人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

小島なおさんの「読書日記」を読んで

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いつまで友だちと呼べるのだろうか

 朝日新聞歌人小島なおさんの連載「読書日読」を読んで、ふと自分の友達について考えてしまいました。特にもう思いだすこともない忘却の彼方にいるはずの彼女たちのことを。小島さんは三浦しをんさんの小説「ののはな通信」のついての感想をこう書いています、「友だちという人間関係の儚さと確かさの究極の形を見せてくれる」と。この小説はミッション系の高校の同級生二人の往復書簡という形で物語が進んでいきます。女子高にありがちな話なのですが、同性なのに恋愛感情を持ってしまうのです。今の世の中において、こんな風に書くと非難されそうですが、昔は人の多様性など理解されませんでした。同僚の男性は家に帰る途中、薄暗闇の中で女子高生と思われる二人がキスをしてしまうのを偶然見てしまいました。一瞬、驚きましたが、不思議なことに嫌悪感はなかったそうです。男性にとっては女性同士ならまだ許せる?そうで、もしもこの二人が男性だったら「気持ち悪くてゲロを吐きそうだ」と言うのです。まあ、これは彼の個人的な意見なので気にすることもないのですが。

 話を戻すと、小島さんが言いたいのは、「もう会わなくなった人たちを、今も友だちと呼べるのだろうか」ということです。友だちと堂々と呼べるのが許されるのはいったいいつまでと疑問を投げかけているのです。自分がいまでも友達と思っていても、向こうは違うかもしれない、そんな関係を友だちと言えるのだろうか。ほとんど会えていなくても、それでも友だちには違いないと思える関係が理想なのだろうか。考えてみると、人生は人との出会いと別れの繰り返しで、まさに一期一会なのです。

昔の友達と連絡を取ったら

 以前読んだ本によると、「人は一度出会ってしまったら、もう二度と別れることはない」そうで、当時はその意味がよく分かりませんでした。人と出会った記憶は必ず人間の頭や心の片隅に残っていて、いつでも思いだすことができてしまう、つまり再会できる、今ならそう解釈できます。誰か、例えば好きだったあの人に会いたいと思ったら、記憶の中で会えてしまうのです。日常生活の中で、特に理由などないのに、過去の友達のことをふと思い出すことがあります。当時の楽しかった思い出が頭の中を駆け巡り、懐かしさのあまり「ぜひ会いたいなあ!」という気持ちがムクムクと沸き上がってきます。でも、あの頃とは全く境遇も違うし、共有する情報もないし、話すことも過去のことしかないのです。そういった様々な憶測がブレーキをかけて、何よりも相手が今どこにいるかもわからない現実があるので、思いとどまるしかありません。ドラマのように都合よく相手は現れないのです。

 私もひとりよがりの想いに突き動かされて、幼馴染の女性に電話をしてしまったことがありました。たまたま昔の電話番号を書いた手帳を持っていたからできたのです。こちらとしては心は当時のままなのですが、相手は当然現実を生きている人なので、気持ちの熱量に差があるのです。少し話をすれば打ち解けて昔のように、とうまく行くわけはありません。結婚をし、仕事と育児に追われている彼女に旧友の突然の電話に付き合う余裕はありませんでした。それでも彼女は私の友達に間違いないのです、過去にかかわりあった事実は決して消えることはないのですから。人は人生の中でドタバタが終わった後に過去のことを懐かしく思い出すときがあるそうです。そんな時に彼女が私のことを思い出すことがあるかも、と考えるだけでワクワクします。

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