人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

緑内障の検査をする

ある日突然、視野が半分欠けるのは嫌だから

 先日、9月から通っている眼科で、緑内障の検査をした。緑内障は視野が欠けて、目が見えなくなる病気だが、今の眼科を受診するまでは自分とは全く関係のない病気だと思っていた。よく話題になる白内障とどう違うのかなどと、全くの他人ごとだったが、それが今ではもしかしたら将来自分事になりうる病気になった。軽く考えていた私は、眼科の先生から、「40代以上の20人にひとりは緑内障なんですよ」と言われて、ショックを受けた。先生によると、緑内障は静かに進行する病気で、「なんだか最近目が見えなくなった」と眼科に駆け込んだ時にはもうすでに視野が半分欠けているケースが多いと言う。そうならないためにはどうすればいいか、それには定期的に検査を受けることで、特に重要なのは視野検査で、片目づつ、実際はとても長く感じるが、およそ8分間集中しなければならない。

 初めて視野検査をした時はやたらボタンを押しすぎて、エラーばかり出して、先生に注意されてしまった。視野検査のやり方は、レンズを覗くと向こう側に丸い円があってその真ん中で小さなオレンジ色のライトが光っているので、検査の間はその一点だけを見つめるように言われる。そして、そのオレンジを見つめたまま、四方八方から白い光が出るので、その光を感じたら、手元のスイッチを押す仕組みになっていた。その間、決して目をキョロキョロさせてはいけないと言われるが、ついつい、次々と出て来る白い光を目で追ってしまって、係りの人に「何でもないところで押してますよ」と指摘される。ただ一点だけを見つめることは、想像するよりはるかに難しいことだと痛感する。それに、私の集中力は8分間もたない。最後の方は眼がぼやけてしまって、白い光が見えなくて、「あれれ?」となり、焦りまくった。

 さて、検査を終えた後、先生の診察を受けた。前回目の神経の検査で、左目の下部の神経が普通よりも薄いと指摘され、その場合は左目の上半分は見えていないのだとはっきり言われた。そのことは、視野検査の結果に如実に表れていると指摘される。だが、自分としては全く自覚がない。きっと、緑内障もそんなふうにして気づかないまま進行するのだろう。先生の話によれば、人は視野が半分欠けて初めて、「なんかおかしい」とか、「見えなくなった」と自覚するものらしい。だが、それではもう遅くて、現代の医学でも元通りにすることはできないらしい。そうなったら、現時点でできることは、緑内障をこれ以上進行させないための目薬を毎日差すしか方法がないそうだ。なので、眼科での定期検診がどれだけ大事かかがわかる。だが、眼科というのは、何かない限り、行かなくていいと言うか、行く機会が無いところだ。昨今は薬局に行けば、目の充血ぐらいは何とかなる目薬が売っている。

 私も、正直言ってもう10年くらい眼科に行っていなかった。以前は春先に花見に行くと必ず目がウサギのように赤くなった。その度に毎年眼科に行っていたが、いつしかアレルギーを言い訳にして、花見にも行かなくなった。眼科とは無縁な生活が続き、これから先も行く機会がないと思っていた。だが、どうしたことか、今年の”沸騰化”と揶揄される前代未聞の暑さに私の右目はどうにかなってしまったのだろうか。想定外の暑さがやっと一段落したとホッとした束の間、9月の初旬のある日、突然顔の右半分が痛くて、顔が洗えなくなった。特に右目の周りとおでこが痛くてズキズキした。右目を鏡で見てみるが、赤くなってもいないし、別におかしいところはない。それでも、このままでは普通の生活は送れない。おそらく原因は眼に間違いないと判断し、家の近くにあって、ネットで予約できる眼科で見てもらうことにした。もちろん、優しい先生が居て、親身になって貰える眼科はあるにはあったが、残念ながらそこは家から遠かった。

 コロナ禍の間は幸運にも何も起きなかった。ただ、突然の失明で今の幸せを奪われるくらいなら、予告があった方がましだと思うことにした。眼科の定期検診を受けている限り、突然の失明とは無縁だからだ。それにしても、私にとって視野検査はストレスだ。あ、そうそう、この間、久しぶりにやったら、全然進歩していなかった。それだけならいいのだが、私の次に視野検査を受けている男性が看護師さんに「じょうずですね」と褒められていた。どうやらそれは右目で、これから左目をやるところだった。私の座っているすぐ隣で検査しているのだが、この人のスイッチを押すリズムがあまりにも素晴らしくて、穴が合ったら入りたくなった。それがあたかも音楽かなんかでもあるかのように、カチッ、カチッとリズムカルに音が響いていた。検査が終わるまで、カチッという音は途切れなかった。

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