人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ケイコさんを尋ねて

予告なく尋ねて行って、会えると思ったら・・・

 今回の帰省には、もう一つ目的があった。それはコロナ禍になって、いつの間にか疎遠になっていたケイコさんに会いに行くことだった。ケイコさんはコロナ禍だった一年前に亡くなった叔母の妹で、私たちは一緒に浜松に旅行に行ったりして、とても仲良しだった。その時叔母は医者をしている甥っ子に、どこも悪いところはないから、これなら百までも生きられると太鼓判を押されたにもかかわらず、今はもうこの世にいない。一方のケイコさんは、足が痛いらしく、そのせいで、私たちとの旅行を躊躇した。それでも一度ぐらいならと譲歩して、やっと承諾してくれて、義姉のミチコさんとの4人での旅行が実現した。4人でホテルのスイートルームに泊まった時、ケイコさんが「なんだか、夢を見ているみたい」と喜んでくれたのが記憶に残っている。

 さて、叔母はコロナ禍にあろうことか食道がんになって入院してしまったが、周りの人間にとってはその事実は青天の霹靂ともいえるもので、俄かには信じられなかった。それに、本人が来ても会えないから、来なくていいよと言うのだから、どうしようもなかった。結局、3カ月の入院後に自宅に帰ったものの、すぐに症状が悪化して病院に運ばれた。その時本人はまた家に戻ってくると信じていたが、叶わなかった。思えば、叔母は電話でよく咳をしていたし、声もガラガラ声の時が多かった。あれは食道がんの初期症状だったのかもしれないと今では思う。以前、叔母の義妹が、食道がんになったおかげで、私たちが行くはずだった旅行が中止を余儀なくされたことがあった。叔母と同じ病気の、その人はよほどの強運の持ち主なのだろう、現在でもちゃんと生きていらっしゃる。その元気な姿を叔母の葬式で見かけて、とても複雑な気持ちになった。

 その叔母の葬式の時、なぜなのだろう、ケイコさんは出席しなかった。理由は足がびっこを引いているから、みっともないから、そんな無様な姿を人前で晒したくないからとの思いからなのだろうか。あれ以来ケイコさんは私たちとの連絡を絶った。盆や正月にはミチコさんが車で送り迎えするから、泊まりに来たらと誘っても応じようとはしなかった。私たちは、電話で今から行くからと連絡すると、絶対断られるだろうから、何の予告もなく、こっそりと内緒で、突然行って見たら、どうだろうかというようなことをよく話していた。もう会いたくないと言われても、やっぱりとても気になっている人だった。

 ミチコさんも、ケイコさんのことが頭から離れなかったが、気軽に電話することもできずにいた。そんなある日、突然、ミチコさんの携帯にケイコさんから電話があった。何事かと思ったら、「郵便局でお金をおろしたいのだけれど、ハンコがどれだかわからない」だの、あるいは「見つからない」だのと言ったことで、いくら聞いてみても、いっこうに話の筋が見えない。話がいつまでも堂々巡りを繰り返し、空回りして終わりが見えなかった。ミチコさんはしばらくして、ケイコさんの受け答えに違和感を抱き、堪らず電話を切った。間違いない、ケイコさんはどうやら認知症のようだった。

 数日後、ミチコさんが電話をすると、また何か可笑しな展開になったが、その時は途中で娘に代わったようで、予想通り認知症の気があると知らされた。気になってはいても、普通にコミュニケーションが取れない相手に電話をするのは気が引ける。そう考えたとしても何の不思議はない。そんな風にミチコさんと私は、ケイコさんとのことを半場諦めていたが、今回はどうしても確かめに行こうとした。当然一人で家にいるものだと思っていたし、突然来たことを嫌がられても構わなかった。だが、実際行って見ると、ケイコさんの姿はなく、孫娘が家に居ただけだった。兄の葬式の時、ケイコさんの話では孫娘はまだ中学生だったが、5年経った今ではピアスをするほどに大人びていた。

 車を停めて、ミチコさんが玄関のチャイムを押す前に、車の音が気になったのか、サッシ越しに孫娘が立ちあがったのがはっきり見えた。車で待っている私には2人が何事か熱心に話しているのがわかるが、早く本当のところが知りたくてうずうずした。ミチコさんが話を終えて、車に戻ってきた。ケイコさんは脳出血で病院に入院してしていた。当初は脳梗塞で倒れて、家でリハビリをしていたが、今回はどうなるかわからないらしい。未だに意識がない状態で、様子を見るしかないそうだ。家には孫娘だけがいて、ケイコさんの娘である母親は買い物に行っていないと言うので、後から連絡をくれるように頼んで帰ってきた。予想もしなかった出来事にミチコさんと私は言葉を失くした。

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