人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

オーディオブックなら疲れない?

”聞く読書”なら疲れないのだろうか

 恥ずかしい話だが、先日私は横断歩道で転んでしまった。自分でもまさかあんなところで転ぶとは思ってもみなかった。早朝の人気のない道でならいざ知らず、午後の人が多く出ている街中でやらかした。何か考え事をしていたからなのか、あるいはぼんやりとし過ぎていたのか、言い訳は何とでもできるが、本当のところは足があがらなかっただけのことだ。あの時、私の右足はなにかに引っ掛かって、身体がよろめいた。あれ、何かおかしいぞと思ったら、目の前にアスファルトの灰色が見えた。その瞬間とっさに左手をつき、路面に膝をついて倒れる形になった。左手には手袋をはめていたし、ゆっくりと倒れたので、ズボンの左ひざの部分が少し汚れただけで済んだ。

 自分が転んだのだとわかった瞬間、私はすぐに立ち上がろうとした。だがそこに誰かの親切な「大丈夫ですか」の声が聞え、目の前には「救いの手」が差し出された。普通なら大変ありがたいことで、感謝すべきことなのだが、その時の私は「冗談じゃない」と感じた。自分が大衆の面前で転んだことが、なんともカッコ悪いことで、見知らぬ他人の手にすがることが恥ずかしかった。もしも私が遠慮なくその手を受け入れたら、それじゃまるで、何かの映画のワンシーンみたいなことになってしまうではないか。それに自分は全然大丈夫だから、相手の人には悪いが助けは必要なかった。

 それで私は目の前に差し出された手を完全に無視し、「大丈夫ですから」とだけ言ってそそくさとその場を立ち去った。やらかしてしまったことをなかったことにしようと、早く忘れるためにしばらく歩き続けた。少し落ち着くと、どうして不覚にも横断歩道で転んでしまったのだろうかと考えた。横断歩道に段差などあるわけもないので、となると自分の足がもつれたとしか思えない。要するに自分で思っているよりも足が上がっていなかったのだ。それではなぜと突き詰めて考えると、足が上がらないのは身体が意外と疲れている証拠なのではないか、という結論に至った。元気な時は足も上がり、歩き方にも切れがあるが、疲れてくると自然と摺り足になって、足が上にではなくて前に行ってしまうからだ。だから、他人を見ていても、今回のように自身の体験でも「どうしてあそこで転ぶの?」と首をかしげるような場所で転んでしまうのだろう。

 疲れると言うと、自ら望んで読もうと思った本を読んでいて、疲れを感じることがある。読書は意外?と集中力と気力、それに体力だって必要とする行為だと今更ながら思う。その点で読書はドラマや映画を見るという受け身の行為とは一線を画している。退屈などと無縁な本はあるにはあるが稀である。たまに一気読みをしてしまうこともあるが、私の場合はそれは書店でのことが多い。つまり立ち読みや座り読みならその確率は増すのだ。ここぞとばかりに恐ろしいほどの集中力を発揮し、何とかタダで済まそう?と滅多に出さない情熱を傾けて読破しようと躍起になる。その時は「疲れる」だなんて、つまらない感情は忍び込む余地なんてない。

 その一方で、欲しい本を自分の物にしてしまうと、これがさっぱり読めない。先日も念願の韓国のノワール小説『破果』を手に入れ、何もかも用事を済ませて、さあこれからと読もうした。ところが、退屈などしていないのに眠くて意識が朦朧としてきた。時計を見るともう10時近くて、いつもの寝る時間だった。身体は正直だから、その力には抗いきれずに仕方なく布団に入る。そんなとき、新聞で最近はオーディオブックが人気だと知った。時間がない人でも、例えば、車を運転しながら、洗濯や料理をしながら、散歩の最中にも耳で聞いて読書ができるという優れものだ。オーディオブックのサブスクまであると聞いて驚いた。

 音楽を聴くように小説の朗読を聞けると言うと、なんだかラクに読書ができると勘違いしてしまう。遥か昔ウィーンのシェーンブルン宮殿に行った時、別に音声ガイドなどが欲しいわけでは無いのに、親切にも無料で貸してくれた。最初こそ展示を見るたびにいちいち真面目にそれで説明を聞いていたが、途中で嫌になってやめてしまった。何年に何が起こって誰々がどうした、こうしたとかいう長々とした音声が煩くなって、疲れてきたのだ。音声ガイドを聞くのをやめて、展示を眺めたときの爽快感といったら、絶筆に尽くしがたい。

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