン・オストルンド監督の作品だ。記事を読むと、見ている観客からたびたび笑いが漏れるほど、退屈しない作品だと気付かされる。この間私が見に行った『コンパートメント№6』とは対極にある作品なのかもしれない。どう考えても面白そうなのに、「では、ちょっと見に行ってみようか」となるかと言うと、ならない。

 なぜそうはならないのか。いつも何か面白いことを捜しているような人間なのに、これはおかしいではないか。要するに今はその種の笑いは特に欲しいとは思わないのだ。私の心は日常生活にはなく、これから行くであろう、旅のことで頭がいっぱいだからだ。何もわざわざ映画館に行ってどこかほかの場所に、ここではない別の空間に浸らなくてもいいのだ。たぶんそれが、見て面白いと保証されている映画を見に行くことに食指が動かない理由なのだろう。

 別の新聞には監督のインタビューが載っていて、次回作のことに言及していた。次の企画は「長距離便の飛行機で映画など時間を潰せるエンターテインメントシステムがダウンする話」だそうで、「乗客はその退屈さに堪えられない。観客にもその退屈さを実体験してもらおうと思っています」などと驚きのコメントをしていた。もしも3作連続のパルムドールを獲得したらの質問には「もしもカンヌで上映されたら、史上最も途中で席を立つ人が多い作品になるでしょう」と周囲の笑いを誘っていた。でも私はこの監督なら、きっと”退屈さ”さえも笑いに変えてしまえるのだろうと確信する。なので、監督の手腕見たさに、映画を見に行ってしまうに違いない。今上映中の『逆転のトライアングル』よりもむしろ次回作が楽しみだ。

 考えてみると、座席に設置されているエンターテインメントシステムは何と優れ物なのだろう。あれは退屈から私を救ってくれ、楽しませてくれるのだから。まさに必要不可欠なもので、あれなしには座席で生き延びることはできないと言っても過言ではない。退屈で死にそうになる。一度退屈を感じると、それまで気にならなかった問題が一気に噴出する。足が延ばせなくて痛いだの、腰が痛くて堪らないだのと不満だらけだ。じっと座っていることに堪えられなくなるのだ。立っているのではないのだから、楽には違いないが、悲しいかな無為のままいることが辛い。個人的には私は飛行機の座席に座るのが大好きだ。なぜなら、誰にも邪魔されずに映画を見ることができるからだ。コロナが流行るまで、機内で映画三昧をするのが至福の時間だった。だがそれもエンターテインメントシステムがあってこその話だった。

 私が始めて乗った飛行機はKLMで、当時はもちろん座席にエンターテインメントシステムなどついてはいなかった。なので、当然自分で興味のある本とか音楽とかを用意して行った。出発前に空港にある書店に入って、何かよさそうな本を買うことが習慣になった。だが、やはり退屈してしまった。本を読むという行為は想像以上に疲れる?ことなのだと思い知った。だから何かぼんやりと眺めるだけの頭を使わない気楽な娯楽、例えば映画などの目の前を映像が通過していくエンターテインメントがちょうどいい。当時ははるか遠くにある機内のスクリーンで何か映画をやっていたが、たいして見ている人はいなかった。

 一番辛かった思い出はウィーンに行った時利用したオーストリア航空の機内でのことだ。もちろん座席に液晶画面は付いていなくて、それを承知で乗ったのに飛行時間が11時間なのには参ってしまった。それまで私は直行便に乗ったことがなくて、乗り換えがないから便利だとばかり思っていた。実際はエンターテインメントシステムがない11時間は地獄だった。その時は私の隣に母親と小学生の男の子が座っていて、その男の子がもう我慢できないと言わんばかりにワハハッと笑った。何事かと隣に目をやると母親が手で子供の口を押さえて、「お願いだから、声出さないで!」と叱っていた。機内では前方にあるスクリーンでシュワルツェネッガーの映画をやっていて、どうやらその男の子はドイツ語がわかるらしく、可笑しいから声をあげて笑ったのだ。

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