人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

コロナに罹るということは

病院の中に入らせてもらえない?

 最近夫がコロナに罹った桐原さんから、信じられない話を聞いた。それは、桐原さんが実家に夫が元気になった旨を報告した時、義姉から聞かされたことだった。実家では桐原さんの兄の月命日には毎月お寺の住職がお経をあげに来ていた。その人のことを義姉は「お寺さん」と呼んでいた。兄の月命日は28日で、その日もお経の後、お茶を飲みながら世間話をしていた。その時、義姉は今度の法事のことを切り出し、妹は夫がコロナになったので、来られなくなったという話をした。すると、お寺さんは、「実を言うと・・・」と言いながら、自分が月初めにコロナに罹った話をし出したので、義姉は仰天した。寺の住職にいつも来てもらっているのは28日なので、ひょっとしたら、ひょっとして、運が悪かったら知らずに感染してしまっていたかもしれない。義姉の頭の中はそんな思いでぐるぐる回っていたが、幸運なことに何もなかった。油断大敵である。義姉はこれまでコロナワクチンを一回も接種していないが、自ら持っている免疫力のおかげでコロナに罹らずに生き延びてきた。そんな人だから自分の健康には自信があった。

 それはさておき、特筆すべきは寺の住職が病院に行った時の対応の仕方で、熱があると訴えた途端に、「外で待っていてください」と言われてしまったのだ。もちろん、そんな大きな病院ではなくて、田舎の小さな医院だろうし、また住職も当然車で来ていた。外というのは、「車の中で」という意味で、仕方なく車の中で待つことにした。ところが、いくら待っても、誰も呼びに来ない。いったいどうなっているのだろうと悶々として待つこと、2時間、ようやく先生がやって来た。その先生の格好と言ったら、テレビのニュースなどの映像でお馴染みの完全防備の服装で、どう考えても大袈裟すぎやしないかと言うのが本音だった。自分がまるで病原菌の塊のごとく感じられ、戸惑うばかりだったが、5類になっても、コロナはコロナなのだろう。結局、住職は車の中で検査を受け、病院の中には入らずじまいで終わったというのが話の落ちである。もちろん、住職は1週間ほど休養を余儀なくされたが、自分がコロナに罹ったことは誰にも言っていなかった。

 病院によって、あるいは地域によっても、コロナ患者への対応は違うのかもしれない。それにしても、2時間も放っぽっておかれるとは何とも理不尽だ。住職もその事を一番声を大にして言いたかったのだろう。桐原さんの夫にしても、1週間も会社を休んで、家でゴロゴロ、いや、静養したことなどかつてなかった。以前、インフルエンザに罹ったことはあるが、あの時は4~5日で済んだ。人生で初めて1週間以上、正確に言うと、10日間も外に出歩かず、家でじっとしていた。普通に考えたら、果たして、駅まで歩いて行って、無事に電車に乗れるだろうか、という素朴な疑問に突き当たった。少なくとも、桐原さんはそう考えて、心配になった。夫も、冗談交じりに、「まだ、会社あるかなあ」などと軽口を飛ばす。

 さて、会社に行ってみると、「大丈夫?」と皆に声をかけられるかと思ったら、全く違った。コロナに罹って生き延びた自分が会社にいるだけで、「なんか熱があるような気がする」だの、「喉がちょっといがらっぽい」だのと、次々と皆は不調を仄めかす。まさか、直接的な原因が自分にあるとは決して思わないが、それくらい職場でコロナ患者がでると、皆が警戒するのだ。それに関しては、桐原さんの夫にも言い分があった。元はと言えば、部下のひとりが職場でひっきりなしに咳をしていて、それが自分に染って、調子が悪くなった。咳だけでなく、痰まで出だして、身体が弱っている時に、何処かでコロナに感染したのは間違いない。その張本人はいまなお咳をしながら、仕事をしていた。全く忌々しき事態だと思っているが、大きな声では言えないのである。

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