人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ブログのネタに困ったときは

今週のお題「かける」

ご機嫌伺いを兼ねて実家に電話を掛ける

 何処かで聞いたところによると、毎日ブログを書いてさえいれば、そのうち文章がスラスラかけると言うことだったが、どうやら私の場合は例外のようだ。枯れない泉のごとく言葉が次々と湧き出るようには私の頭はできていないらしい。そんなとき、日経のプロムナードのエッセイや鏑木毅さんの『今日も走ろう』や岸本葉子さんの『人生後半初めまして』などを読むと、こんなに書ける人が羨ましくなる。何でこんなにスラスラとよどみなく書けるのだろうと感心すると同時に自分がなんだか惨めにもなる。

 まあ、私は書いてお金を貰っているわけでもないし、字数制限もないのだからと自分で自分を慰めるしかない。ただ、小説を書きたいがために、文章を書く練習をしているだけなのだから。毎日生きていると、たいして繊細でもないのに、その時の場面、場面で違和感を抱いたり、理不尽な思いに囚われて右往左往の連続だ。人に話したところで解消できるわけでもないが、不思議と文章にすると、がんじがらめになっていた思いから解放されるのだと知った。それを知ってから文章を書くのが楽しくなった。いや、楽しいと言うより、生きるよすがで生きがいと言ってもいい。まあ、他人から見れば、お金にもならないし、何の役にも立たない、タダの暇つぶしに過ぎないのだが。

 その暇つぶしで精神に異常をきたすことなく生きていけるとしたら、これは凄くお得な事で、素晴らしいことだ。以前新聞で見つけた記事で『書かないより、書いた方が楽しいでしょう』という言葉を見つけた。あの頃注目されていた女性のエッセイストの人の名言だ。その頃の私はその言葉の意味が分からなかった。だいたいが何も思い浮かばず、いや例えなにかを思いついたとしてもわずかに2,3行書ければいい方で、その後が続かない。中身が空の頭からは絞り出そうとしても、一滴も言葉のカケラが落ちてはこない。万事休すだ。

 だが、文才がないのはハナからわかっているので、書けなくても毎日パソコンの前に座るのを習慣にした。そうなると、不思議なもので、それが駄文であっても、書けることは書ける。要するに、どうでもいいこと、たわいもない思考が頭の中を駆け巡って収拾がつかない。そうなると今度はこのブログをどう終わらせようかなどと浅はかなことで無い頭を悩ませることになる。まったく計画性のない頭はこれだから困るのだ。素人の作文なんてこんなもので、でもこんなものでも、時間の無駄でもなんでもありで、自由なのがブログのいいところだ。

 毎日生きていて書くことが何も見つからない、などということは絶対にない。人は鈍感に見える人であっても何かを感じているものだし、それに今の世の中は感情のスイッチをオフにした方が生きやすいことは確かだ。今ふと思ったのだが、ブログでは怒りの感情はオブラートに包んで、事実だけを淡々と書いた方が私の場合は書きやすい。物事はひとつの方向からではなく、いろんな角度から眺めると見えなかったものが見えてきて新鮮で面白い。普通の人が「そんな見方、考え方あったの!?」と驚くようなことが見つかるかもしれないのだ。特に「そんなの当たり前でしょう」と思うことからして疑ってかかった方が新鮮に感じられるものだ。

 私のブログのネタの情報源は主に新聞、ラジオ、テレビ、街中での他人の立ち話と多岐にわたるが、もう一つは実家へ電話を掛けることだ。実家で犬一匹と猫二匹とのひとり暮らしを満喫している義姉のミチコさんにご機嫌伺いを兼ねて電話を掛ける。ガラケイをかけ放題にしたミチコさんはこの頃やたらとおしゃべりになった。話し出すと1時間はざらで、車で友達とランチに行ったり、日帰りのバス旅行に出掛けたりと忙しい日々を送っている。この間などは夜遅く自分が寝ようとしたら、猫二匹が何を思ったのか突然喧嘩を始め、追いかけっこをして部屋中を駆け巡った。叱ってもやめようとしない。おかげで寝不足だと嘆いていた。

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