人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

習字の道具を揃える

今週のお題「買いそろえたもの」

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書道の先生は綺麗で、おしゃれな中学教師

 会社と一人暮らしのアパートを往復するだけの毎日に飽き飽きしていた頃、ある看板に出会った。『書道教室、初心者の方歓迎します。当ビルの5階、お気軽にどうぞ』。たまたま近所のスーパーに行った帰りに、いつもは行かない反対方向の道を歩いていた時だった。偶然にもその看板と目が合ってしまったと言うか、運命だったのかもしれない。ちょうど当方は何か新しいことを、それも楽しいことではなくて、何かの役に立つ有意義なことを始めたかったところだった。自慢にもならないが、私はお世辞にも字が上手いとは言えないレベルの人間だった。そうだ、書道でも?習えば、少しは字が上手くなるかもしれないという不純な動機で先生のマンションの部屋のベルを押した。

 どんな人が出て来るのか、不安でドキドキしていたが、実際はニコニコした美人が出てきて面食らった。勝手に男性でしかもお年寄りだとステレオタイプを想像していたからだ。明るくて、フレンドリーな若い女性は書道を習いたいという私に懇切丁寧に説明をしてくれた。週一回で月謝は5千円で、水曜日の夜7時からか、それが都合が悪い場合は土曜日の午後からでもいいと言う。私はその場で即決し、今度の水曜日の夜から始めることにした。始めるにあたっては書道の道具一式が必要だった。何も持っていないと言うと、そんなに慌てて用意する必要はない。初回はこちらで道具は用意してあげるからと先生は言ってくれた。

 なにぶん、相当の年月が経っているので、筆や硯などはいくらくらいのものを買ったのかさっぱり覚えていないが、先生がお手軽な値段で揃えてくれたのかもしれない。実をいうと、先生は現役の私立中学の国語教師だった。学校でも生徒たちに日常的に書道を教えていたから、道具を安く手に入れるルートは持っていたと思う。今でも思い出すのは、一番最初に筆を降ろす時は、まず筆に付いているのりを丁寧にほぐしながら取る必要があることだった。注意しないと毛が根元からバラバラになってしまう。失敗してそうなってしまった時は、仕方がないので糸でぐるぐる巻きにして縛って使うしかない。筆は全部降ろす必要はないのだと教わった。

 先生に書道を習っていると、自然と先生がどんな人なのか、どんなことを考えて生きて来たのかがわかって来た。当時先生は2DKのマンションに住んでいたが、最初は妹さんたち二人と一緒だった。でも彼女たちが結婚して出て行ってしまったので、先生ひとりになった。今のマンションは先生が買った物だが、もう少し広い所に移りたかった。なぜなら老後のことを考えて、自宅で書道教室を開くための専用の部屋が欲しかったからだ。実際のところ、その頃書道教室は台所のダイニングテーブルの上でやっていて、生徒は二人座るのがやっとの状態だった。どうしても3DKのところに移りたい、でもそれには資金がいる。なので、空いた時間に書道教師のアルバイトをしようと思ったわけだ。

 先生は私よりも一回り上の37歳で、とても若く見えた。たぶん毎日中学生の女の子と付き合って、若い子から刺激を受け、かつ彼女たちから若さという養分を吸い取っているからなの、と冗談とも本気ともつかないことを言っていた。先生は本人の言う通り、純粋でまるで少女のようだと錯覚してしまうこともあった。でも30代後半まで一人で生きて来た女性が本当の少女であるわけもなく、ときおり生々しい現実に引き戻されることもある。こんなに明るくて、美人で感じのいいいい女性がなぜ今まで独身なのか、そうふと思ったら、「どうして結婚しないのですか?」という素朴な質問が自然と口から出てしまった。すると、先生は自分は大恋愛を経験して、もうあんなに人を愛することはできない。だからこの先の人生は一人で生きると決めている、お金が一番大切で、自分を守ってくれると信じているのだと言う。

 先生は自分より年下の男性しか愛せないのだ。昔は今と違って年下の相手との恋愛は自由ではないし、世間の目が厳しかった時代だった。自分よりも10歳も年下の男性と結婚したいと願っても、親にも親戚にも反対された。二人で散々泣いて泣いて、別れることに決めた。反対を押し切ってまで、自分たちの意志を貫き通す自信もなかったのだ。と、ここまで先生の話を聞いていて、「なるほど」と納得しかかったところで、冷や水を浴びせられたかのような言葉を聞いた。それは先生がぽつりと呟いた「それに、私の大事な財産を取られるところだったかもしれないしね」。一瞬で私の心は凍り付いた。

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