人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

コンパートメント№6を見に行きました

期待したほどの感動はなかった、されど・・・

 昨日映画『コンパートメント№6』を見に行ってきた。映画を見に行くのは実に3年ぶりで、しかも今まで一度も行ったことがないミニシアターだった。都心にある駅ビルのすぐ隣のビルの地下1階にその映画館”シネマサンライズ”はひっそりとあった。「こんなところに映画館があったんだ」と誰でも思うらしいことがネットでチケットを予約するときに見た口コミ情報でわかった。それでも知る人ぞ知るで、狭い館内は大勢の人で混雑していた。「予想外の反響に付き上映の予定が1週間延長になりました」とのお知らせが掲示板に載っていた。

 カンヌのみならず世界の映画祭で絶賛された映画ということもあってか、人々の期待と関心は大いに盛り上がっているらしい。かくいう私も期待に胸を膨らませて、何らかの感動を期待してシアターにやってきた。それに映画の舞台がロシアで、列車の旅がテーマということもあって、私の旅情は否応なく掻き立てられ、自分もヒロインのラウラと一緒に旅をしている気分になりたかった。この映画に感動を期待したと言うよりも、ただ単に旅を疑似体験したかっただけなのだ。それくらい、今ここではない、どこか遠くに行ける”旅”を実感することに飢えていた。

 それからもうひとつ、この映画は私自身が”コロナモード”から抜け出す記念すべき1本になるはずだった。3年に及ぶコロナ禍の縛りから解放されて、外へ、世間へデビューするために一歩を踏み出すきっかけとしたかった。馴染みのカフェにも行かず、飲食店にも行かず、ましてや劇場で芝居を見ることもなく閉じ籠っていた私はミニシアターに行って面食らった。なぜかと言うと、そこには以前の日常があったからで、誰もがマスクをつけている以外はそのままで何も変わらなかったからだ。体温チェツクもソーシャルディスタンスも何もない現実に驚き、戸惑った。世間では感染者が減少傾向にあるとはいえ、まだまだコロナ禍には違いないと認識していた私は目の前にある現実を見て、「だんだんと日常に戻りつつあるのだなあ」と実感せざるを得なかった。

 初めてその映画館を利用する私は機械でチケットを発券する際にも戸惑った。いくら画面を触ってみても何の反応もない。それなのに他の人はスイスイとチケットを発券していた。困った、でも自分では上手く行かない。カウンターの人にやり方を尋ねてみるが、「簡単にできますよ」というだけで懇切丁寧には取り合ってもらえない。それでもひるむことなく再度尋ねると、今度はやっとコツを教えて貰えた。要するに、指ではなく、爪で押さないと反応しないのである。「それならそうと早く言ってよ」と言ってやりたかったが、その気持ちをグッと抑えた。皆スマホで予約しているらしくその人たちはQRコードに予約画面をかざせばいいだけのことなのだ。

 映画のストーリーが予想に反して、淡々と進むせいか、少々退屈してしまった。狭いコンパートメントの中がどんな感じなのかはロシアで寝台車の旅を経験済みの私には嫌というほどわかる。それでもあの独特の閉ざされた空間が懐かしい。本当は映画に出てくる2等車よりも開放的な3等車の猥雑な空間が大好きだ。ロシアの人たちは安くてオープンな開放寝台を好んで利用するので、まずは3等車からチケットは売り切れる。ロシアのクレジットカードを持っていない私はネットでは買えないので、仕方なく2等車の座席を買うしかない。

 この映画は観客に安っぽい感動を与えてくれる類の作品とは一線を画している。例えば、列車がペトロザボーツクに着いた時、ラウラは嫌な奴でしかないリョーハを避けるようにして恋人に電話を掛けに行く。電話は繋がらないのに、ラウラは何度でもかけようとするが、順番を待っている男性とトラブルになりそうになる。その時助けてくれたのがリョーハだったので、そう悪い人でもないのだと彼に対する見方を変える。彼に一緒に来ないかと誘われて行った老婦人の家で、手厚いもてなしを受けて楽しい時を過ごす。その老婦人がラウラに「女はねえ、心の内なる声を聞いて、その声に従って生きればきっと幸せになれるわよ。私もずうっとそうやって生きて来たし、今でも幸せよ」と諭すように言う。なんだか、その哲学的な言葉がいまでも耳に残っている。

 それにしても、エンドロールが終わって、館内が明るくなったとき、ギョッとした。なぜなら私はちょうど真ん中の席だったが、辺りをよく見まわしたら、あまりにも空席が多かったからだ。「涙と感動で見終わった後もしばらく席を立てませんでした」だなんてコメントがよくあるが、この状況は正反対だった。要するに皆退屈して早々に帰ってしまった?のだろうか。カンヌで賞を取ったのだから、一見の価値はあると思うのだが。

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