人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

お米買えませんでした

今週のお題「お米買えた?」

余裕だったはずなのに、急に不安に

 今週の月曜日に家から歩いて10分のところにある2軒のスーパーにお米を探しに行きました。まだまだ大丈夫と余裕をこいていたのに、いま食べている5kgのお米が半分ほどになったのに気づきました。となると、この次に食べるのは、実家から帰省の荷物と一緒に送ってもらった5kgのお米しかありません。この「しか」という言葉が今のお米事情の現実を如実に表現しています。普段なら、お米が切れそうだったら、スーパーに飛んで行って買って来ればいいだけです。実に簡単で、何の心配もありませんでした。今のような突然身に降りかかったような米騒動は寝耳に水で、最初は、というより今でも俄かには信じられません、鈍感な私としてはなおさらです。

 実を言うと、週末に2度も新米の入荷を目撃したにも関わらず、全く興味がおこらず、パスしました。なぜかと言うと、まだ米のストックがあるのだからそんなに焦って買わなくてもいいいいとの、考えからでした。先週の土曜日、私は冷蔵庫をチラッと見て、何か買い足そうと家から右の方向に進み、いつも行くスーパーに行きました。その時はお米のことなど全く頭にはなく、ただ自分が買いたい商品だけをかごに入れて、レジに行こうとしました。すると、お米の棚があるコーナーで店員さんが何か作業をしていたんです。一体何をしているのだろうと興味津々に思った私が近づいてみると、店員さんは小さな袋,たぶん2kgの袋だと思うのですが、それらを一生懸命棚に詰め込んでいたんです。それがもち米なのか、普通のお米なのかは定かではありませんが、とにかく商品の入荷があったことは確かなのです。はそれほどでもない

 その時の私は、なあんだ、2kgかと思うくらいで、さっぱり心は動きませんでした。でも、少しの間見ていたら、今度は何と5kgのお米の袋を棚に積み上げていきました。それは袋に茨城産コシヒカリと書かれていて、待ちに待ったお米がついに入ったのでした。「なんだ、お米はちゃんとあるんだ」とホッとした私でしたが、周りにいるお客さんの反応はそれほどでもありませんでした。誰もお米に近寄ってくる人はいませんでした。それどころか、皆今のところは米騒動に静観しているように見えたんです。今思えば、反響の少なさを意外に思ってか、油断したのがいけなかったんです。この様子なら、いつでも買えると思ってしまったんです。それがそもそもの間違いでした。店員さんがお米の棚をいっぱいにするのを横目に見て、スルーし、さっさとレジに行き、会計をして帰りました。それが忘れもしない、土曜日の午前11時頃でした。誰かが言っていた「お米を手に入れるなら、開店間際に行くといい」という教訓はたいして役には立たないようです。いずれにせよ、後悔先に立たずで、この時の私は自分が後悔するなんてことは夢にも思いませんでした。昔何かの小説で読んだのですが、「チャンスの頭は禿げ頭」という表現があって、髪がない。要するに、逃したらそれでおしまいなのです。

 さて、翌日の日曜日にお米を探すのが目的ではなく、今度は家から出て左の方向にあるスーパーに出かけたついでに寄りました。夕方にフラッと寄っただけでたいして目的などありませんでしたが、そこであるものを発見したんです。そう、それは平積みにされた新米で、無洗米のふさおとめと普通にお米の2種類が置いてありました。たしか無洗米が2袋、普通のは4袋あったでしょうか。考えてみると、夕方にお米がこうやって残っている光景はなんだか不思議な感じがします。世の中の人はお米を必死になって捜し回っていると言うのに、これはいったいどうしたことなのだろうと疑問符が頭のあちこちから浮かんできます。そう思っている私も、まだそれほど切迫感はありませんでした。

 ところが、どうにかなるでしょうと楽観していた私も、9月に入るとなんだかそわそわしてきました。それは全くの個人的な理由からなのですが、10月に予定している海外旅行に無洗米を持って行くつもりなのです。そろそろ準備が必要なので、お米を買わなくちゃとなり、月曜日にもしかしら一つくらいは残っているかもしれないと言う一縷の望みを抱いてスーパーへと向かったのですが、見事に振られました。世の中はそう甘くはないのです。偶然ではあっても、チャンスを逃したら、もうそれでおしまいなのでした。

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