人生は旅

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忘れ物の憂鬱

今週のお題「575」

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忘れ物 したら大変 居場所ない

 先日、朝日新聞で見つけたのは『紅白帽忘れ 体育参加させず 計4度』というタイトルの記事でした。すぐ隣には「教委 行き過ぎた指導」と副題がついています。私は一瞬、帽子を忘れただけで、4度も体育の授業に参加させないなんてやりすぎだと解釈しました。しかし、記事をよく読んでみると違うのです。つまり、担任の教師の指導が行き届いていないと教育委員会は指摘しているのです。子供が4度も帽子を忘れる前に、何らかの適切な指導をするべきだったと言いたいのです。担任の教師は子供の自立心を育むために自分で気づいて欲しくて親に直接連絡することはしませんでした。連絡帳に自分で忘れ物をしないように書いて、保護者に連絡するようにと伝えるだけでした。そのために子供は4度も帽子を忘れて、体育の授業に参加する機会を奪われてしまった、などと教育委員会は教師の指導の在り方を問題にしているのです。さらに「見学させることは児童が学習に参加する権利を奪うことになりかねない」などと判断していることに仰天してしまいました。それにしても、忘れ物は悩ましい。子供に忘れ物はつきものですが、先生にとっても悩みの種なのだとわかって目から鱗の記事でした。

 この記事で自分の小学生の頃を思い出すと、呆れるほどたくさんの忘れ物をしました。子供の頃からしっかりしている友達は、「忘れ物ってどうやったらできるの?」などと馬鹿にしたような目で私を見るのでした。そんなことを言われても、何かに熱中していると、すっかり忘れてしまうのだからしかたがありません。ある時、音楽の時間にリコーダーを忘れました。当然、ありえない状況です、道具がないのですから、何もできません。クラスの皆が一斉にリコーダーを吹いているのに、私ときたらすることがなく退屈で身の置き場がないのです。まさに集団の中で本物の孤独を味わいました。そこで、そんな状況を思い浮かべて一句、詠みます、忘れ物 したら大変 居場所ない

 小学生の頃、宿題を忘れると何らかの罰はありましたが、忘れ物は自分が困るだけでした。だから、わりと何も考えずにやらかしていました。当時私が住んでいた田舎の村の小学校では、忘れ物をしたら家まで取りに行ってくるのが決まりでした。あたり一面、田んぼや畑の田園地帯を忘れ物を取りに急いで駆け抜けたものです。突然、草むらからヘビがニョロニョロと出てきて心臓がドキドキしたこともありました。怖くて、それでも一気にヘビを飛び越えて走りました。しばらくして、忘れ物をしても家に取りに帰らなくてもいいことになりました。その頃地域で子供の誘拐事件が頻発したとかで、学校で問題になったからでした。「学校に来て忘れ物に気づいても、それはそれでいいから」と先生から言われても、何かと困る状況に陥ることに変わりはありません。忘れ物はしたくてするものではありません。フォアボールを出したいピッチャーがいないように、忘れ物をしたくてする子供もいないのです。

 忘れ物というと、週末に持ち帰った上履きを忘れたとか、あるいは給食当番のエプロンが入った給食袋を忘れたこともありました。上履きの方は自分だけの問題ですが、給食袋はそうはいきません。そうなるとクラスのみんなからの非難の視線が痛くて心に突き刺さります。ちゃんと学校に持ってきたものの、ランドセルに入れたまま寝かせて置いたので洗濯していなかったこともありました。匂いや汚れが付いているので、すぐにバレてしまうのですが、無いよりましです。その点で給食の献立がカレーの時は必ず黄色い汚れが付いてしまうので、初めから誤魔化しが効きません。「このエプロン、洗ってないよ!」給食当番の誰かの声が教室中に響き渡りました。美味しい給食を食べる前に、脇に汗をかいて、穴があったら入りたい気持ちで一杯になりました。

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